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完全な身代金(マルコ10:32-45) 20250504

  • 執筆者の写真: 金森一雄
    金森一雄
  • 1 日前
  • 読了時間: 9分

本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年5月4日復活節第3主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会 伝道師 金森一雄 



(聖書)

サムエル記下24章18-25(旧約524頁)

マルコによる福音書10章32-45節(82頁)

 

1.先頭に立って

 

先週の聖書箇所マルコによる福音書10章32節に、「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」と書かれています。弟子たちは、何を驚き、恐れたのでしょうか。先週、私たちが御言葉を聴いた箇所の最後のところ31節に、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」と書かれていました。この言葉を言われた直後に、主イエスは先頭に立たれたのです。そして間もなく、主イエスは一番後ろに立たれて十字架にお架かりになるということです。ここでは先頭に立たれ、そして間もなくエルサレムで最後尾に下がられることになるのです。

 

これまでの歩みの中で、主イエスの命が脅かされているということは、もはや明白になっていましたから、先頭を進んで行かれる主イエスの姿を見て、弟子たちは驚き、そして恐れているのです。実際に、受難予告もすでに二度なされています。今日の予告が三度目です。そして、主イエスにこれから死が訪れることについて、「イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。」のです。

 

主イエスの三度目の受難予告は、さらに具体的になっています。

「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」と書かれています。一度目、二度目の受難予告の言葉と比べてみますと、三度目の受難予告では、「彼らは死刑を宣告して」という言葉が初めて登場しています。これまでの受難予告には、なかった言葉です。死刑の宣告ですから、その前には裁判があるということを意味しています。

 

マルコによる福音書10章33節では、「異邦人(ローマ)に引き渡す」と、そして34節には、「侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す」と、裁きの結果が書かれています。主イエスは、そういう裁きを受けられたのです。

そして34節に、「三日の後に復活する」と書かれていますが、「三日の後に復活する」という言葉は、三度の受難予告いずれにもあります。

主イエスの切り拓いてくださった道には、罪の赦しと新しい命があることが示されているのです。


2.ヤコブとヨハネの願い

 

35節で、ゼベダイの子ヤコブとヨハネがイエスに近づいて、「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」と言っています。

そして37節で、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」と言っています。「栄光をお受けになるとき」とはどういう時なのかは、はっきりとは示されていませんが、当時のユダヤ人のメシア思想では、キリストが王としてイエスが権力の座に着くと考えたのでしょう。その時、イエスの左右に座らせてくださいというのです。


38節で、主イエスは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」と言っています。39節で、よく分かっていないと言われた二人は「できます」と答えています。

すると主イエスは、39、40節で、「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」と仰っています。

これから主イエスが受ける杯や洗礼をあなたも受ける覚悟はあるか、と主イエスが弟子たちに問うています。特に杯とは、壮絶な苦しみを味わわなければならないもので、主イエスは、マルコ14章36節のゲッセマネの祈りの中で、「この杯をわたしから取りのけてください」と祈っています。

 

41節には、この二人の願いを聞いて、「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。」と書かれています。なぜ腹を立てたのでしょうか。他の弟子たちも同じような願いを心の中に持っていたからです。自分たちが知らないところで、自分だって同じ願いがあるのに、勝手にそんなお願いをするなんて、という思いが怒りにつながったのでしょう。

 

この二人は自分が何を願っているのか、キリストの左右に座るとはどういうことになるのか、まったく分かっていなかったのです。キリストが受ける杯、洗礼とは、キリストの十字架を指し示している言葉です。キリストが十字架での死を遂げる時に、二人の犯罪人がその左右で十字架に架けられています(マルコ15:27)から、この二人の願いが叶わなかったと言うことになります。

 

そして42節には、そこで、主イエスは一同を呼び寄せて、「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」と言われています。

 

「支配者と見なされている人々」と言うのですから、本当の支配者ではなく、単に「見なされている」だけだと主イエスは言われているのです。権力を持ち、力を持っている。けれどもその支配は一時のことにすぎないと言うのです。

43、44節で主イエスは、「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」と仰っています。そして、弟子たちはキリストに倣って皆に仕える者として生きるものに変えられていったのです。

 

ところが最後の45節には、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」と書かれています。

ここで「身代金」という言葉が使われています。身代金とは、誘拐の事件などでよく聞く言葉です。誰かが捕まって、その人を解放するために、身代金が支払われなければならない、というときに用いられます。

かつての口語訳聖書では、「身代金」ではなく「あがない」と訳されていました。新改訳聖書では「贖いの代価」と訳されています。

主イエスは来てくださいました。ご自分の命をもって、人を生かすために、身代金として弟子たちの的を外した罪の代価を支払ってくださいました。メシアとして、上からの力によってではなく、キリストが人の下に立つという、神の愛、それが十字架です。

 

3.人間は自分では代価を支払いきれない

 

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書は、サムエル記下24章(旧約524頁)です。

冒頭の24章1節の小見出しに「ダビデの人口調査」と書かれています。ダビデ王が、「主に誘われて」、イスラエルの人口調査をしてした出来事が書かれています。

 

当時のイスラエルは、戦いに際しては、神や指導者の呼びかけに応じて自発的に兵が集まる義勇軍によって構成されていました。その戦いを勝利に導くのは神の霊であるという信仰をもって戦っていました。人口調査は徴税か徴兵のために行われますが、この時は、24章4節に「王の命令は厳しかった」と書かれていますから、ダビデは兵を人工的に組織し編成して行くことを意図したのでしょう。そうであるなら、ダビデは神の領分を犯す罪を犯したといえます。それにしても、ダビデがそんな大罪を犯すように、主が「誘われた」とはどういうことかと考えさせられます。「誘う」とは、そそのかしたと訳せる言葉です。


同じ出来事を書いている歴代誌上21章(旧656頁)1節では、ダビデを誘ったのは神ではなく、「サタン」であると変更しています。歴代誌は、神学的な観点から、神の義について神の免責をしたことになります。主が「ダビデを誘われた」というサムエル記の不可解な書き方のほうが、真実を伝えているのでしょう。24章10節に、「民を数えたことはダビデの心に呵責となった」と書かれています。そして、ダビデは主に「わたしは重い罪を犯しました。主よ、どうか僕の悪をお見逃しください。大変愚かなことをしました。」と言ったと書かれていますから、サムエル記では、人口調査は自明の罪として批判しているのです。


そして、24章15節には、ダビデの犯した罪の裁きが行われたことが書かれています。ここではこれ以上お話ししませんが、裁きは、疫病による7万人の死でした。

サムエル記は、神の摂理に対する信仰の問題が主題となっています。災いについて語ることを目的としているのでなく、災いの後にもたらされる祝福に焦点が合わされているのです。

  

サムエル記下24章19節に、ダビデが「主が命じられたガドの言葉に従い上って行った」と書かれています。ガドは預言者です。すると、神を礼拝するための場所を無償で提供するというアラウナが現れます。アラウナな裕福な人で、昔アブラハムがイ サクを捧げた所であり、後にソロモンが神殿を建てることになるその場所の所有者でした。しかし、ダビデは、24章24節で「いや、わたしは代価を支払って、お前から買い取らなければならない。無償で得た焼き尽くす献げ物をわたしの神、主にささげることはできない。」と言って、その麦打ち場と捧げ物の牛を銀50シュケルで代価を払って買い取ります。そして25節には「主はこの国のために祈りにこたえられ、イスラエルに下った疫病はやんだ。」のです。

 

この時の疫病は、主の言葉に従ったダビデが、主のための祭壇と焼き尽くす献げ物と和解の「献げ物」をささげることによって収束しています。この捧げ物は身代金とも訳されます。

人間の歴史を振り返ると、ダビデのように身代金を支払わなければならないような事態は延々と続いています。人は身代金を払えたとしても、また何らかの罪を犯すのです。

罪の繰り返しが行われる中で、神はどうしようもないわたしたちを憐れんでくださいました。そして、罪のない神の独り子による「完全な身代金」としてわたしたちの罪の代価を支払ってくださったのです。罪との決別を行うことを主は望んでおられるのです。

 

現代の教会に生きるキリスト者は、このことを信じ、主イエスの御言葉に従う者です。

わたしたちの罪のために、キリストが「完全な身代金」としてささげられたことを信じる者として、また、キリストの復活を信じて希望を持って、喜んで従う者でありたいと願うのです。キリストは、力をもってわたしたちを服従させられるお方ではありません。

主イエスキリストを信じ、喜んで従う希望を望み見て、共に一所懸命に歩み続けましょう。


 

 
 
 

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