top of page

祈りの意味(マルコ10:46-52) 20250511

  • 執筆者の写真: 金森一雄
    金森一雄
  • 1 日前
  • 読了時間: 9分

更新日:3 時間前

本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年5月11日復活節第4主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会 伝道師 金森一雄 

 

(聖書)

歴代誌下1章7-12(旧約671頁)

マルコによる福音書10章46-52節(83頁)

 

1.何をしてほしいのか

 

今日のマルコによる福音書の第10章51節以下では、盲人バルティマイが、主イエスに「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んで言うと、51節で「何をしてほしいのか」と主イエスが問われています。盲人バルティマイは、「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えています。


先週のマルコによる福音書10章35節でも、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが、主イエスに「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」と言うと、36節で「何をしてほしいのか」と主イエスが問われました。

37節では、ヤコブとヨハネが「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」と言っています。

 

執筆者のマルコは、意識的にこの二つの話を三度目の受難予告の記事の後に連続して書いているのでしょう。願いごとをする相手が違っても、主イエスは「何をしてほしいのか」と同じ問いをしています。ところが、問われた側の答えは、まるで違います。


もしわたしたちが神様に一つだけ願い事をすることが許されるとすれば、誰も自分の一番の願いをすると思います。ヤコブとヨハネの願いも、盲人バルティマイの願いも、それぞれ自分の一番の願いごとを言ったのでしょう。それにしても、ヤコブとヨハネの願いは、どこかが違うのではないかと思われている方も多いと思います。


もし、自分の一番の願い事が叶ったならば、その後はどうなると思いますか。

ヤコブとヨハネの願いは、主イエスの左右、すなわちもっとも上席に座りたいというものでしたが、もしこの願いが叶ったら、次の願いは何でしょうか。ずっとその位置にとどまりたいと願うのでしょうか、あるいは、自分たちの待遇をもっとよくしてほしい、あるいは、自分の身内を同じような高い地位につけて欲しい、と願い出すかもしれません。

そのような願いは際限がなくなります。小さな子供が「一生のお願いです」と言っているのと同じです。そういう願いをする人は、今日も明日も明後日も、来る日も来る日も「一生のお願いをする」ことが続くのです。

 

盲人バルティマイの場合はどうだったでしょうか。51節で、バルティマイは「目が見えるようになりたいのです」と願いをしました。そしてこの願いは叶えられます。願いが叶うと、また別の願いをしたでしょうか。そうはしていません。

52節には、バルティマイは、主イエスに「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われて、すぐ見えるようになりました。そして「なお道を進まれるイエスに従った。」と書かれています。バルティマイは、新しく生きる者に変えられました。そして主に従う者となったのです。

 

2.ソロモンの祈り

 

今日与えられた旧約聖書、歴代誌下1章10節には、神から「何事でも願うがよい、あなたに与えよう。」と言われたソロモンが、神に立てられた王として民を裁くために必要な「知恵と識見を授け、この民をよく導くことができるようにしてください。」と願ったことが書かれています。

ソロモンは、他の人が求めるような、地上での富、財宝、名誉、宿敵の命も、長寿も求めなかったのです。

12節には、神から「あなたに知恵と識見が授けられる。またわたしは富と財宝、名誉もあなたに与える。あなたのような王はかつていたことがなく、またこれからもいない。」と言われたと書かれています。


わたしたちが、自分の利益や地上の豊かさだけを求め、それだけのために生きて、それだけが生きる目的になっているとすれば、神は喜ばれません。この地上で、どんなに豊かになっても、それはこの地上だけの喜びです。永遠に続くものではありません。

 

三つの聖書箇所から御心を尋ねてみたいと思います。

テサロニケの信徒への手紙5章3節(新378頁)には、「人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。」と書かれています。わたしたちが自分の利益、地上の豊かさだけに信頼を置いているなら、どこかで失望してしまうことになるのです。


また、Ⅰヨハネの手紙5章14、15節(新446頁)には、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」と書かれています。

わたしたちの周りには、無数の情報が飛び交い、いろいろな意見が存在します。その一つ一つについて、神の御心に適うものかどうかを見分ける必要があります。御言葉を学び続け、御心を求めて御心を知ることが大切なのです。

 

マタイによる福音書6章33節(新11頁)には、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」と書かれています。主なる神の知恵と知識を求め、御心を第一にして生きるなら、神に喜ばれ、それらの神の知恵と知識が与えられるばかりか、求めなかった地上での必要なものも与えられるのです。

ソロモンのように、わたしたちが神の知恵と知識を日々求め、御心を知ることを第一に求める生き方をして、神に喜ばれる歩みをさせていただきたけますよう祈ります。

 

3.誰に願うか?

 

ところで、何を願うかということよりも、誰に願うかということを、先に決めなければなりません。何を願うかよりもずっと大事なことです。

わたしたちが何かを願っているとすれば、誰かにそれを願っているはずです。誰に願っているのかがよく分からない場合には、独り言ということになってしまいますし、自己満足で終わります。

また、願い事が叶ったらば、叶えてくださった方への感謝を表すことが大事です。それが自分の一番の願い事であったならばなおさらです。

感謝することによって、わたしたちの生き方が変わるのです。

 

盲人バルティマイの場合もそうでした。目が見えるようになりたいというのは彼の第一の願いです。しかしこの願い事が叶ったならば、何が待ち受けていると思われますか?

待望の目が見える生活が待っています。

これまでバルティマイは目が見えないので、これまで「物乞い」をして、道端に座っていました。目が見えるようになったら、道端に座ってばかりというわけにはいかないでしょう。自分の力で精一杯のことをして生きていくことが必要となります。背伸びする必要はありませんが、人様の力に頼ってばかりにはいかなくなります。

バルティマイが、そこまで考えていたかどうかは分かりませんが、願い事が叶うということには、このように大きな責任が伴うのです。


バルティマイは、主イエスに願い事を叶えていただくと、自らの判断で、なお道を進まれる主イエスに従うことによって自分の責任を果たす道を選んだのです。

4. バルティマイの姿勢


バルティマイは、主イエスにいやされる前も後も、主イエスへの異常なこだわりを見せています。47節で、物乞いをしていたバルティマイは、「ナザレのイエス」が通られていることを聞いて、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び始めています。48節では、「多くの人々が𠮟りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。」と書かれています。

「ダビデの子」というのは、ユダヤ人にとって来るべき救い主(メシア)を表す言葉です。バルティマイは、「ダビデの子」が救い主だと聞いていたのでしょう。


 バルティマイの叫びが聞こえました。49節で主イエスが立ち止まって、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と声をかけています。すると50節で、バルティマイは、「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」と書かれています。躍り上がると言う言葉は、聖書では、礼拝の喜びを表現する言葉です。大喜びをしながら、もう目が見えたかのような歩き方をしています。

そして52節で、主イエスから「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われます。主イエスを信じ、主イエスにひたすら願い、そしてバルティマイは、「すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」と書かれているのです。

 

このバルティマイの目のいやしの成り行きの中で、特徴的なことがあります。それは、主イエスの目を開くための動作が一切書かれていないことです。マルコによる福音書の8章の盲人の癒しでは、人々が主イエスに盲人に触れていただきたいと願って、主イエスが盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置かれて、「何が見えるか」と確認された後、もう一度両手をその人の目に手を当てられています。主イエスの盲人への心遣いが伝わり、盲人の目が徐々に開かれていく様子が詳細に書かれていました。ところが、バルティマイの目が開かれる記述においては、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と、主イエスが言っているだけです。そしてバルティマイは、すぐに見えるようになります。そして、主イエスに「行きなさい」と言われて、盲人バルティマイは自分の行きたい道を歩み出したのではありません。「なお道を進まれる主イエスに従った」と書かれています。道端に座って物乞いをしていた盲人バルティマイは、罪による闇の中で、真の救い主である主イエスを見い出せない状態から、目を開かれた者に新生されて主イエスの後に従って、共にエリコからエルサレムに上る道を歩み始める者へと変えられたのです。

 

5.結語


今もわたしたちに、主イエスは「何をしてほしいのか」と問いかけています。

今、一番願っていることを、主イエスに向けて祈りましょう。遠慮する必要はありません。そうすれば、願い事が叶うとは申し上げません。願い事は叶うかもしれませんし、叶わないかもしれません。わたしたちが今願っていることが変わるかもしれませんし、願い続ける必要がなくなるかもしれません。迫害もあるかもしれません。

 

しかし、はっきりと申しあげることができることは、主イエス・キリストが必ずよいようにしてくださるということです。

わたしたちには、自分本位の願い事から解き放たれて歩む祝福と希望に満ちた道が拓かれます。主はわたしたちに「何をして欲しいのか」と聞いて、わたしたちの願い事を整理して聞いてくださり、落ち着くべきところに落ち着かせてくださるのです。

今日、礼拝に出席されているお一人お一人に、主が用意してくださっているよき道を見出して、その道を希望を持って歩み続けられますようにと祈ります。





 
 
 

Comments


お便りをお待ちしています

​折り返し返信させていただきます

kitsuki296@gmail.com

©2024 by 杵築教会へようこそ. Proudly created with Wix.com

bottom of page