神は何でもできる(マルコ10:17-31) 20250427
- 金森一雄
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本稿は、日本基督教団杵築教会における、2025年4月27日の復活節第2主日礼拝の説教
要旨です。 杵築教会 伝道師 金森一雄
(聖書)
詩編34編2-23節(旧約864頁)
マルコによる福音書10章17-31節(81頁)
1.神お一人しかいない
本日、与えられた聖書箇所のマルコによる福音書10章17節に小見出しでは、「金持ちの男」と書かれている「ある人」が出てきます。ルカによる福音書18章18節では、「金持ちの議員」と書かれています。以下、ルカの金持ちの議員ということとして説教を進めます。
17節の冒頭に、「イエスが旅に出ようとされると」と書かれています。いよいよ、主イエスがユダヤ地方から主イエスに与えられた十字架に向かうエルサレムへの旅に出られる時が来たことを執筆者のマルコは告げています。
金持ちの議員が、走り寄って来て「ひざまずいて」、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのでしょうか。」とイエスに尋ねました。すると主イエスは、18節で、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と答えられています。
その人は議員さんですから先生と呼ばれていたでしょう。しかし、主イエスは『善いἀγαθοὺς』という言葉は、ユダヤ教の文脈において神の性格とその戒律と密接に結びついていた神の性格を反映する道徳的・精神的な善を指す言葉であり、神さまだけに用いる言葉だと指摘されたのです。
このことは、教会の牧者・伝道者や教師や医者が、『善い先生』と呼ばれていることに対する警鐘となります。牧者が、人格を通してそれぞれの働きについて真理を伝達することに専心していても、人から先生と呼ばれている中で、『善い』と言われたいという誘惑が生じてしまうのです。だからこそ主イエスは、人々がイエスに対する尊敬や愛着を表すときに、教師が神に代わって『善い先生』と言われる存在になってはならないというのです。
19節で、主イエスは、当時生活の基礎となるものとして大切にされていた十戒の言葉を用いて、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と、言われました。
20節で、金持ちの議員は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えています。すると、主イエスは、その人を「慈しんで見つめた」、と書かれています。慈しむと言う言葉の意味は、主が愛する、アガペーの心を持ったと言うことです。
そして、「見た」という言葉は、主イエスの愛の眼差しが注がれたことを表現しています。主イエスの愛が、金持ちの議員に対して重なったような表現をしているのです。
21節で、主イエスは続けてあなたに欠けているものが一つあると仰っています。
そして、「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と言われました。
主イエスからのその人に投げかけられた強烈な召命の言葉のように感じます。
わたしたちは誰もが、たくさんの欠けがありますので、ここで主イエスは、金持ちの議員に対して、複数の物事について指摘されたようにも感じられます。
持ち物を売り払い、貧しい人々に施すことは、天に富を積むことでしょうか。
しかし主イエスは、「欠けているものが一つ」と言われているのですから、その言葉が、「わたしに従いなさい」ということにかかっているのでしょう。
すると22節で、その議員先生は、主イエスのこの言葉に気を落として、悲しみながら立ち去ってしまいました。その理由として、たくさんの財産を持っていたからである、と書かれています。議会の大切な仕事が待っていたのでしょうか。どのような財産の整理に行ったのでしょうか。
最初から主イエスは、この金持ちの議員の欠けを見抜かれていて、主イエスの愛の眼差しが注がれています(21節)。そしてその人は、自分の欠けを知ることになりました。
自分の欠けを知ることはとても大事なことで、そこから人は変わっていくのです。この金持ちの議員は、その場を立ち去りましたが、神の国から除名されたのではありません。愛の眼差しを注がれていますから、神の御手の中にあるのです。
現代の杵築教会のわたしたちと同じです。主の招きにこたえて洗礼を受けたとしても、教会から立ち去る人がいます。長期欠席の不在会員になったり、別帳会員になったりします。その理由は区々です。それでも、主イエスの愛の眼差しが注がれた人は、神様のご計画の中にある主に招かれた人です。決して取り消されるものではありません。主の眼差しをいただいたことを覚えて、その後も主に従うかどうか、私たちが主の愛の中に飛び込むかどうか、そのことが問われているのです。
2.だれが救われるのだろうか
23節で主イエスは、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」と言い、25節では、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と、言葉を言い換えて同じことを繰り返しています。
当時の社会では、人は富めば富むほど御国に入ることが確実となると考えられていましたから、24節に「弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。」と書かれています。
25節に、らくだが針の穴を通るという、不可能を表すたとえが語られています。人間には不可能だと、主イエスが言われているのです。
26節にも「弟子たちはますます驚いて…」と書かれています。主イエスの弟子たちも、主イエスの言葉から衝撃を受けたのです。そして、「それでは、だれが救われるのだろうか」と、人間が救われることは不可能ではないかという反応を示しています。
すると27節で、イエスは彼らを「見つめて」とあり、今度は、主イエスの愛の眼差しが弟子たちにも注がれています。ここでも、主イエスの愛の眼差しが重要な意味を持ちます。
そして「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」と、主イエスが言われたのです(27節b)。
人間には不可能、神には可能。と神の国に入る可能性、希望が示されたのです。
そして28節では、ペトロが「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言っています。
ここから、主イエスの言う通りに何もかも捨てる生き方、しかも喜んで捨てられるという、人間にはできない生き方への挑戦が始まるのです。
29節では、主イエスは「私のためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受ける…」と言われます。
これまで自分が大切にしてきたものを捨てたら、直ぐに黙示録の21章の「新しい天と新しい地を見る」とは言っていません。迫害も受けるし問題はなくなりません。
主イエスのために、福音のためにわたしたちの財産を捨てるというのであれば、福音はよき知らせで、喜びの訪れだというのです。その喜びがあるから捨てられるのです。
何らかの事情で畑(財産の象徴)が自分から取り去られてしまうかもしれません。
それはそれとして、自分に必要のなかったもの、神が取り去ってくださったものとして受けとめることができるようになるのです。もし、畑がそのまま自分の手の中に残るのであれば、神によって与えられた畑として受け取り直すのです。
捨てることによって新たな道が用意されるのです。それによって神から与えられた新たな畑(財産の象徴)として、百倍の祝福を受けた畑(財産の象徴)になります。
母をはじめとする家族の問題も同じです。表面上は何も変わらなかったとしても、あらたに与えられた家族として、百倍の祝福をもって受け取り直すのです。
主イエス・キリストはわたしたちに持っているものを捨てることを求めておられます。
主イエスの十字架の死と復活の出来事を思い出してください。主イエスは、わたしたちに新生することを求めておられるのです。
そこで大事なことは、わたしたちに喜びがあるかどうかです。主イエスのお言葉に従って喜んで捨てるのか、歯を食いしばって後ろ髪を引かれるようにして捨てるのか、主イエスに命じられたので仕方なく捨てるのか、他人の顔色を窺いながら自分の持っている物を捨てるのか、捨てることの中に喜びがあるかないかで、同じ捨てるにしても、まるで違う捨て方となるのです。主イエスのお言葉に従って捨てるためには、喜びがなければできないのです。
主イエスに従うことを妨げている畑をわたしたちはたくさん与えられています。
それは財産だけではありません。地位や名誉、学歴、知識、経験、人間関係…。も含まれています。実際にわたしたちが、全財産を捨てる、施しをしたとすれば主イエスに従うことになるのでしょうか。大事なことは、捨てよと言われているそれらの物事に心を奪われてしまうかどうかです。それでは、わたしたちが、自分の持てるものに執着せず、主イエスに従うためにはどうすればよいのでしょうか。
本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書は、864頁の詩編34編です。
主イエスの眼差しの中で歩むことができる恵みをよく表している詩編です。
詩編34編20、21節に「主に従う人には災いが重なるが、主はそのすべてから救い出し、骨の一本も損なわれることのないように、彼を守ってくださる。」と書かれています。
ここで、主に従えば、災いがなくなるとは言っていません。災いが重なるが守られというのです。逆に、22節では「主に逆らう者は災いに遭えば命を失い、主に従う人を憎む者は罪に定められる。」と書かれています。
そして23節では、再び「主に従う人」に戻ります。そして「主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は、罪に定められることがない。」と書かれています。
主に逆らう者は、結局のところ罪に定められてしまう。
一方、主に従う者は、災いも重なるが、「罪に定められることがない」。という結果になるのです。
3.神は何でもできる
わたしたちは、主イエスの愛の眼差しの中で歩むように招かれたのです。わたしたちクリスチャンは、自分が持っている物を捨てる生き方をすることを求められているのです。
それは、人間には不可能なことですが、それが可能になったとすれば、神がわたしたちに働きかけてくださったということです。
神は、人間にとっての不可能を可能に変えてくださったのです。わたしたちは、そのような神の賜物、ギフトをいただいているのです。
人の救いが、人の努力によるものならば、誰も救われません。自分の力と財産に依存するものは、決して救われません。23節では、わたしたちが喜んで差し出したもの、捨てたものを、百倍の祝福をもって受け取りなおすことこそが祝福だと主イエスが仰っているのです。こうして、神の救いの力と主イエス・キリストの贖いの愛、アガペーを信頼する者は、救いに入ることができるのです。
わたしたちの心の中に、「あなたはそのままでよい、立派にやっている、今のままで大丈夫だ」と、他の人からそう言ってもらいたい気持ちが潜んでいます。
そういう心のままでは、持っているものを捨てることが難しくなります。
何よりも問題なのは、わたしたちに喜びがなくなってしまいます。今持っているものを失ったらどうしよう。捨てなさいと言われたらどうしよう。変えなさい、変わりなさいと言われたらどうしよう、と不安しかないし、守りばかりが気になって不自由で喜びがないのです。
誰もが聖書の言葉の前で、立ちすくむ経験をします。その時、自分はそこそこ、うまくやっている、他の人よりはましだ、と思っていたのでは変われないのです。「やっぱり主イエスのお言葉通りでいることは難しい」となってしまうでしょう。
しかし、難しい、不可能と、諦める必要はありません。わたしたちが変わることができる道があります。人間が変わるためには、まず自分の至らなさを思い知る必要があります。
主に従う者は、災いも重なるが、「罪に定められることがない」のです。
神の救いの力と主イエス・キリストのアガペーに信頼を置く者は、救いに入ることができるのです。「神は何でもできる」と信じ切って、ご一緒に歩み続けて参りましょう。

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