竹井真斉牧師:新たなスタート(マルコ16:1-8) 20250420
- Kazuo Kanamori
- 6 時間前
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本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年4月20日復活節第1主日礼拝での竹井真斉先生(宇佐教会牧師)による説教要旨です。
(聖書)
マルコによる福音書16章1-8節(97頁)
1.墓に向かう女性たち
イースターおめでとうございます!こうして今日杵築教会の皆様と主の御復活、そして洗礼式の喜びに共に与ることが出来、心から感謝をいたします。始まったばかりの2025年度を、この喜びをもってスタートしていく上で、示された御言葉を共に味わって参りましょう。
安息日が終わった週の初めの日、日曜日の朝早くに婦人たちがイエス様の墓に行ったことが告げられています。弟子たちはこの時一緒に行っておりません。マルコによる福音書は、彼女たちが「イエスに油を塗りに行くために香料を買った」と記します。彼女たちは金曜日にイエス様が十字架に架けられて死に、その遺体がアリマタヤのヨセフによって引き取られ、墓に葬られるまで、ずっと見ていました。きっと、イエス様が十字架を担いでピラトの官邸を出た時からずっと、ついて来ていたでしょう。朝から日没まで、彼女たちはイエス様のお姿を追いかけていた。
そして日没と共に安息日が始まります。安息日が終わるまで、土曜日の日没まで、その間は何も出来ず、じっとしていたことでしょう。そして、土曜日の日没、安息日が終わりを迎えると共に、彼女たちはイエス様の遺体に塗るための香料を買いに行ったのです。多分、安息日の間、彼女たちはイエス様の死を悲しんで、泣き疲れるほど泣いていたかもしれません。何も悪いことをしていないのにあんな形で死ななければいけなかったイエス様。しかもイエス様は30代。まだイエス様は道半ばであった。もっとイエス様の旅についていきたかった。もっとおそばにいたかった。そういう思いがあったでありましょう。せめてでもきちんとイエス様のお体を整えて差し上げたい。そういう思いで彼女たちは夜が明けるのを待ってすぐにイエス様の墓に向かったのであります。
2.イエス様の墓にて
けれど、イエス様の墓の入り口は大きな石でふさがれています。3節には「彼女たちは『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた。」とあります。イエス様の墓に行く途中、あの大きな石はどうするのか話し合ったのです。「わたしたちだけではあの石は動かせない。どうしよう。でもやってみるしかないわね。動かせなかったら、誰か男の人が来るのを待っていましょう。」そんな話をしていたかもしれません。この時彼女たちは、イエス様が復活するなどということは考えてもいませんでした。死は絶対です。愛する者の死を前に、遺体に香料を塗るという仕事を見い出し、その仕事に思いを集中することによって、死の悲しみを紛らわせようとする。そこにすべての気持ちを投入していたのでしょう。
ところが、彼女たちがイエス様の墓に着いてみると、石は既にわきへ転がしてあったのです。彼女たちは、誰かが先に来たのかしらと思ったかもしれません。いずれにせよ、石を取り除けるという難問は解決したわけで、彼女たちはイエス様の墓に入りました。イエス様の遺体に香料を塗るために来たのですから、墓に入らなければその作業は出来ません。彼女たちは墓の中に入ったのです。
するとそこにはイエス様の遺体はなく、白い長い衣を着た若者が座っていたのです。この「白い長い衣を着た若者」というのは、天使を指しています。天使である若者は言いました。6節「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」何と天使は、イエス様が復活されて、ここにはいないと告げたのです。確かに、イエス様の遺体はそこにはありませんでした。この時彼女たちは、天使が何を言っているのか良く分からなかったと思います。さらに天使は続けて言います。7節「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」天使は婦人たちにこのように告げなさいと命じました。復活されたイエス様は先にガリラヤに行かれる。そこで再びお目にかかることになると。
イエス様が復活された。しかもガリラヤでまたお目にかかれる。彼女たちは何が何だか分からなかったと思います。そして、婦人たちは墓を出て逃げたのです。ただただ恐ろしく、震え上がり、正気を失っていた。天使に会ってイエス様の復活を告げられ、ガリラヤで会えると言われてもただただ恐ろしくて、震え上がって、そこから一目散に逃げた。これは、聖なる出来事に触れた時の、人間の偽らざる思いであり、行動だったと思います。イエス様の母マリアも天使ガブリエルからお告げを受けた時、恐れ戸惑い、ガブリエルに「マリア恐れることはない」と言われておりました。イエス様の復活とは、実に、天地を造られた神様が、その全能の力をもって自らを顕されたという出来事であり、この聖なる出来事に触れたなら、私たちはただただ恐れ、震え上がるしかない、そのような出来事なのであります。
天使はここで、「かねて言われたとおり」と告げましたが、それはマルコによる福音書14章28節にある言葉を指しています。ペトロが3度イエス様を否定する出来事をイエス様が予告された時、28節で「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」と告げておられたのです。イエス様の御復活はこのように、前もって弟子たちに告げられていたことでした。
それは、マルコによる福音書10章33~34節、9章31節、8章31節において、三度も御自身の十字架と復活を予告されていたのです。
しかし、弟子たちは、それがどういうことなのか分かりませんでした。天使に告げられて、そして復活のイエス様と出会って初めて、そういうことだったのかと分かったということなのでしょう。復活とはそういうことなのです。私たちの想像をはるかに超えていることだからです。
3.ガリラヤにて
天使は、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。」と告げました。ガリラヤとは弟子たちの故郷であり、イエス様と弟子たちが出会った場所であり、共に生活した土地です。そこで再び会うというのです。それは、弟子たちとイエス様との再出発を意味していたのでしょう。弟子たちはイエス様が捕らえられた時に逃げてしまいました。ペトロはイエス様を三度知らないと言ってしまいました。その彼らに、イエス様は再びガリラヤで会おうと言われる。それは、弟子たちをもう一度弟子として召し出し、やり直しさせるためでありました。弟子たちにはイエス様と再びやり直すためのガリラヤが必要だったのです。
私たちにもガリラヤがあるのです。本日TSさんとTKさんの洗礼式を行いました。洗礼の出来事は新たなスタートです。古い自分に死んで、新たな命に生き始めていくそのスタートです。洗礼を受けたら、これまでの自分とは違います。罪赦された者として、主がこの私のすべてを究め、担い、共に歩んでくださる、それは肉体の死をも超えて共にいて下さる、だから私はいつまでもどこまでも、安心して主に委ねて進むことができる、洗礼を受けた者はこの確信に立って歩む命を生きるのです。お二人の歩みもまさにそのような神様の恵みに包まれた命の中で新たにスタートしていくのです。
ここに集っている人たちのほとんどはその新たなスタートをした人たちです。洗礼を受け、イエス様の弟子とされた私たちです。けれども信仰生活を過ごしていく中で、イエス様にどこまでもついて行くと誓ったけれども、それが出来ずに不徹底な信仰の歩みをしてしまう、そういうこともまた経験するかもしれません。ここには教会から長く離れていた時期があるという人もいるかもしれません。
3月の終わりの日曜日、久しぶりにベトナム人のリエンさんが豊後高田教会の礼拝に出席しました。金森先生の就任式に来た青年です。彼女は夏からしばらく礼拝に来ていませんでした。サタンの妨害に遭っていたと話してくれました。様々な誘惑が彼女を襲っていたのでしょう。共に歩んでくださる神様を見失い、さまよってしまっていた。けれどもどんなに自分が右往左往しても、神様の方は揺るがずに、自分を導き守って下さった。そうして帰ってくることが出来ましたと、そんなことを話してくれました。リエンさんのガリラヤがそこにはありました。イエス様の方は変わらず共にいて下さいましたが、しっかりとイエス様を見上げながら歩む再出発が、そこからスタートしたのです。
復活のイエス様は、ペトロを始め弟子たちの一切の罪を赦し、再び御自分の弟子として召し出し、お遣わしくださいました。私たちの信仰の歩みはそれこそ浮き沈みが激しいものかもしれない。しかしガリラヤがあるのです。何度でもイエス様は私たちを見捨てず、召し出してくださるのです。私たちがイエス様によって神様の子であるが故に、どこまでも私たちを愛し導いて下さる。私たちが必要だと言って下さる。わたしと一緒に生きてほしいと言って下さる。だから、どれほど私たちが挫折するようなことになるとしても何度でもやり直せるのです。復活のイエス様がいて下さるから。新たに洗礼を受けたお二人だけでなく、ここに集う皆がイエス様によって召し出され、イエス様の恵みと大きな愛を頂いて、ここからスタートしていくのです。
4.復活の証人とするために
復活のイエス様がいて下さる。信仰における私たちの大きな希望です。その復活のイエス様に出会うということは、まことに恐るべき、聖なる体験であります。それを私たちはどこでするのか。それは、この復活の日に女性たちが天使の言葉をもって知らされたように、この礼拝の場において、神の言葉を聞くことによってなのです。
何故、石はわきへ転がしてあったのでしょうか。もちろんイエス様が復活されて墓から出て行くためではありません。復活されたイエス様は、弟子たちが鍵をかけておいた部屋にも入ってきて、「平和があるように」と告げられました(ヨハネによる福音書20章19節)。だから、復活のイエス様が墓から出るのに、わざわざ石をわきへ転がす必要はありません。この石がわきへ転がしてあったのは、女性たちが墓の中を見て、そこにイエス様の遺体がないことを確認するためだったのです。そして女性たちが、天使によってイエス様の復活の知らせを受けるためだったのです。この女性たちが復活の証人となるため、自分たちがどんなに恐れ震え上がったかを証言するために、石は転がしてあったのです。
女性たちはイエス様を愛していたけれども、イエス様は道半ばで死んでしまった、もっとおそばにいたかったと思っていた。せめて遺体だけでも整えたい、そう思って墓に向かった。イエス様はその思いをすべてご存知でおられました。そして復活の証人とするために、空っぽのお墓を見せるのであります。そして道半ばで死んだのではなく、もうそばにいられないのではなく、これからも共に道を歩き、そばにいてくださることをお示しくださったのであります。
女性たちはここで「主は生きておられる」という証言を天使たちから聞きました。そしてその証言を伝える者となりました。しかし恐ろしさのあまり、すぐに伝えることができませんでした。しかしこの後の箇所や、他の福音書が伝える通り、この女性たちが主の復活を人から人に伝えていく最初の伝道者になったのです。私たちもこの女性たちのように復活ということが何が何だかわからず戸惑うかもしれない。まことに理解しにくいことかもしれない。すぐには受け止められない、信じられない。けれどもこの女性たちは伝えていったのです。どれだけ女性たちが事態を把握できず恐れようと、墓は空っぽだったからです。動かしようのない事実がそこにあったからです。主は今も生きておられる。私たちはそのことをただ証するしかないのであります。
教会の暦において今日から復活節が始まります。新たな季節のスタートです。主は今も生きて私たちと共に歩んでくださっているのだと、私たちの思い悩みも超えて、主の大きな恵みの中に生かされているのだと、喜びの証を立てながら、心の底から新たにされてこの季節をスタートして参りたいと思います。

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