遣わす・平和・神の国(ルカ10:1~12) 20240407
- 金森一雄
- 2024年4月7日
- 読了時間: 8分
更新日:2024年9月27日
本稿は、日本基督教団杵築教会における2024年4月7日復活節第2主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄
(聖書朗読)
旧約聖書:イザヤ書11章6-10節(新共同訳聖書 旧1078頁)
新約聖書:ルカ10章1-12節(新共同訳聖書 新125頁)
(説教)
1.「遣わす」
皆さんがすでにご存じのことですが、ルカによる福音書10章1節には、主イエスは、神の恵みの知らせ(よき音づれ、福音、ゴスペルとも言います。)を、主イエスご自身が全世界に向けて知らせようとしている神のご意志が記されています。そのために、主イエス・キリストは、「ご自分が行くつもりのすべての町や村に、愛弟子たちを二人ずつ、先に遣わされた。」と記されているのです。
主のご計画の中で神の招かれた人々、ここでは主イエスが選ばれた愛弟子たちが、主イエスのご意思に従って、主と一体となって神の国を受け入れるための準備をしたのです。神さまによる派遣、すなわち神が弟子を遣わされる、という言葉は、実は身の引き締まる大変重たいものです。 ここでは、主イエスは、愛弟子たちを二人一組で、二人ずつ先に遣わされました。ところで、どうして、主イエスは、愛弟子たちを二人一組でつかわされるのだと思われますか。「二人」がキーワードです。
わたしたちは、旧約聖書と新約聖書は、共に神様の言葉が記されている一体となった聖典であると信じています。ですから旧約聖書を調べてみましょう。最初に、旧約聖書のコへレトの言葉4章 12節(旧1038頁)です。「ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。」とあります。二人で一体となって、人生の荒海を乗り越えて行くことを祈るときなどに、お聞きになったことがある方もおられると思います。三つよりの糸は、芯となるものが必要です。芯とすべきものは、人生の羅針盤となる神の御言葉です。主イエスは、主イエスに遣わされた者が、二人一組となって、主イエスを芯にして、たやすくは切れない三つよりの糸を編めと仰っているのです。
もう一箇所、旧約聖書の申命記19章15節(旧311頁)をご覧ください。「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」と、記されています。どうやら、主イエスは、裁判での証言として有効になることまで慮って(おもんばかって)おられるようです。
そうしてみますと、ルカによる福音書10章1節で、弟子たちを二人一組で遣わされたというのは、主イエスは、当時のユダヤ人の習慣に従って、よい報いがあるようにと、二人一組で互いに祈り合い、助け合い、二人で編んだ、神を芯とする切れにくい三つよりの糸を編みなさい、そして、主イエスによって神の国が到来したことを証言することができるようにと、弟子たちに配慮してくださっていることが分かり、御言葉の理解が深まります。2節では、弟子たちを「遣わす」にあたって、主イエスは、「収穫は多いが、働き手が少ない」と、仰いました。こう言われると、皆さんは、「働き手が少ない」という主イエスの言葉に引きずられて、自分が働き手になっているのだろうかと心が痛まれる方も多いと思います。ところが、ギリシャ語の聖書原典を確認しますと、主イエスの思いは少し違うようです。
最初に、主イエスは、「実に、収穫は多い」と仰います。イエスさまはプラス思考の方です。それから、「しかし、働き手が少ない」と言って、だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。と言うのです。そして3節で、命令形を用いて、「あなたがたは行きなさい」と言われます。そして厳かに、「わたしはあなたがたを遣わす」と宣言されています。主イエスの宣教に対する、情熱と権威を表現されて、主イエスが「遣わす」ということを強調している聖書箇所なのです。
そして続けて、「それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。」と、何とも物騒なことが記されています。実は、「狼と小羊」と言うのは、ユダヤ人には馴染みがあるのです。先ほど聖書朗読でお読みいただいた、旧約聖書イザヤ書11章(旧1078頁)は、平和の王としてイエス・キリストが来られるという預言が記されている有名な聖書箇所です。そして、イザヤ書11章6節には、「狼は小羊と共に宿り、牛も熊も獅子も共に草を食べる」と、終末の平和が記されています。多くのユダヤ人は、「狼と子羊」と言われると、すぐに子羊が狼に襲われている現実の厳しい世界とこのイザヤ書11章の終末の平和の情景を思い起こしたことでしょう。
しかし、ルカによる福音書10章3節(新125頁)の後半では、主イエスは弟子たちを遣わすにあたって、狼の群れに気 をつけなさいと言うのではありません。恐れないで神様の平和を築き上げるもう一方の当事者である狼の群れのところにあなたは行きなさい、と仰っているのです。普通の羊飼いであれば、狼の中に羊を送り出すような危険なことは絶対にさせません。けれども、主イエスは、羊の敵である狼がうろつき回っているところに、弟子たちを送り出す、遣わすというのです。どうやら、神の宣教のご計画においては、子羊だけで神の国を築くというのではないのです。
さらに4節では、「財布」も「袋」も「履物」も持って行くなと言うのです。衣食住についての思い煩いをするなということです。さらに、途中でだれにも、挨拶をするな、というのも目的に向かって歩むことを優先させ、限られた時間を無駄にしないように、思い煩いはこの世に無尽蔵にあるので、それから解放されることが大切である、と仰っているのです。
ですから、あなたがたを遣わすこの地上の世界には、危険がいっぱいあるという現実をしっかりと知りなさい。それでもなお、主イエスの勝利を信じなさい。という、主の愛弟子たちへの愛ある警鐘の言葉だと受け止めることができるのです。
2.「平和」
つづいて、5節、6節で、主イエスは、弟子たちの行先々での言動についても、具体的な指示をしておられます。そこで用いているキーワードは、「平和」です。
5節では、「どこかの家に入ったら、まず最初に、『この家に平和があるように』と言いなさい。」と、命じています。そして6節では、もし平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、(平和の子が)いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。」と、弟子たちに教えているのです。
先日、ある集会でこの話をしましたら、6節の最後の『その平和はあなたがたに戻ってくる。』という言葉は、宣教に遣わされている自分にとっては、とても辛い言葉だあと受取っています。とお話ししてくださった方がおられました。その場で、先行する主イエスの愛はこの御言葉のどこにあるのか、一緒に探し求めてみました。すると、別の見方があることに気が付くことができました。それは、宣教の結果はいろいろ、決して人間の思い通りにはならない。平和がとどまらないようであれば、弟子たちが語った平和は、宣教した弟子たちに戻ってくるのだから、戻ってきたらまた他に向かって平和を願って、「この家に平和があるように」と語り続けなさいということだ。と、あくまで主イエスの前向き肯定的な姿勢を表す言葉が続いていると考えるとよいということに導かれたのです。皆さんは、どのように受取られますか?
わたしたちは、何度拒絶されても、 神の国の到来を次から次へと宣べ伝えるのです。聞いていないようでも聞いていて、御言葉を求めている人がいます。聞いてくれる人は必ずいる、別の人のところへ行こう、と気を取り直して、あきらめないで主の公正な裁きの到来を信じ、福音の宣教を続けていくことが大切だと、主イエスは弟子たちを励ましてくださっていることが分かりました。まさにこの世の思い煩いから解放されなさい。宣教の結果は神がご存じで、すべては、神の主権にあるのだから、安心して福音を宣べ伝えなさいと、主イエスは仰っているのです。
3.神の国
8節、9節では、どこかの町に入り、迎え入れられたなら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、「『神の国』はあなたがたに近づいた」と言いなさい。と、イエスさまは仰っています。主がすべてを用意してくださると、約束してくださっているのです。
神の国を言い広めるために、与えられたものがあれば、感謝して受取るのです。食べるものも、飲むものも、主の御名によって、おいしくいただくのです。そして、派遣された弟子たちが、迎え入れられた町の病人をいやし、「『神の国』が近づいた」ことを宣言するよう、主イエスが命じられたのです。
ところが一方で、10節以降には、町にはいっても、人々が迎え入れない場合について書かれてています。そして、11節には、 「足についたこの町の埃(ほこり)さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、『神の国』が近づいたことを知れ」と、言いなさいと弟子たちに命じています。 喧嘩になってしまいそうです。
ここで注目していただきたいことは、主イエスは、9節で人々がわたしたちが迎え入れた場合だけでなく、11節で人々が迎え入れない場合でも、全く同じ言葉、すなわち「『神の国』が近づいた」と言いなさいと仰っていることです。
まさに、「『神の国』が近づいた」という福音のメッセージを、どのような状況になっても、すべての人に宣べ伝えることこそが、神さまのご意志であり、主の栄光を表すことだと、仰っているのです。
最後に、今日与えられた聖書の最初、ルカによる福音書10章の1節の言葉にもう一度立ち戻って確認したいと思います。
この冒頭には、 「その後(のち)、主はほかに七十二人を任命し、ご自分が 行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。」とあります。
主イエスは、12人の弟子のほかに、追加で72人の弟子を任命したのです。二人ずつ、7組で84名もの大宣教団が形成されたというのです。
主イエスから、大きなチャレンジを受けませんか?確かに主イエスは、実に、実りは多い、見よ、出かけなさい。と、わたしたちに仰っているのです。このことをしっかり重たく受け止めたいと思います。
主イエスは、わたしたちに、どのようなことをさせてくださるでしょうか。後のことは、何も思い煩わずに、主が遣わされたところで主イエスと共に信仰を持って、一日一日を平安の中を歩み続けることを望んでおられます。そして時が良くても悪くても、自分の力に頼らず、聖霊に導かれるまま「神の国が近づいた」と言うことが求められているのです。

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