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遠くから来ている者(マルコ8:1-21) 20250202

  • 執筆者の写真: 金森一雄
    金森一雄
  • 2月2日
  • 読了時間: 9分

更新日:1 日前

本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年2月2日降誕節第6主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄 



(聖書)

詩編23篇1〜6節

マルコによる福音書8章1~21節


1.三つの相違点

 

本日の私たちに与えられたマルコによる福音書8章の冒頭の小見出しは、「四千人に食べ物を与える」と書かれています。4頁前(新72頁)の6章30節の小見出しは、四千人のところが五千人になっているだけで同じような内容です。それでもいくつかの相違点がありますので、マルコがなぜ同じような話を書いているのかを調べてみました。

似たような二つの話の三つの相違点としてお話しさせていただきます。

 

第一は、8章3節後半「中には遠くから来ている者もいる」と書かれていることです。

「遠くから来ている者もいる」ことについては、五千人の給食の奇跡の時には書かれていません。

主イエスは最初にガリラヤで伝道を始めました(マルコ1:14)。そこは、ヘロデ・アンティパスの統治するユダヤ人の住む地です。その後、5章で「向こう岸に渡ろう」(マルコ4:35)と言われて、一度だけ異邦人ゲラサ人の地方(デカポリス地方)へ行かれました。そこでは異邦人が飼っていた豚の大軍を用いて、レギオン(大勢という意味)という名前の悪霊に取りつかれていた、異邦人のいやしを行いました。

この話以外は、主イエスはユダヤ人を対象として多くの病人をいやしていました。

こうして見ると、6章30節の「五千人に食べ物を与える」奇跡は四福音書のすべてに書かれていて広く知れ渡っている奇跡物語であり、文脈上からはユダヤ人を対象としていたと言っても言い過ぎではないと思います。


五千人の給食に奇跡から、四千人の給食の奇跡に至るまで、どのようなことがあったかを見てみましょう。

シリア・フェニキア生まれの女性の話が書かれています。マタイによる福音書15章22節では、カナンの女と書かれていて、主イエスをダビデの子と呼んだことが書かれています。書かれている内容はほぼ同じものです。とすれば、マルコの「シリア・フェニキア生まれの女」とマタイの「カナンの女」が同一人物であると言うことになりますから、この女性は、父親が異邦人で母親はカナン出身のユダヤ人だったのでしょう。

この女性が、自分の娘のいやしの求めたのに対して、主イエスは「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」(マルコ7・27)とユダヤ人が優先されていることをその女性に語っています。するとその女性が、「主よ」と信仰告白をして、続いて謙遜さを示す機知に富んだことばで答えています。

「しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」(マルコ7・28)と、ゆらぐごとなく自分の娘のいやしを求めました。

そして主イエスは、「それほど言うなら、よろしい」と言ってその女性の娘をいやされたのです。


それから、今日の四千人への給食物語が書かれていますので、「中には遠くから来ている者もいる」と、異邦人がいたことをわざわざ書くことになったのは、この時点では、シリア・フェニキアなどからの異邦人が加わっていたと考えても良いと思います。

ここに至って、主イエスの福音宣教が異邦人に広がり始めていたことを指し示す御言葉として、今日の説教題を「遠くから来ている者」とさせていただきました。

 

第二の相違点です。

五千人の給食の時は、人々を整然と「草の上」(マルコ6・39)に座らせたことが書かれていましたが、四千人の時には、8章6節に「地面」に座らせたと書かれています。

白百合幼稚園の園庭は、私が赴任した4月には、青草が生えていましたが、今は青草が枯れて「地面」が現れています。

同じように、マルコは、五千人の給食の奇跡から四千人の給食の奇跡の間には、春から晩秋・冬に至る8ヶ月程度の経過があったことを表現しているのです。

 

第三の相違点は、大群衆への給食を終えて、残ったパン切れを集めた「籠」の種類の違いです。日本語の聖書では同じ「籠」という言葉が用いられていますが、ギリシャ語の原典では、五千人の時は、「κοφίνους(コフィノス)」という小さな枝編みの籠を指す言葉を用いています。ところが、四千人の時は、「σπυρίδων(スピナス)」という人が入れるほど大きな布製の籠を指す言葉を用いて書き分けています。


弟子たちは、パンを配餐することも、また残ったパン切れを集める奉仕もしたでしょう。

何で今回は大きな布製の籠で集めるのか、その違いをしっかり記憶していたのです。

主イエスの質問に、的確にコフィノス12、スピナスで7、と正しくしっかり答えています。籠の数の大小ではなく、異邦人が加わっていた四千人の給食後、スピナスで集めた残ったパン切れの量が相当なものだったからです。

ところが弟子たちは、そのことがいったい何を表すのかが分かっていなかったのです。

 

2.パン種の警鐘

 

続けて14節以下に、弟子たちがパンを持ってくるのを忘れた話が出て来ます。物忘れはよくあることで何の問題ないように思うのですが、16節で、弟子たちは勝手に、一つのパンしか持ち合わせていないことで論じ合っています。主イエスに対応を尋ねようとしていません。そこに問題があります。


主イエスと12人の弟子、都合13人で一つのパンですから何の問題もないことだったはずです。

現在、我々が教会内で問題だと騒ぎ立てがちなことと重なる出来事では無いでしょうか?

 

そして、主イエスは15節で、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められています。

「ファリサイ派のパン種」とは、主イエスを試そうとしている人たちの教え、言い伝えのことです。また、「ヘロデのパン種」とは、当時一部の民衆の支持を受けていた、領主ヘロデこそが旧約聖書が約束しているキリストであると主張している政治色の強い考え方を指していると思われます。

いずれも人間の高慢さが、大きく膨らむことを指摘する言葉です。

主イエスは、パンそのものに目を向けるのではなく、その中にわずかしか含まれていないパン種に、全体を膨らませる力があることに注意を向けて、パン種というものの存在をきちんと見分けるようにと言っておられるのです。

 

そして、17~21節では、「イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠(コフィノス)は、幾つあったか。」と聞かれると、弟子たちは、「十二です」と答えています。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠(スピナス)は、幾つあったか。」と聞かれると、弟子たちは「七つです」と答えています。するとイエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。」と、書かれているのです。

 

ここに至って、二度に亘って大群衆への給食の奇跡が行われた理由を主イエスが明確化されています。主イエスは、神は異邦人を含めたすべての人を憐れんでくださり、すべての必要を満たしてくださる方である、自分たちの手元にあるパンの数や後に残ったパン切れを集めた籠の数などに目を向けて、人間の算段にとらわれるな、神のしてくださったことに目を向けなさいと仰っているのです。

 

また、四千人の四という数字は当時の人たちにとって大事な数字でした。当時の世界観として、東西南北の方角が四つで四角いテーブルのように大地が巨大な四本の柱で支えられているとか、大地は四つのケーブルで吊られているという、考え方がありました。

「四」という数字は、世界全体を支える数字で十分という意味があった数字だったとも考えられます。いずれにしても、主イエスが分け隔てなく、救いの領域を全世界にまで広げてくださったことを象徴する数なのです。

 

3.しるしは与えられない

 

本日の聖書箇所のサンドイッチのパンの部分(四千人の給食)をお話ししました。

最後に今日のサンドイッチの餡の部分の味を確認しましょう。11節から13節が餡の部分です。

 

ファリサイ派の人々が、イエスを試すために天からのしるしを求めて議論をしかけました。

「しるし」は、ギリシャ語でσημεῖον(セーメオン)で、「自らが神から遣わされた救済者・預言者であることを承認させ、信仰を持たせるための自己証明をするために敢えてなす行為」という意味です。

第一コリントI章22節で、使徒パウロが「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵をさがします」と語っていますが、当時の人々はまさにそうした状況でした。そして、人々はイエスに対して「天からのしるし」を求め願っていたのです。

 

12節で「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」と、主イエスは、心の中で深く嘆かれます。「しるし」を見て判断するのではない、むしろ主イエスの言葉を聞きなさい、主イエスのなさったことをそのまま見なさい、と言うのです。

 

神の独り子イエスが十字架で死なれるという受難物語は、まだ彼らは知りません。ここで予め、主イエスは、あなたがたの罪の身代わりに、私は死ぬ、それが私の選ぶあなたに示す天からのしるし、神の奇跡だ、これさえれば、あなたの救いは成し遂げられる、と福音の核心を伝えたかったのです。

 

私は皆さんに、まずは教会に来て信仰者の間に身を置いてください、神さまの言葉を聴き続けてください、といつも申しあげています。教会の中に自分の身を置きさえすればよいのです。神の言葉を聴き続けるのです。

すると、私たちを生かす言葉が静けさの中から聴こえてきます。そして必ず信仰が与えられます。修行のような何か特別なことをしなければならないということはないのです。

 

「しるし」などは要りません。私たちは、自分を赦し、慰め、導き、生かしてくれる言葉を求めています。求め続ければ、神さまの言葉を聴くことができる。それだけで十分なのです。神の独り子主イエスが地上にお生まれになり、私たちの罪を代わりに背負ってくださり十字架にお架かりになった。それゆえに私たちが背負うべき罪が赦された。教会に集う者たちは、ただそのことを信じ続けているのです。これが、今日の聖書箇所のサンドイッチの餡の部分です。

 

主イエスは、今この時もこれからも、私たちを憐れんでくださいます。私たちのような異邦人、「遠くから来ている者」に対しても一人一人を覚えてくださって、惠みを与えて養ってくださる方なのです。

 

最後に、詩編23編1~3節を感謝を込めて朗読させていただきます。


主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い

魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。

死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。



【いざ来ませ、異邦人の贖い主よ】 - J.S.バッハ


 
 
 

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