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執筆者の写真金森一雄

貪欲に用心(ルカ12:13-15)

更新日:6月27日

本稿は、2022年6月17日(金)の横須賀学院高等学校のチャペル礼拝の説教です。

              教育実習生 東京神学大学大学院1年  金森一雄



群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」

イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」

そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」

ー--ルカによる福音書12章 13~15節ー--



今朝の聖書箇所では、群衆の一人が「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」と言ったと記されています。

この人は、最初に「先生」と、主イエスに語り掛けています(13節)。当時のユダヤ人社会では、長子権が認められており2倍の分け前(申命記21:17)がありました。また、ユダヤ教の先生は、聖書に基づいて人々の日々の生活のあらゆる問題についても教えていました。医者のようでもあり、時には弁護士のようでもあったのです。主イエスのことを「先生」と呼んだこの人は、自分の抱えている遺産相続問題を他のユダヤ教の先生の所に持ち込むように、主イエスに相談しに来たのです。


6月12日(日)の午後、わたしの学生時代の学友がわたしを訪ねて来ました。ご両親や他の兄弟は既に他界されていて、残っていた兄弟は男二人だけ、しかも弟さんは天涯孤独の身だったので、70歳を過ぎた男兄弟二人でこの世の旅立ちについて話し合っておかなければならないと考えていたそうです。ところが、この弟さんが自分の所有するマンションで孤独死していた。一人残されたわたしの友達は、血のつながった最後の親族だった弟さんとの別れ方が、とても厳しいものになり辛くて苦しいと言っていました。


わたしは現在牧師・教師を目指している身ですが、60歳になるまでは銀行で働いていましたから、何かしらの役に立つかと相談しに来られたようでした。そのうちに弟さん名義のマンションや企業年金などの遺産整理の話になりました。わたしは元銀行員といっても、その専門ではないので、中学の同級生でずっと親しくしている税理士を紹介しました。


今日の聖書の中で、「先生」と言って近づいてきた人に、主イエスはどのように対応されたのかについて調べてみましょう。

主イエスは、その人に対して、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」と言われています。わたしのところに来たのは、お門違いだ、訪問すべき先を間違えているよと、言わんばかりです。なんでも答えてくださるイエスさまが厳しい答えをされたようにも感じますが、訪ねて来た人を裁判官や調停人に紹介したようなことはしません。


その人にも聞こえたと思いますが、群衆一同に向かって、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」と仰ったのです。群衆に必要なことだと考えられたのでしょう。すなわち悩める者すべてに向かってこのように言ったことなのです。ですから、わたしたちも耳を傾けて聞かせていただきましょう。主イエスは、財産に目を向けるよりも、命に目を向けなさい。命があるから財産を持っていることに意味があるのであって、命がなくなってしまえば、どれだけ財産を持っていても意味はない。命に目を向けない。わたしたち人間は貪欲になってしまうので用心しなさいと仰ったのです。


貪欲という漢字は、今という字を上に書き、貝という字を下に書きます。貝は昔からお金を意味する言葉としても用いられていました。今は貝=金と書きますから、金を第一にするという欲が、貪欲の原因だというのです。貪欲は、ビジネスの世界で一番嫌われ、信頼されない、軽蔑の意味を込めた言葉です。主イエスは群衆一同に向かって、人間の生き方の基本として「貪欲に用心しなさい」と仰っているのです。


わたしは大学を出てから37年間銀行に勤めていました。「貪欲は悪魔の誘い」です。人は誰でも、よい業績を挙げたい、もっと儲けたい、それが成功だと思い始めます。わたしは、そのような文化の中にどっぷり漬かっていました。そして、社会人として何を目指しているのか、真理とは何か、何のために働くのか?と自分の中で問い続けていました。


1994年に恵比寿ガーデンプレイスがオープンするとき、その中の銀行の支店長に就任していました。新しい街づくりが進む中でビジネスチャンスが広がり、何かと「貪欲」に走ってしまいそうな誘惑を感じました。そのとき、三日間体調を崩してベッドで体調回復を待たなければならなくなりました。ベッドで聖書を開いていると、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)という主イエスの言葉がわたしの心の奥底まで届きました。そして、自分は健康だと思って元気に走り回っていたけれど、実は心の病人だったのだと気付かされたのです。45歳の時でした。


皆さんは、早くから学校で聖書に接して学びはじめていますから、本当に羨ましいと思います。わたしたちが今生きているのは、神さまに命を与えられて生かされているのです。だからこそ主イエスは、訪ねてきた人だけに語るのではなく群衆一同に向かって、「貪欲に用心」して歩むようにと言われたのです。それは、横須賀学院の「敬神・愛人」の精神につながるものです。


主の憐れみと導きは、広く、長く、高く、深いものです。

主イエスは、裁判官や調停人ではありません。病人のわたしたち、罪人を招いてくださる救い主なのです。わたしたちの命のために、わたしたちを救うために、御自分の命まで投げ出してくださった方なのです。

主イエスの愛の中を、信頼して安心して希望を持って生きていきましょう。


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