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執筆者の写真金森一雄

見守ってくださる方 (マルコ4:35-41) 20241020

更新日:10月23日

本稿は、日本基督教団杵築教会における2024年10月20日の聖霊降臨節第23主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄 

 

(聖書)

詩編121編1~8節(旧968頁)

マルコによる福音書4章35~41節(新68頁)

 

1.向こう岸に渡ろう

 

本日、私たちに与えられるマルコによる福音書4章35節以降からは、四つの奇跡の話が続きます。神の国と非常にかかわりのある、自然、悪霊、病、死、の四つの問題が取り上げられています。

いずれも人間を苦しめるものです。それぞれ語られる四つの脅威の前で右往左往している人間の本当の姿を垣間見ることができます。そして、人間はこれらの前でまったく無力な存在だということが分かります。

 

今日は、第一の奇跡物語で、自然と人間が対峙(たいじ)する物語です。

マルコによる福音書4章35節(68頁)の小見出しには、「突風を静める」と書かれています。35節の冒頭に、「その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。」と書かれています。その日の最後の主イエスのたとえ話は、からし種のたとえでしたね。異邦人が集まってくることを空の鳥にたとえて話されていました。

そして続けて36節に、「そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。」と書かれていますから、暗くなって次の日が始まり船出したということです。

 

「群衆を後に残して」と書かれていますので、主イエスは神の国を宣べ伝えるために出かけられたと考えられます。私には、その合図の言葉が「向こう岸へ渡ろう」というように感じます。

次の章、5章1節を見ると、「湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方」に向かったことが後から知らされます。主イエスが、具体的には何のために向こう岸へ渡ろうとされたのかについては、次週以降の説教でお話しすることになります。

 

ここでは、主イエスが出発前に「向こう岸に渡ろう」と言われたことに注目してください。

この言葉をどう弟子たちが聴いたのかが問われるからです。

  

主イエスは、これまでも、そしてこれからも、聖書に記された通りに働き、その記述に従ってその歩みを進められます。聖書は、ある意味でこの全知全能の、唯一真(まこと)の神さえも従わせると感じさせられるほどの力と権威を持った、絶対的な存在だということになります。誰も、聖書を無視したり、否定したり、あるいは変更したりすることはできないのです。

ですからこの聖書に記された、すべての出来事は、神の権威をもって、必ずすべてが完全にそのとおりになるのです。今日の聖書箇所では、向こう岸に渡ろうという主イエスの言葉が発せられて、この出来事が始まっているのです。

 

2.ガリラヤ湖の自然の中で

 

ガリラヤ湖は、イスラエルの北方のレバノンとシリアの国境にある標高2,814mのヘルモン山から命の水が流れくることで知られています。地上には、水道橋が整備され、地下水としてガリラヤ湖の数箇所の泉から湧き出ています。しの命の水が、ガリラヤ湖の漁業と農業を豊かなものとしています。


一方では、突然山おろしが吹いてくる地形にあるので人々に恐れられていました。ですから主イエスは、その夜に激しい突風に出会うことはご存じだったと思われます。かつて漁師だった弟子たちも、この山おろしの存在は知っていたですし、空模様から予測できたと考えてもよいと思います。

 

ところが、主イエスの「向こう岸に渡ろう」という言葉に従って、群衆を後に残して、主のご一行は夜のうちに舟を漕ぎ出しているのです。出発時には、誰一人として、漁師なら誰もが知っているガリラヤ湖の夜の山おろしを心配するような様子は書かれていません。宣教に向かう情熱に包まれていたのでしょう。

 

マルコによる福音書5章37節には、「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。」とあります。船内が水浸しという記事から、尋常な突風ではなかったことがうかがわれます。

そして38節に、「しかし、イエスは艫(とも)の方で枕をして眠っておられた」とあります。 主イエスが眠っておられたという所に注目が集まる御言葉です。しかもここには、主イエスが舟のどの位置で眠っていたかまで書かれています。「艫(とも)」と書かれています。艫とは、船尾と訳され、船の最後部で、安定性、推進力、操舵において重要な役割を果たすところです。さらにその特徴をお話しすれば、舟が沈むときには、船首からではありません。舟の一番後ろから沈む構造になっています。そこに、主イエスは眠っておられたというのです。

  

3.見守ってくださる方

 

主は、勿論突風が襲ってくることは御存知でした。漁師出身の弟子もいましたから予期できた弟子がいてもおかしくありません。突風で、もみくちゃになりながら、船が沈まないよう必死に舟を漕ぎ、浸水した水を掻き出しするなど、皆が命がけで対応したでしょう。

 

弟子たちは、かつても同じような経験をしたかもしれません。ところが今回は、どうしようもなかったのです。一方、主イエスは激しい突風が来るのをご存知だったかのように、ご自分が出て行かなければならないその時まで眠っておられたということです。愛なる主イエスは、ギリギリまで私たちにチャレンジさせて私たちの成長を祈ってくださる方なのです。


38節には、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と弟子たちが言っています。かなり切迫した非難がましい口調だと思いませんか?私がこんなに困っているのに、主イエスはどうして助けてくださらないのか、という気持ちが言葉に現れています。普通であれば、「先生、おぼれそうです、助けてください」と、懇願する言葉を用いるところでしょう。弟子たちのこの言い回しに、人間の自己中心という罪が見え隠れしている気がします。


そして、今日朗読していただいた聖書箇所の最後41節には、主イエスが「黙れ。静まれ」と言われると突風が静まります。そして弟子たちが、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言ったと書かれています。

風や湖さえも従う、自然の猛威を静めることができるとは、いったいこの人はどんな方なのかという素直な疑問でしょう。

自然の猛威を前にした無力な人間たちの呟(つぶや)きです。今日の聖書箇所では、その問いだけで終わっています。その答えを書かなくても、自然を統べ治める力の持ち主は、主イエスであり、主イエスこそが私たちの救い主である、というその答えが自ずと引き出されます。そしてこの救い主がおられるところ、この救い主の力が及んでいるところ、それがまさに神の国なのです。

 

人間として生きている以上、何らかの不都合なことが生じます。そのような、不測の事態が生じた時に、その人間の行動や思いに、人間の本心、罪が現れます。

この嵐の中でも同じでした。弟子たちは必死に漕ぎ、舟の中に浸水した水を掻き出しているというのに、主イエスが私たちに手を貸してくださらないばかりか寝ているとは、いったい全体どうなっているのですか、という不平不満が生じてしまうのです。

悲しいかな、この嵐の中で、人間の罪が見事に暴き出されてしまったのです。弟子たちは、嵐の中で右往左往して、主イエスを起こして、罪に満ちた言葉を主イエスに投げかけてしまいました。

 

それでも、主イエスによってこの嵐を静めてもらえました。

その後で、弟子たちは主イエスに叱らます。

40節です。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と、主イエスに言われています。

それでは、弟子たちはいったいどうすればよかったのでしょうか。

 

嵐の中を慌てふためいて左右するのではなく、主イエスが「向こう岸に渡ろう」と言われたのだから、その言葉信じることが何よりも求められます。必ず主イエスの御言葉どおりになる、と信じることが必要なのです。

その上で、オールを持って漕ぎ続けたり、水の掻き出しをするなど、自分の賜物を生かした働きをすること、どんなときでも、主に祈りを捧げ続ける信仰が求められるのです。


3.黙れ。沈まれ

 

39節で、主イエスが、風を叱り、湖に「黙れ。沈まれ」と言われました。

英語の聖書では、”Be quiet, be still”となっています。ところが最初の黙れ(Be quiet)という言葉が、平和あれ(Peace)となっている英語の聖書があります。

聖書の原典のギリシャ語(Σιώπα (Siōpa))では、確かに「静かにせよ」という意味合いが強いのですが、この場面の翻訳としては、平和あれ(Peace)と主イエスが仰ったと考えた方がよいように思います。

 

創世記1章2節(旧1頁)に、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面(おもて)を動いていた。」とあります。混沌としていて秩序がなく、闇があり神の霊が動いていたと最初の様子が記されています。

そして、第2日目に世界が秩序づけられていきます。6、7節に、「神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせました。そして神は大空を天と呼ばれました。「夕べがあり、朝があった。第二の日である。」とあります。

そして9、10節には、「神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。」と、書かれています。

このように、神が言葉を発せられて、世界の秩序が生まれて、自然が形づくられていったのです。

 

この創世記1章の記述と同じことが、今日のマルコによる福音書の39節「黙れ。静まれ(平和あれ)」という主イエスの言葉によって起こっているのです。

人間を飲み込んでしまうような混沌とした嵐の中で、主イエスが「平和あれ」と言われるとその言葉通りになる。

その権能を持っておられる主イエスが、自分と同じ舟の中におられる。

だからこそ、私たち信仰者にとっての本当の平和が得られるのです。

私たちの人生においては、必ず嵐を経験します。今もなお、嵐のような状況の中で私たちは舟を漕ぎ続けています。しかし、私たちが乗っている舟には、主イエスがおられます。

艫で眠っておられるようにしておられるかもしれません。

しかし出発前に主イエスは、「向こう岸に渡ろう」と私たちに仰ってくださっているのです。それが私たちキリスト者のこの世の心に平安のある旅路です。


4.私の助けは来る

 

最後に、私たちに今日与えられた旧約聖書詩編121編(旧968頁)の御言葉をもう一度聞かせていただきます。

冒頭の1、2節には、「わたしの助けはどこから来るのか。私の助けは来る、天地を造られた主のもとから。」と書かれています。さらに4節では、「見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない。」と書かれています。そして、5、6節には、「主はあなたを見守る方、あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。昼、太陽はあなたを撃つことがなく、夜、月もあなたを撃つことがない。」と主の権能について宣言されています。

 

ここで、太陽も夜も月も「あなたを撃つことがない」と言われていますが、「撃つ」という言葉は、英語で言うと、「打つ」rapやhitといった「たたく」というような甘いものではなく、smiteです。「狙いを定めて打ちのめす」とか「打ち負かす」という意味が込められている言葉です。

私たちが周囲の万物からたたかれるようなことはあるかも知れないが、しかし、あなたを、皆さんを狙いを定めて打ちのめすようなことはないということなのです。

 

そして、最後の詩編121編7、8節の私たちをこの世界に派遣する祈りの言葉が続いているので、改めてお読みします。

 

「主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。

あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。」


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