本稿は、2022年5月21日(土)の東京神学大学礼拝でのメッセージをまとめたものです。
大学院1年 金森一雄
下記をクリックしてYouTubeを見ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=MPLUiB1OKuM&t=605s
(聖書箇所)新約聖書マルコ14章41、42節
41:イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。 もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
42:立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
今日、お読みした聖書は、「ゲッセマネの祈り」の終わりの部分です。
御言葉を一つ一つ、丁寧に聞かせていただきましょう。
(1)最初は、イエスは「三度目に戻って来て言われた」という御言葉です。
この「三度目」に至る、ゲッセマネの祈りとはどのようなものだったのでしょうか。聖書から確認してみましょう。
14章32節で、過越しの食事を終えて、一同がゲッセマネに着くと、主イエスは弟子たちに「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われました。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの前で、イエスはひどく恐れてもだえ始めます。(33節)「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」(34節)と三人に言われました。さらにイエスは、少し先に進んで、地面にひれ伏して祈られます。
この時の主イエスの祈りの様子を、想像できますか?
単に手を合わせて頭を垂れて祈るというものではありません。
地に倒れこんで祈られたのです。わたしはそのように神に祈る姿を見たことがありません。
それから、主イエスは、アッバ、お父ちゃん、と父なる神に呼びかけました。そして、「あなたは何でもおできになります。『この杯』をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と、祈られます。(36節)
少し離れたところで、主イエスは、この祈りを一人で祈られます。祈りが終わると、三人のところに戻って来られます。これを三度繰り返し、三度目に三人のところにもどられたのです。
聖書の中では、三という数字がよく用いられますが、「完全にとか、徹底的に」という意味のある言葉が、数字の三です。ゲッセマネの祈りは、まさに完全で、徹底的なものでした。それは、子なるイエスの父なる神への徹底した従順を示すもので、また主イエスが十字架の試練に耐えることによって新しく獲得される、神とイエスの間の一体性をわたしたちに示すのです。
(2)続いて、41節で主イエスが弟子たちに語られた御言葉を確認してまいります。
①最初は、「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。」という言葉です。
ゲッセマネの祈りにおいて、主イエスは、「わたしがあなたたちの罪を背負う、共に祈ることによって支えてほしい。」と願われたのです。この時の主イエスの悲しみ、苦しみとは、まさに弟子たち、いや私たちのための悲しみであり苦しみです。
ところが、イエスが少し離れて一人で祈っている間に、弟子たちは眠ってしまいます。それを見たイエスは、眠っていたペトロに対して、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」(38節)と言われます。
しかしこれは、眠ってしまったペトロへの叱責の言葉ではありません。
心が燃えるという言葉は、ギリシャ語の原典では、「霊がはやる(先に行きたがる)」とも読めます。主は、私たちの体を用いて聖霊の働きを行われます。聖霊がはやって先に行こうとしても、わたしたち人間は、どうしようもない肉体の弱さを持っていることを、主イエスはご存知で、このように言われたのです。
これに対して、弟子たちは、返す言葉が見当たらなかった、何も言い訳ができなかったのです。目を覚まして祈っていなさいと言われても、寝てしまう。これが、弱い肉体を持つわたしたち人間の現実です。わたしたちには、どうしようもない弱さがあることに、気付かされるのです。
②続く「もうこれでいい」という御言葉は、難解です。ギリシャ語のἀπέχειで、ἀπέχwの三人称単数形で、主語をitとすれば、「もうこれでいい」という言葉になりますが、主語をhe彼とすれば、「彼は領収済みである」とも訳出できます。そうすると、「もうこれでいい」と訳したら、何がenough十分だというのでしょうか。主語を彼とすれば、彼とは誰の事ですか、何を領収済みで受取っているのですか、と思いを馳せます。その答えは、聖書の中から探さなければなりません。
14章 11節には、ユダがイエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行き、「彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。」と記されています。また、ヨハネによる福音書13章27節には、「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、『しようとしていることを、今すぐ、しなさい』と彼に言われた。」と、「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」(30節)と、記されています。
主イエスは、これと思う人を呼び寄せて12人の使徒を任命しています(マルコ3:13)。その一人であったユダが裏切ることを、主イエスは御存知でした。そして、ずっとユダのことを気にかけています。サタンに翻弄されているユダが天の父のもとに帰ることを待っていてくださっていたに違いありません。イエスは、99匹の羊を残して、見失った1匹の羊を探す憐み深い方です。
そのように考えますと、41節の「もうこれでいい」という御言葉の主語を、he(彼)を主語として、「彼(ユダ)は(祭司長たちが約束したものを)受取っている」と訳出すこともできるのです。
いずれにせよ、ここで大切なことは、一つ一つの御言葉によって、主イエスが十字架に架けられるという神の摂理が進行していることを示しているのです。ユダから始まって最後の晩餐に出ていた12人の使徒全員が、イエスを裏切ります。いやそれだけではなく、わたしたちすべての人間は、目を覚ましていることが出来ずに寝てしまうのです。主はそのことをすべて御存知で、それでもなお、わたしたちを憐れんでくださるのです。
「多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。」(イザヤ53:12b)というイザヤ書の言葉は、真実なものなのです。
③主イエスは続けて、ご自分が捕えられて、十字架に架かるその「時が来た」(41節)と語られます。ギリシャ語原典では ἡ ὥρα「この時」と強調されています。それによって、主イエスご自身が十字架に架けられる「その時」が来た、と宣言されたのです。
④そしてゲッセマネの祈りの最後の42節で、弟子たちに「立て、行こう」。見よ。わたしを裏切る者が来た。と告げます。ここで、イエスが、ユダが来たと言っていることは、明確です。
マルコは、12人の使徒の一人が裏切る者となり、主イエスが十字架に架けられるという摂理をしっかり記しているのです。
受難の「人の子」イエスは、ひどく苦しんでおられます。そして、父なる神に徹底した従順を示します。人間にはできないことをしていかれるイエスの神性が示されているのです。
それによって、主イエスは神が人間のために、人間の傍らにおられるということを、実現されたのです。
コロナ禍で新学期が始まり、5月病で体調を崩しかねないときにあります。わたしたちの心は燃えていますが、弱い肉体を持つわたしたちです。
主は、わたしたちを愛してくださり、一人一人の名前を呼んでくださいます。どのような困難の中にあっても、主イエスはわたしたちの傍らにいてくださいます。神の摂理の中を歩むようにと、仰っています。
そして、召命を受けて共に学び続けているわたしたちに、わたしが共にいる。大丈夫。聖霊に満たされて、聖霊に委ねて、「立て、行こう。」と、今日も仰っているのです。
(祈り)
わたしたちの周りでは、今日も、声にならない声が溢れています。いまも、ゲツセマネで苦しむ主イエスの声が聞こえてくる気がします。今日の御言葉によって、主イエスは、決して消え去ることのない神の愛をわたしたちに伝えてくださっていることを知りました。わたしたちの心の奥深くに、あなたは、消えることのない灯をともしてくださいました。
今を生きるわたしたちが、他の人々の痛みを受け、悲しみを理解しようとすることが、主イエスの苦しみを受け止めることにもつながっていると信じます。そして、わたしたちが、この世の闇の中にある灯として用いられていくことができますように、互いの悲しみや痛みを受け止めていくことができますように、わたしたちを憐れんで導き続けてください。
わたしたちを従わせる力は、主イエスが示された十字架の憐れみの愛です。
これからの神学校生活において、常にあなたの御心を尋ねて物事の選択ができますように、そして御心に背く誘惑から守ってくださいますようお祈りいたします。
Comments