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執筆者の写真金森一雄

種を蒔く人のたとえ(マルコ4:1-9) 20240908

本稿は、日本基督教団杵築教会における2024年9月8日の聖霊降臨節第17主日礼拝説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄 

 

(聖書)

詩編135編4節~21節(旧975頁)

マルコによる福音書  4章 1節~ 9節(新66頁)


1.たとえによる教え

 

本日、私たちに与えられたマルコによる福音書 4章 1節には、「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。」と、そのときの情景が書かれています。主イエスは舟の上 群衆は湖畔にいます。そして2節には、「イエスはたとえでいろいろと教えられた」と言うのです。会堂ではなく湖のほとりで教え始めた理由は、記されていません。

マルコによる福音書3章6節に、主イエスが安息日に病気のいやしを行われることを目の当たりにして、「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」と書かれていました。主イエスは、もはや会堂では教えられない状況となり、ガリラヤ湖畔の方へ立ち去られていたのです。それでも、群衆は、主イエスに触れようとして殺到しています

 

そこで主イエスは、何としても人々に御言葉の教えを語り続けようとして、宣教の新しい手法として、ご自分は湖の舟の上から人々に教えることと、たとえを用いて話すことを、始められたのです。

 

地上の何かが語られ、天上の何かとくらべて、その物語によって主イエスの真意を教えようとするものです。御言葉の真理が、この世的な例証の中で、聖霊の光にふれながらより分かり易く把握され、理解されるように構成されているのです。

 

主イエスは、聴衆が思考することを期待しています。たとえを聞く聴衆に、その心は?と問いかけるように、聴衆自身が自ら考えるようにたとえ話をしたのです。

そのため、主イエスのたとえ話は、人々が正しい心で正しい努力をすれば、自分自身で真理を発見できる、そして真理がその人自身のものとなるようなものとなっています。

聴衆がその物語を最初に聞いたとき、どのような考えがその人の心の中に閃いたかが問題で、それは常に正しいというものです。

そのため、主イエスは、聞き手の責任を取り除こうとはせず、むしろ責任を負わせようとして、たとえ話をされたのです。

 

2.よく聞きなさい

 

3節で主イエスは、「よく聞きなさい」と、言っています。そしてこのたとえ話が閉じるにあたって、9節で「聞く耳のある者は聞きなさい」と言っておられます。

つまり、「聞きなさい」という二つの言葉を鍵(括弧)の役目を果たす印として用いて、主イエスのたとえ話をサンドイッチのように挟みこんで強調しています。このように、聴衆が聞く耳を持っているかどうかということを主イエスは強く求めているのです。

 

「種を蒔く人のたとえ」では、4節以降で四つの土地が登場します。

4節の「道端」、5節の「石だらけで土の少ない所」、7節の「茨の中」、そして8節の「良い土地」の四つの土地です。

 

それぞれの土地は、このたとえ話で唯一の登場人物である「種を蒔く人」が蒔いた種が運ばれた先です。すなわち蒔かれた種の行先、種が生育する先です。ところが、これらの四つの土地は、まったく並列に並べられて書かれているわけではありません。

 

最初の三つは並列かもしれません。4節の道端に落ちた種、5節の石だらけの土に落ちた種、7節の茨の中に落ちた種については、いずれもギリシャ語の原文では、一粒の種として単数形で表現されています。しかし8節の四つ目の良い土地に落ちた種は、ἄλλαと複数形で表現されています。

筆者のマルコが良い土地に落ちた種だけを複数形で書いた理由は、聖書に書かれていません。単に蒔いた種の数が多かったということだけではないようです。私たち聞く者がその理由をよく考えなさいということのようです。

 

そして、蒔かれた種がどうなったかということですが、最初の三つは、4節の「道端に落ち、鳥が来て食べてしまった」、5節の「石だらけで土の少ない所に落ち、・・すぐ芽を出した・・枯れてしまった」、6節、7節の「・・根がないために枯れてしまった」「茨の中に落ちた。・・実を結ばなかった」と、それぞれの地に落ちたことと、そしてどうなったかを、すべて過去形で書いています。

 

ところが、最後の良い土地に落ちた種については、8節で「良い土地に落ちた」は、ほかの種と同じ過去形で書いていますが、その後どうなったという動詞に違いがあります。

「芽生え、育って」は現在形です。歴史的真実です。そして、「実を結び」と、「あるもの(一粒の種:単数形)は三十倍、あるもの(一粒の種:単数形)は六十倍、あるもの(一粒の種:単数形)は百倍になった」というのですが、「実を結び」と「なった」と翻訳されている言葉は、原文では未完了形で、今も多くの実を結んでいる状態が続いていることを強調する表現を筆者のマルコが用いています。

 

たとえ話は、人々にとって最も分かり易い状況を設定して、身近な地上の物語を語ることによって、天上におけるその意味を聞かせるものでした。たとえで語られるすべての出来事、登場人物は、象徴的な意味を持つものでした。ですから、聴衆がその物語を最初に聞いたとき、どのような考えがその人の心の中に閃いたかが問題で、それは常に正しいというものです。

 

ところで、今年度からの私の杵築教会への赴任にあたって、ある方から、「東京砂漠の茨の中から、主は牧者を起こされるのですね」という、お祝のメッセージをいただきました。その方は、東京は茨の中のように感じるが、主はそこに蒔かれた種さえも芽を出して、成長する可能性があると、受け取っておられるのです。そして、私への励ましの言葉として用いてくださったのです。

 

このように、このたとえ話の唯一の登場人物である「種を蒔く人」に注目してみることは大切なことです。当時のパレスチナの地での種蒔きは、直播きです。まず種を蒔いていました。それから土地を整えたそうです。種を蒔いた後で鋤(すき)を入れ、場合によっては石を取り除いたり、茨や雑草を取り除いたようです。無駄になる種が多いとお気づきでしょう。

しかし、このたとえ話では良い土地に蒔かれた種は、最高で百倍もの大きな収穫があって、すべての無駄が帳消しになるというのです。終わりよければすべてよし、ということなのです。

 

いずれにしても、「種を蒔く人」がすべての労苦を担うのです。「種を蒔く人」は惜しみなく種を蒔いています。

必ず良い実を結ぶことを信じて、種を蒔き続けているその姿は、山梨県立美術館にあるゴッホの「種を蒔く人」という絵で有名です。そして、「種を蒔く人」は、天上の神のことであると説明されているのです。

 

次に、このたとえ話を聞く私たちの目線を変えて、このたとえ話を聞く自分は、どんな土地だろうかと考えてください。

私たちは、道端の土地であり、石だらけで土の少ない地や茨の地であると思われるかも知れません。自分は、よい実を結ぶことができる土地だとは言えないかもしれないと不安を覚えるかも知れません。

 

私たちは、神が蒔いてくださった種を、すぐ枯らしてしまうかもしれません。そんな私たちであるにも拘わらず、私たちのために労苦して、土地を整え、実を結ぶことができるようしてくださる方が神であることを知ると、神への感謝の気持ちでいっぱいになります。

私たちは、種を蒔く神の愛とご労苦に感謝を献げることしかできません。

 

主イエスは、私たちに御言葉を聞く耳を与え、聞くべき言葉を与えてくださり、私たちの罪を背負って、十字架にお架かりになるほどの労苦をしてくださる方です。そしてこの「種を蒔く人」は、今もなお御言葉の種を蒔き続けてくださっています。私たちは御言葉を聴き続けることができ、今もなお多くの実を結び続けさせていただいているのです。

 

私たちはすぐに人を変えたがります。私たち人間は、なかなか変わることができないところがあります。相変わらず変わらない人を見て、どうしてあの人はこうなのだろう、どうして変わってくれないのかと、私たちは他人に対してはすぐ変わってくれと願います。

しかしそのくせ、肝心の自分はなかなか変わることができない、そんなところがあります。反省すること大です。土地の土壌は、そう簡単には変わりません。人間も同じです。

 

しかし、信仰を持って主イエスのもとに集い、御言葉を聴き続けている人は、確実に変わっていきます。幸いなことに、毎週、御言葉を聴き続けると、皆が変わっていく現実を目にしています。必ず良い方向に変わっていきます。茨の中から、良い地に移されるのです。信仰的になっていく、聖書的な考え方が身についていきます。

ですから、教会に来ておられる方は、良い地に、「流れのほとりに植えられた木」(詩編1:3)、植え替えられた木なのです。

私の例であれば、東京砂漠という茨の中から、杵築という良い地に植えられた木、植え替えられた木と言うことなのかも知れません。

 

御言葉の種には、神の力が働くからです。主イエスが今日も御言葉の種を蒔いてくださっているのですから、私たちは主イエスのお言葉に聞き従いたいと思います。

そうすれば、私たちは、神が蒔いてくださったその種ですから、良い地に植えられた木となり、恵の太陽の光と水が降り注がれ、成長して、やがて実を結ばせることができるのです。

 

3. 御旨のままに

 

本日、私たちに与えられた旧約聖書は、詩編第135編です。

前586年イスラエルは、バビロニアに滅ぼされ、バビロンに捕囚されました。捕囚50年後、前539年ペルシヤ帝国のクロス王がバビロニヤ帝国を倒して、捕囚の民を帰還させる平和政策をとったことから、イスラエルの民はエルサレムに帰還して神殿を再建することができました。詩編135編は、そのイスラエルの民がバビロン捕囚から解放された時に、神を讃美した詩編です。

 

イスラエルの民が悔い改めて神に従ったからエルサレムに帰還できたというのではありません。御旨のままに、神のご計画の中で、神の力によって、バビロンからの帰還がなされたのです。そのことを前提として、詩編135編を読み進めて参りましょう。

6節と7節には、「天において、地において、海とすべての深淵において、主は何事をも御旨のままに行われる。地の果てに雨雲を湧き上がらせ、稲妻を放って雨を降らせ、風を倉から送り出される。」と、神が力あるお方であることが語られています。

10節では、「主は多くの国を撃ち、強大な王らを倒された。」と、イスラエルの歴史を振り返ります。そして、14節には、「主は御自分の民の裁きを行い/僕らを力づけられる。」と、主の統治の下にイスラエルの民がいることを記しています。

 

16、17節では、「口があっても話せず/目があっても見えない。耳があっても聞こえず/鼻と口には息が通わない。」と偶像について語ります。そして、18節では、「偶像を造り、それに依り頼む者は皆、偶像と同じようになる。」と、被造物である偶像を拝む人間に対して、口があり、目があり、耳があり、鼻があり、それぞれの器官があって機能していたとしても、偶像と同じように、それらは機能しなくならないようにと警鐘を発しているのです。

 

主イエスは、今日も御言葉の種をあらゆる土地に無尽蔵に種を蒔き続けて下さっています。

蒔かれた地を良い土地にして下さったり、主の流れのほとりに植え替えて下さるのも神の業であり、恵の雨と恵の光を降り注義続けて下さるのも神の業なのです。

 

ところで、ゆっくりとした歩みで、長崎から90度進行方向を東に変えて杵築を通過していき、紀伊半島沖で今度は真北に90度方向を変えて温帯性低気圧になった、台風10号サンサンでしたが、その不思議な足取りさえも主が統べ治めておられるのです。

 

マルコ4章9節の「聞く耳のある者は聞きなさい」という主イエスの御言葉をしっかり確認して、礼拝から礼拝へと続く日々を感謝しながら歩ませてくださいと祈ります。

私たちは主の前にへりくだり、ご一緒に恵の光の中を歩み、土壌改良までして下さる「種を蒔く人」である、主イエスをただ信じる者でいたいと願います。




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