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執筆者の写真金森一雄

私と私の家とは主に仕える

更新日:2021年9月9日

(証し)


私は1949年、昭和24年の戦後の経済復興が緒に就いたばかりの東京で生まれました。

所謂、団塊の世代です。小学校時代は一クラス50人以上という、すし詰め状態でした。

その中で、「押し競饅頭、押されて泣くな」の遊びのままに、どうすれば仲間を押し出して自分が生き残れるか、どうすれば勝ち残れるのかと、悪知恵を働かせていました。


中学、高校と順調に進み、大学進学のときは、恩師の熱意ある勧めを袖にして、自分の行きたい大学を選ぶという勝手気ままな人間でした。

私が大学卒業を間近に控えた時は、高度成長下の売り手市場で、私は卒業後の仕事を早く決めてしまいたい一心で、最初に内定を出す銀行にお世話になることにしました。

入社後一年目の仕事は、退屈で仕方がなく、朝からアフターファイブを心待ちにし、夜な夜なネオン街に繰り出しては、遊びのフルコースをマスターすることに励みました。

やがて仕事も忙しくなり、プロの銀行マンに徹して、昼夜を問わず、仕事と遊びの区別もなく、毎日を過ごしていました。当時の友人からは「刀の刃の上を歩く、鉈のような男」と言われて、自己中心的な行動が目立つ鼻持ちならないバンカー、馬鹿者でした。

やがて、国際企画部所属となり、そこでも「会社(仕事)を通しての自己実現」にあくせくする、典型的なワーカホリック日本人ビジネスマンでした。

そんなある日、シドニー大学出身の新人スタッフが私に聖書をプレゼントしてくれました。日本語の聖書を難なく読みこなす彼に、私は驚きながらも対抗意識を燃やして聖書を読み始めたのですが、ほとんど理解できませんでした。

その後、バブル経済が崩壊し、銀行内で次々と問題が発生しました。私は、その対応策を講じるセクションに就きましたが、トラブルが後を絶ちません。その時ふと、「人間の考えた仕組みやルールだけでは限界がある。倫理とか宗教的なものが、企業の中にも必要なのではないか。」と思い、先にプレゼントされていた聖書に自然と手が伸びて行きました。

「わたしは道であり、真理であり、命である。」

ヨハネ14章6節aの言葉にはびっくりしました。

「イエスが真理なの?命って何だ?」と思い、さらに聖書を読み進めました。

そして、その「何か」を求めて、私はキリスト教会の門をたたくことになりました。


教会に行き始めていたある日曜日の礼拝中に、私は高熱を発して倒れ、三日三晩寝込んでしまいました。ベッドの中で聖書を読んでいると、

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

このマルコ2章17節の言葉に、私は釘付けになりました。

このとき、私は初めて、「自分は今、こうしてベッドに臥せっているけれど、実は身体の病人ではなく心の病人なのだ。」と気づきました。

そして、「独り善がりで哀れなこの私は、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じなければ救われないのだ。」とはっきりわかり、自然と涙が溢れて来ました。

私の洗礼式には、愛する妻と娘、そして私の両親と姉、中高、大学、職場の友人が証人として立ち会ってくれました。その時いただいた記念品が「木製の壁かけ」で、「私と私の家とは主に仕える」という、旧約聖書ヨシュア24章15節の言葉が刻まれていました。


この聖書の言葉通りイエスさまの家族に、愛する妻が私の受洗4年後に、そしてさらにその5年後に娘が加わりました。こうして共に主に仕えていく「礎」が形成されていきました。


信仰とは個人のものですから、身近な周囲の人をイエスさまの家に導くことは、人の力だけでは出来ないことです。神さまの招かれるときを待つ必要があります。

私の両親は浄土真宗の熱心な檀家でした。それでも、私の洗礼式には出席してくれましたし、その後もキリスト教関係の新聞・書籍やDVDを届けると、気軽に受け取って目を通していました。


ところが、父の90歳の誕生日に、一つの出来事がありました。

多くの人が参加しているお祝いの席で突然、父が私たち家族三人に向かって、「伝道のために帰ってくるのなら来るな」と、暴言を吐いたのです。

シベリアでの捕囚経験のあるお祖父ちゃんの発言でしたから、その祝いの席がシーンとなりました。娘はとても驚いて怖がっていましたが、私は何かが起きていると感じました。

それからさらに4年後の出来事です。

「お墓参りに行くから、連れて行ってくれ」と言われ、いつもそうしている通り、私たち家族が車で両親を迎えに行きました。お墓に着くと、いつもの通り皆で周囲の掃除をして、お花を飾り、お線香をあげてと、自然と手分けしてそれぞれが動き回っていました。

ところがその日は、父だけがいつもと違う動きをしたのです。父が抱えていたカバンの中から、父の両親(私の祖父母)の位牌を取り出して墓前に並べ始めたのです。いつもは、お墓参りに位牌は持って行きません。


ドーンと大きな音がしました。父が、お墓の塀で頭を強く打って血を流して倒れていました。すぐに救急車で病院に運ばれました。お墓参りは、そこで中止です。


この事件以降、父は家の仏壇の扉を閉ざしました。お墓参りには、誰も行かなくなりました。そのお墓は、父が50年前に建立したもので、まだ誰も入っていないのです。

それからさらに3年後、両親とも90歳を超えると徐々に痴呆が目立ちはじめたので、親族が集まって相談して、両親の家の近くのグループホームに入所することになりました。


祈祷会でこのことを報告すると、鎌倉教会の森牧師ご夫妻が片道3時間もかかるホームを訪問してくださいました。笑顔で迎えた両親に、「鎌倉教会百年史」を記念品として手渡してくださり、しばらく歓談していた森牧師は、突然大きな声で両親に語り掛けました。

「今日は、一雄さんと涼子さんの強い思いをお伝えしたくて伺いました。

一雄さんと涼子さんが行くところは決まっています。ご存じですよね。

そこに、芳雄さんも一恵さんも一緒に行ってほしいと言っていますよ。

『お父さん、お母さんと、ずっと一緒にいたい』と言っています。

お父さん、お母さん、どうですか?ずっと一雄さんと涼子さんと一緒にいたいでしょう?」


父と母は、涙を浮かべてしっかりとうなずきました。

そして父は、森牧師の手を取って、

「教会が来てくれた。こんな立派な先生が来てくれた。ありがたい。」と頭を垂れました。

母は、 「これから励みます。アーメン。」と答えました。

そばにいた私はこの間、ずっと涙が止まらず、ぐしょぐしょになりました。


こうして、主の憐れみの中でその時が思いがけない形でやって来たのです。

今から6年前、2014年7月、父が97歳、母が91歳の出来事です。


最後に詩篇14章2節をお読みします。


主は天から人の子らを見渡し、探される 

目覚めた人、神を求める人はいないか、と。



(あとがき)

本稿は、2020年11月10日に開催された東京神学大学の「クラス別懇談会」での証です。

現在、Covid virusとインフルエンザへの感染拡大防止対策が求められている中にありますが、東京神学大学の教職員方によって構築されたWebexを活用したリモート形式で、この集会が開かれたことに感謝しながら、次のような祈りをさせていただきました。


慈愛に溢れる天のお父さま

私たちは、あなたの御傍にいることが許されることに値しない者です。あなたのことを正しく語り、あなたのことばを正しく聴くためには、あなたの助けが必要です。

どうか、私たちが自分で賢くあろうとしたり、何でも知ったかぶりしてしまう誘惑に陥ることをお許しにならないでください。そして、あなたの真理によって私たちを包み込んでください。

「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マルコ3:35)という言葉に従って、献身を志す私たちがあなたの家の家族として、あなたから慰めをいただきながら、あなたと共に歩んでいくことができますよう、私たちを導いてください。

このお祈りを、イエスさまのお名前によって、お捧げいたします。アーメン!


マルコによる福音書3章33-35節

イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここに私の母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

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