本稿は、2024年神学校日の説教として、日本基督教団杵築教会2024年10月27日の主日礼拝において奉仕した重村智計神学生の説教要旨です。
(聖書)
コヘレトの言葉11章6節
マタイによる福音書6章27~34節
今日は神学校日ということで、訪問させていただきました 昔から東神大は、教会の皆様に支えられています。そのお礼も兼ねて、訪問しました、というのが大義名分ですが、実のところ私は、金森先生にお会いしたくて、押しかけました。
皆様に何を話したらいいか、悩んだいたところ、 一週間前の木曜日、昼休みの時間、東神大の隣にあるルーテル大学の、昼のチャペル礼拝の門が開いていました。のぞいてみますと、2年生の一般女子学生が、コヘレトの言葉1章を読みだしました。
今日コヘレトの言葉を、皆さんにお話しするつもりだったので、神様のお導きだと思いました。彼女は、コヘレトの言葉1章を読んだのです。1章1節は、旧約聖書1,034ページです。
聖書を読んだ女子学生は、このように話しました。
「自分の人生は空しい、と感じていたので、この言葉が心にしみた。死にたいとも思った。
でも12章1節(旧1047頁)の「青春の日に、お前の創造主に心をとめよ」の言葉に、動かされた。
私は、神様に造られた被造物だ。自分で自分を作ったのではない、と気づいた。
彼女は、コヘレトの言葉を繰り返し読んだ。「自分には愛する人がいる、自分を愛してくれる母親や友達もいる、何よりも神様が自分を愛してくださる。人生は空ではない。」
コヘレトの言葉の第1章。この文章は、おかしい、と思いませんか。
1章の文章には、主語がないのです。「空しい、空しい」というが、何が空しいのか説明しないのです。読者が、勝手に主語を作れる のです。
「人生は、空しい」「世間は空しい」。あるいは、「会社は、空しい」「恋愛は空しい」「授業は空しい」「競争は空しい」。
また、 「教会は空しい」「牧師は空しい」。「説教は空しい」 これは、ウソです。
私は、若い頃、牧師先生の説教に、「今日の説教はよかった」とか、「よくわからない」とか勝手なことを言っていました。今では心から反省しているのです。東神大の学びの中で、説教を作るのがいかに大変なことか、わかったのです。
牧師先生は、毎週、毎週、説教を考えるから、大変だと、この歳になって理解したのです。
多くの牧師さんたちは、今はもう天に召されています。謝ろうにも、謝れません。
コヘレトの言葉は 主語を入れると 意味がわかるのです。
「神のいない人生は、空の空」、「イエス様のおられない人生は、空しい。つまり「神に頼る人生は、空しくない」「イエス様を信じる人生は、空ではない」。これなら、わかります。
コヘレトは「神様のいない人生は、空しい」「神さまのいない世界は空しい」と、読ませたかったのです。それを最初から言えばいいのに、わざと言わない。
コヘレトは、やや性格の歪んだ、逆説の人なのだ。自分に似ていると思った。皆さんのことではないのです。私の性格にそっくりなのです。
先のルーテル大学の女子学生も、それに気がついたのです。
自分が愛し、愛され、神様が愛してくださる人生は、素晴らしいと思ったようです。
表題の「コヘレト」は、ヘブル語では、「人を集めるもの」「集会を司会する者」の意味で、伝道者との意味にもなるのです。以前の聖書では「伝道者の書」とのタイトルでした。
筆者について、「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉と 1章1節は記しています。
ダビデの子は、ソロモン王を意味すると解釈されます。
ソロモンが、書いたとは言いませんから、誰かが、ソロモン王の言葉をまとめたのかもしれないのです。
コヘレトの言葉の最後の部分12章9節に 誰が書いたかについて、ヒントがあります。
「コヘレトは知恵を求めるにつれて、よりよく民を教え、知識を与えた。多くの格言を吟味し、研究し、編集した」と書かれています。自分が書いたと言わずに、「多くの格言を吟味し、研究した」というのですから、なかなか正直なのだと思います。
ソロモン王は、紀元前900年頃の人です。日本は、まだ縄文時代。イスラエルでは国家ができ、神様を礼拝していた。そして旧約聖書が書かれたのです。
ソロモン王は、旧約聖書の中では、箴言と雅歌、コヘレトの言葉を書いたとされる 格言・処世訓を集めた箴言は、力あふれた絶頂の壮年期、男女の愛情を歌う雅歌は青年期、コヘレトの言葉は、人生の終わりの老齢期に 書かれたと言われるのです。
「空」「空しい」の言葉は、ヘブル語では「ヘベル」といいます。
「ヘベル」は、「空」「空しい」と理解するよりは、「束の間」と考えた方が、作者の意図に近い、との解釈もあるようです。当時のイスラエルの人々の平均寿命は、35歳ぐらい 文字通り人生は「束の間」だった。だから、「束の間」「空」「空しい」「へベル」の言葉には、実感があったのです。
今から、3千年も前にコヘレトの言葉は語られた。今も歴史は続いている 三千年の歴史を思うと、我々の人生はなんとも短い。この永遠に続く歴史の中に、みなさんは入れられている。これが、コヘレトのいう「空ではない」「空しくはない」、「束の間だから、懸命に生きよ」との真理なのです。
コヘレトは、当時流行した「終末的思想 に抵抗し、逆説を語った 終末思想への「逆転の発想」を、説いた。終末思想は「どうせ人生は空だから、飲み食いして、遊び歩いて、享楽にふけろう」と、呼びかけた 「永遠を思う心」の否定だ。
コヘレトは、これに抵抗して「空ではない」「空しくない」との言葉を残した。
抵抗の人です。
ある刑務所の受刑者が、東京神学大の小友聡教授の著書「コヘレトの言葉」を読み、悔い改めたというのです。彼は、「自分の力で生きている」と思っていた けれど、小友教授の本を読み 「自分は、神様に生かされている」と 気づいたというのです。 小友教授は、コヘレトの言葉の第一人者です。
この受刑者は、元法務大臣。ご記憶かどうか。広島県での参議院選挙で、自分の奥さんのために、買収行為をした。懲役〇年の刑。かつては、安倍晋三元首相の側近で、権力を握っていた。安倍さんの意向を受け、安倍さんを批判する岸田派の議員の、刺客として、自分の妻を当選させた。この時は、いずれ総理になり、権力を握る夢を見た。というのです。
それが、選挙違反に問われた。検察は、安倍さんの検事総長人事への介入に抵抗していたから、法務大臣の選挙違反を許せなかったのです。
彼は、権力の絶頂から、奈落の底に突き落とされ、人々は離れた。刑期を終えた後の将来は、見えない。 当初は、自分は検察と安倍さんの対立の犠牲者だと思い、検察にはめられた、と考えた。人間は、自分の罪を人のせいにするものです。
ところが、コヘレトの言葉で、考えが変わった。彼は、このように書いたのです。
「旧約聖書の『コヘレトの言葉』と、小友聡牧師の本を熟読した。コヘレトは絶望の中で、『それでも生きよと、呼びかけている』」。人生は不条理だ。しかし、これでもかというほど、苦しい不条理な経験をしても、それで人生は終わらない。必ず時が来て、人生に調和をもたらすから 生きねばならない」。
小友先生は、著書で書いている。
「眠れない夜を過ごし、朝になっても今日をどう生きたらいいか、思い悩むとき、コヘレトは言う『生きよ、タネをまけ。いつか必ずシャローム(平和)が来る 。このコヘレトの言葉を思い出してほしい。生きていれば、闇の向こうに明日がある。
元法務大臣は、この言葉に涙したといいます。
彼は、こう書いている。
「悩み苦しむ、世の人々や、僕のせいで、不条理や理不尽な目にあってきた妻に、コヘレトの言葉が心に沁み入り、人生の希望が聖書の信仰にあることに気がついてほしい。僕は猛烈にそう願っている」
コヘレトの言葉の3章1節から8節は、「時の詩」と言われる 「すべてのことには、時がある」。神様がその時 を与えてくださるのです。
イエス様は、旧約聖書のコヘレトの言葉を読まれていた と言われる。山上の説教で、次のように語られました。新約聖書マタイよる福音書6章27節から30節を読みます。
「あなた方のうちの誰が、思い煩ったからと言って、寿命をわずかでも伸ばすことが、できようか。なぜ、衣服のことで思い煩うのか。野の花がどのように育つのか、よく学びなさい。働きもせず、つむぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなた方はなおさらのことではないか」
イエス様は、ソロモンと言われた、コヘレトの言葉を、お読みになっていたのです。
イエス様は、野の花の生涯を 「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる」と
語った 束の間 だ 空で、空しい。それでも、神様はあなた方の人生をソロモンよりも美しくする、とイエス様はおっしゃったのです。
「空ではない、虚しくはない」、神様が飾ってくださる「時」が、あなたに来る。
神様が支える人生は、空ではない。空しくもない。
神様は、あなたの人生を着飾ってくださるのです。
イエス様は、何度も「あなたの罪は許される」と語られました。
そして、旧約聖書はイエス様を「インマヌエル」と預言したのです。
マタイ福音書は、 インマヌエルとは、「神我らと共にあり」の意味と書いたのです。
イエス様は、皆さんと共におり、皆さんに豊かな人生の時を与えてくださる。
忘れないでください。「イエス様が共におられる人生は、豊かだ。空しくない」
神様は、あなた方の人生を、ソロモンよりも美しくするというのです。
この言葉の直後に、イエス様は私たちのために、十字架に掛けられ復活されました。
小友先生は コヘレトの 言葉を、「土曜日のキリスト」と、説明するのです。
イエス・キリストは 金曜日に 十字架にかかり、土曜日は 暗い墓の中で過ごし、日曜日に 復活されたのです。
コヘレトは、11章6節で 「朝にタネをまき、夕べに手を休めるな」と言うのです。
朝がくれば 私たちのために、イエス様が復活される。
「生きよ、タネをまけ。生きていれば、闇の向こうにイエス様がおられる」。
与えられた命を懸命に生き抜け、との声が聞こえたのです。
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