本稿は、日本基督教団杵築教会における2024年9月1日の聖霊降臨節第16主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄
(聖書)
コヘレトの言葉12章3~14節(旧1048頁)
マタイによる福音書6章27~30節(新10頁)
1.神を畏れ、その戒めを守れ
本日、私たちに合わせて与えられたコヘレトの言葉は「伝道の書」とも呼ばれています。何らかのことを伝えようとしている伝道者が書いた書物だからです。
そもそも伝道者だというこの人はいったい誰なのでしょうか。そして、この人は何を伝えようとしているのでしょうか。
コヘレトの言葉の1章1節(1034頁)を見ると、「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」とあります。また、12節には「わたしコヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた」ともあります。こういう記述から、イスラエルの最も偉大な王であるダビデ王の息子で、次のイスラエルの王となったソロモンのことだということが分かります。ただ、ソロモン自身が書いたわけではなく、ソロモンは最も知恵に秀でた王として知られていますから、ソロモンの名をとって語られた書物ということになるでしょう。
このコヘレトすなわち伝道者は、この世界における様々なことを考察しています。1章の2節で、「コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」と言っています。世界を悲観的に捉えているのです。ただ単に、神を信じればよいことがある、とは考えていません。神を信じて、清く正しく生きていたとしても、よいことばかりとは限らない、といった冷静な考察をしていきます。
先ほどお読みしたコヘレトの言葉12章lkの3節以降(旧1048頁)には、その日には、と記して、かなりの大きな空しい出来事が起こった情景が描写されていきます。5節のアーモンドは白い花を咲かせますというのは、人が白髪になることの比喩です。6節の「泉のほとりに壺は割れ、井戸車は砕けて落ちる」は迫り来る死をイメージした表現です。そして、7節では、「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。」と語ります。人は無に帰していくのではなく、霊は神に帰るというのですが、それは、キリスト者の信仰と同じものです。そして8節で、この伝道者は、「なんと空しいことか、…すべては空しい、」と言うのです。
後書きの結論となるのが、9~11節です。「コヘレトは知恵を深めるにつれて、より良く民を教え、知識を与えた。多くの格言を吟味し、研究し、編集した。コヘレトは望ましい語句を探し求め、真理の言葉を忠実に記録しようとした。賢者の言葉はすべて、突き棒や釘。ただひとりの牧者に由来し、収集家が編集した。」と書かれています。
ここに(11節b)出てくる「ただひとりの牧者」とは誰のことなのでしょうか。
知恵のソロモン王のことなのでしょうか。そうではないようです。ソロモンはどちらかと言うと「賢者」であると考えられるから、「牧者」ではないのです。そのソロモンが、知恵ある者たちの言葉を探し求めて集めると、それらはすべて「ただひとりの牧者」に由来しているということが分かったというのです。そう考えると、「ひとりの牧者」とは、神以外には考えられないということになります。
そして13節では、「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。」だと言うのです。コヘレトの言葉においては、結局、すべての空しさを乗り越えるのは、神以外にないと結論付けているのです。人生には様々なことが起きるかもしれない。理不尽なことも起こるかもしれない。空しさを感じることがあるかもしれない。いろいろと思い悩むこともあるかもしれない。いや生きている限り必ずあるでしょう。
しかしそれでも神と共に生きること以外にないと言うのです。
2.思い悩むな
今日与えられた新約聖書の箇所は、マタイによる福音書6章の25節から34節です。主イエスは、人生の空しさを感じたり、思い悩んだりする私たちに対して、コヘレトの言葉よりも、もっと具体的な生きるための解決方法を教えてくださいます。
マタイによる福音書6章の25節の冒頭の小見出しのタイトルとして「思い悩むな」と書かれています。25節の冒頭に「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」と書かれています。
「自分の命」とは、単なる命のことではなく、私たち人間の全存在を表す言葉です。私たちの命は軽くはない、何よりも大切だと言うのです。主イエスは、命を懸けて私たちを愛してくださいました。私たちの命は、御子イエス・キリストの命が懸かっているほど重たいものなのです。私たちの罪を赦すために、私たちが神の国に生きることができるように、御子イエス・キリストが十字架で肉を裂いて血を流してくださったのです。
私たちがそのことを知った時に初めて、私たちは自分の命の価値の大きさが分かります。
十字架の重みが私たちの命の重みに匹敵しているのです。そしてこのことが分かり、信じた時に、私たちの小さな信仰が大きくされるのです。
ヨハネによる福音書3章16節には、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」という、福音の中の福音と言われる言葉があります。主イエス・キリストの罪の赦しを信じて、洗礼を受け、キリスト者として生涯にわたって歩むときに、多くの人が、自分の座右の銘として選び、その後の信仰生活において大切にしている御言葉です。
ここで、独り子である主イエスの命と、私たちの命が比べられています。私たちの命は神の独り子イエスの命が与えられたほどだと言っているのです。
命の重さについては、聖書の至るところに記されています。
旧約聖書のイザヤ書43章4節(1130頁)には、「わたしの目にあなたは価(あたい)高く、貴(とうと)く、わたしはあなたを愛しあなたの身代わりとして人を与え…」とあります。
あなたは、高価で貴(とうと)い存在であり、神はあなたを愛していると言うのです。
私たちの命の価値は、自分では判断できません。自分で判断するなら、自分の命の価値はあまりないと思ってしまいます。確かに、自分の存在は小さい、取るに足りない、愛してくれる人も少ないと思わざるを得ません。
私たちは聖餐式で、パンと杯に与る直前に「あなたのために、主が命を捨てられたことを覚え…」「あなたのために、主が血を流されたことを覚え…」という招きの言葉を聴きます。この聖餐に与る時、神の国と神の義を本当に神が与えていてくださることが分かります。
ここに私たちが求めるべきものがあります。
聖餐の食卓に一人でも多くの者が連なることができますようにと祈ります。
私たちの信仰の原点に関わることであり、とても大切なことなので、多くの聖書箇所を用いてお話しさせていただきましたが、今日与えられている新約聖書のマタイによる福音書に戻ります。
6章27節に、「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」「しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」と書かれています。
続く30節では、神が野の草を装ってくださっていることに目を向けて、その前の25節で記した私たちの思い悩みの言葉、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』という言葉を二重括弧で強調してもう一度示しています。
主イエスは、衣食住などのことを求めても思い悩みが尽きませんよ、最も求めるべきものを求めなさい、と言われているのです。そして、30節bでは、「信仰の薄い者たちよ」と、警鐘を鳴らすかのように語ります。
この「信仰の薄い者たちよ」という言葉は、「薄い」を「小さい」と訳して、「信仰の小さい者たちよ」と、した方がよいかもしれません。私たち人間は本当に小さな存在です。
ユダヤ教において、小さいという言葉は、神を全く信頼しない人間を特徴づけるものです。
創造者なる神は、部分的な、半分の信頼または服従、すなわち「小さい信仰」ではなくて、私たちの全面的な信頼を求めます。
私たちが問われているのは、人間が小さい事柄に至るまで、完全に創造者なる神に拠り頼むかどうかという問題なのです。
3.神の国と神の義を求めなさい
32節には、「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」と記されています。ここには、だからあなたがたに天の父が必要なものを下さるとは、直接的に書かれていません。マタイにしてみれば、そこまで言わなくても分かるでしょうと言うのでしょう。
ところが、同じ内容を記しているルカによる福音書12章では、32節(132頁)に、「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と、天の父のはっきりとした約束事として書かれています。
そして、33節には、主イエスが、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」と言われた言葉を書いています。勿論、ルカもこのことを同じように書いています。現在でも、多くの教会で賛美の言葉として繰り返し用いられています。
神は与えることを惜しまれるような神ではありません。神の国と神の義を求める者に、その必要なものを喜んで与えてくださる、神はあなたを飾ってくださる、装ってくださるということを強調しているのです。ですから、私たちの必要をすべてご存じで、私たちを飾ってくださる神に感謝を込めて、今日の説教題を「神はあなたを飾られる」とさせていただきました。
ところで、神の国と神の義とは何でしょうか。神の国とは、神がそこにおられ、神のご支配が成り立っているところです。神の義とは、義という漢字を訓読みにして義(ただ)しいと読むと分かりやすいと思いますが、神の義(ただ)しさに生きることです。あなたはよい、あなたは義(ただ)しい、神の国にいてよい、と神に言っていただくことです。
神は喜んで私たちに神の国と神の義を与えてくださるお方ですから、 たとえ、生活におけるどんな悩みが生じたとしても、どんなに空しいと思ったとしても、神が必ず善いように導いてくださる、そう信じて生きることが大切なのです。もっと分かりやすく言うならば、何も思い悩むことなく神とのかかわりの中に生きることが求められているのです。
最後に、マタイによる福音書6章33節、34節(11頁)を、主イエスの勧めの言葉として信仰を持って受け止めたいと思います。
皆さんとご一緒に、神に感謝を込めて大きな声で宣言したいと思います。
最後に、アーメン!と言ってください。
マタイによる福音書6章33節、34節。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
アーメン!。
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