本稿は、日本基督教団杵築教会における2024年8月25日の聖霊降臨節第15主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄
(聖書)
ネヘミヤ記8章1節~12節(旧749頁)
マルコによる福音書 3章 31節~ 35節(新66頁)
1.神の家族
今日、私たちに与えられた聖書箇所は、先週28節で「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」と、主イエスが仰られたことに続いている話です。
マルコによる福音書3章31、32節には、「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。『御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます』と知らされると、」と書かれています。
主イエスの母と弟たちは、外に立っていました。主イエスの話を聴こうとした様子はありません。それに対して、大勢の人が、家の中でイエスの周りに座っていました。身内の者が、「家の外に立っていた」。そして周りに座っている人々は、「家の中で座っていた」という情景を対照的に記すことによって、血のつながりのない身内の者よりも、主イエスの周りに座っている大勢の人に、筆者のマルコが焦点をあてて表現して書いているのです。
主イエスは、34、35節で、周りに座っている人々を見回して、主イエスの教えに耳を傾けている者たちを指して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」と、自分の周りにすわっている神の家族がいる、と言われたのです。そのように神の御心を行う人こそが自分の家族だと言われました。主イエスは、血のつながりによるのではなく、主イエスの教えを聴いているか聴いていないかということに焦点をあてて、家族であることより、家族になることが大切だと仰っているのです。
35節で主イエスが言われた、「神の御心を行う」とはどういうことでしょうか。
行うという言葉に引きずられて、何らかの具体的な奉仕や働きのことを思い浮かべるかもしれませんが、主イエスがここで言われたことから考えますと、「神の御心を行う」とは、何よりもまず主イエスの周りで、足元に座って、その声に耳を傾けるということなのです。
神さまが私たちを礼拝に招き、御言葉を聴かせてくださり、祝福を与えてくださるという、奉仕(サービス)を私たちにしてくださっています。ですから、礼拝こそが私たちがすべき最大の奉仕(サービス)として献げることこそが神の家族を形成するのです。
食べたり飲んだりした物が私たちの体を作っていきます。礼拝を通じて、聞いたり読んだりした御言葉が私たちの心を作っていきます。
礼拝に参加して、悪い言葉は受け流して心にいれず、よい言葉だけを吸収して、自分の心の一部にすることが大切なのです。
2.聖書の家族観
誤解のないように申し上げておきますが、聖書は決してこの世の血縁による家族のことを否定しているわけではありません。否定しているどころか、神によって与えられた家族として、感謝し、重んじて受け止めなければならないと言っています。しかし肉による家族が、血のつながりだけですべてがうまくいくかと言うと、そんなこともありません。
むしろ聖書の中には、人間の罪によってその大事な家族が引き裂かれてきたり、血がつながっていても兄弟同士で争ったり、親子で争ったり、そんな話がたくさんあります。
主イエスはそういう問題を抱えている私たちに、語り掛けてくださいます。繰り返しになりますが、聖書は、「家族である」ということよりも、「家族になる」ことの大切さを語っているのです。そして、「隣人である」ということよりも、「隣人になる」ことに努めなさい、と主イエスは仰っているのです。
もう少し踏み込んでこのことを考えたいと思います。
最近、政治の話として、「家族は助け合わなければならない」という文言を目にします。道徳的には当たり前のことなのかもしれませんが、国家がすべき助けの手を「家族」に負わせようとしているのではないか、などと批判されることもあります。昔は大家族が多かったといわれています。それが核家族化して、昔ながらの家族が成り立たなくなっている。それに伴い様々な問題も生じているのです。
だからといって、昔ながらの家族観に戻れば、今の問題がすべて解決するのか、と言ったら、そんなことはないでしょう。
聖書の家族観とはどのようなものか、聖書を調べてみました。
新約聖書エフェソの信徒への手紙6章1~6節(359頁)に、このように書かれています。「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。『父と母を敬いなさい。』これは約束を伴う最初の掟です。『そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる』という約束です。父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」というものです。
ここでは先ず、子供たちに向けて、主に対するように両親に従いなさいと言い、2節、3節で「約束」という言葉を二度も用いて、父と母を敬えば、幸福と長寿が約束されると、強調しています。それだけで子育てが済むわけにはいきません。続きがあります。いk
4節では、「子供を怒らせててはならない」と、父親たちへの訓戒の言葉が続いています。しかしここは、父親だけでなく母親も含めて、親の役割を担う者に向けて、「主がしつけ諭されるように、育てなさい」と語られていると考えるべきでしょう。
さらに聖書の家族観がよく表れている箇所をご紹介します。
旧約聖書創世記2章18節に、主なる神が「人は独りでいるには良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と言われて、22節で「人から抜き👦とったあばら骨で女を作り上げられた」と書かれています。そして24節で、「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」という言葉に続いています。ここの父母を離れてというところは、訳し方によっては、父母を捨ててとも訳せます。子は親の元を離れていきます。お互いに親離れ、子離れをしなければならないのです。すなわち、聖書には、結婚によって二人は一体になる、新しい家族になる、と書かれているのです。
そうしてみますと、繰り返しになりますが、やはり聖書では「家族である」ことよりも、「家族になる」ことを重視していることがお分かりいただけると思います。
3.神の家族としての聖徒の交わり
「家族になる」ということについて言えば、教会も神の「家族になる」ことです。ですから、教会では意識して、お互いを兄弟姉妹と呼んでいる人が多いのです。
私たちが礼拝で毎週告白している使徒信条の最後で、「公同の教会、聖徒の交わり」を信ず、と告白しています。そのように教会では、誰もが主イエス・キリストを信じて、その信仰によって、キリストを共通の仲介者としての聖徒の交わりを大切にしています。
私もキリストとの交わりを持っている、あの人もキリストとの交わりを持っている、その私とあの人が交わるのですが、あの人もキリストとの交わりを持っている人なのです。
言い換えれば、私たちはその人と直接交わるのではなく、キリストを仲介者としてその人と交わることができると考えているのです。
同じ神を信じ、同じ主イエス・キリストによって救われ、同じ聖霊に導かれ、同じ御言葉を聴き、同じ聖餐の糧に与り、共に礼拝を献げている。それが聖徒の交わりであり、それこそが聖徒の交わりなのです。
4.一人の人のようになった
本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書はネヘミヤ記8章1節~12節です。
ネヘミヤ記はエズラ記と並んで、前597年の第1回、前586年の第2回バビロン捕囚からイスラエルの民が回復していく様子が記されています。大国バビロンに滅ぼされ、国を失い、紀元前567年にはエルサレム神殿が崩壊され、その後、イスラエルの民が再び国を興していく様子が記されています。
ネヘミヤ記8章1節には、エルサレム神殿の城壁が修復され、完成を祝っている礼拝の様子について、「民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった」と記されています。
そして、3節には、モーセの律法の書が書記官エズラによって、「夜明けから正午まで朗読され、民は皆、その律法の書に耳を傾けた。」と書かれています。
6節には、民の礼拝した様子が書かれています。
「エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、『アーメン、アーメン』と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。」と、礼拝の中で民が皆一人の人のようになった様子が、感動的な言葉を連続して用いて、その礼拝の様子を目に浮かぶほどに詳細に記しています。
ところで、マルコによる福音書3章35節の「神の御心を行う人」という表現は、単数形で表現されています。大勢の群衆ではありません。一人の人です。
主イエスの足元に座り、主イエスから御言葉を聴く一人の人のことを指しています。一人ひとりの神様との関係が大切であることを指し示しています。
悲しいかな、ここでは、主イエスの母マリアも弟たちも退けられてしまいました。ここでは、主イエスの身内の者たちは、「人をやってイエスを呼ばせた」(マルコ3:31)と書かれているとおり、外に立っていた人たちだった、主イエスの話を聞こうとしていなかったからです。
しかし聖書には後日談が語られています。
それを見落としてはいけないのでご一緒に確認してみましょう。
ヨハネによる福音書19章25~27節(207頁)には、「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」と、イエスの十字架のそばに母マリアがいたことが記され、主イエスが母マリアと愛する弟子、ヨハネとを見て、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われ、それから弟子に言われています。そして、「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」と記されています。主イエスはここでも、家族である血のつながりの大切さを語られたのではなく、弟子のヨハネと母マリアが、新しい家族になることを望まれたのです。そして、私たちクリスチャンは、十字架上で語られた主イエスの言葉として、今も大切に受け止めているのです。
また、主イエスの弟のヤコブについては、使徒言行録15章13節(243頁)で、紀元49年頃開催されたエルサレムの使徒会議において、ヤコブが議場での論点を整理する中心的な役割を果たしている様子を知ることが出来ます。
弟ヤコブもまた、少し時間がかかったようですが、後に神の家族の一員になっているのです。
神の家族の一員になる時、また洗礼の時は、それぞれの人にとってベストタイミングで神さまから与えられるのです。
すべては神のご計画なのです。すべては、神に主権があることを信じて、私たちも「家族になる」ことを大切にしたいと思います。
どのようにして「神の家族」になるのかと言えば、共に座って、御言葉を聴き、共に聖餐に与り、共に礼拝をする。それだけの交わりかもしれません。
しかし、それ以上の深い交わりはありません。キリストとの交わりです。キリストを仲介者とする交わりは、血縁ではありません。
人間同士の横のつながりでの人間的な親しさでもないのかもしれません。しかしどんな絆よりも深い交わりがここにあるのです。それが神の家族なのです。
十字架に架かられた主イエスは、私たちが礼拝を通じてキリストとの交わりを続けて神の家族となることを望んでおられるのです。
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