本稿は、日本基督教団杵築教会における2024年9月15日の聖霊降臨節第18主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄
(聖書)
イザヤ書6章1-13節(旧1069頁)
マルコによる福音書4章10-12節(新67頁)
1.御言葉を聴く大切さ
プロテスタント教会では、特に説教を大事にしてきました。
もちろん聖書朗読も大切です。杵築教会でも司会者による悔い改めの祈りと聖書朗読によって、皆で共に御言葉を聞き、説教者が説教前に聖霊のご臨在を求める短い祈りをして説教が語られます。
聖書朗読や悔い改めの代表祈祷をする司会者と説教者は、教会に集う者の中から互選して選ばれています。
教会では、フラットで上下関係のないバリアフリーな運営を心がけていますので、礼拝の参加者が、主にあって解放された、皆が一体となりやすいような知恵が求められます。
だからこそ、礼拝における説教者と司会者の果たす働きは重要です。主の御用に遣えるものとして、礼拝参加者全員から顔がよく見えて、その声がよく聞こえるような工夫がなされる必要があります。
杵築教会では本日の礼拝から、説教者と司会者が講壇の上に座って、その席から参加者に向かって立ち上がって、御言葉を取り次ぐ働きをさせていただくようにしました。司会者のリードの下に、会堂に集う私たちが従来にもまして主にあって一つになって、礼拝させていただきたいと願っています。この心をご一緒に大切に共有させていただきましょう。そして、語る者、聞く者がいっしょに、今を生きる私たちに語られる神の御言葉として説教を受取ります。
神に悔い改めの祈りと感謝の応答の祈りを捧げて参りましょう。
さて、本日与えられたマルコによる福音書4章10節には、「イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。」とあります。
主イエスが湖の上の舟から降りられたために、主イエスがひとりになられたというのでしょうが、具体的に主イエスがどのようにされてひとりになられたのかは、ここには書かれていません。
10節の「イエスの周りにいた人たち」は、自分たちのことを「良い土地」だと思って御言葉を聴いています。その人々は、自分たちに優れたところがあるから「良い土地」であるとか、自分たちは「周りにいた人たち」になれてよかった、といったことを考えている様子はありません。ただ、自分たちの力よりも、救い主である主イエスの力を信じて、「良い土地」にしてくださると理解していました。
ここには、十二人の弟子たちとイエスの周りにいた人たち、という二組のグループがいます。
4章1節で「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。」と書かれていますので、彼らは自分たちは群衆ではない、イエスと共に歩んでいると信じているのです。
2.神の国の秘密
11節で主イエスは、「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている」と仰っています。教会において歴史的には、イエスの周りにいた人たちとは、自分たち弟子のことであり、神の国の秘密が打ち明けられていると考えてこの聖書の言葉を読んできました。
はっきりとは、そのように聖書に記されていませんが、そこに大切なポイントがあるのです。
聖書に書かれている表現から考えれば、ここでは弟子たちは主イエスと同じ舟に乗っていると考えられます。礼拝堂の中の会衆席は、ラテン語に由来していて、英語でnave(ネイブ)舟と言います。
皆さんが今お座りになっておられるところは、舟の中ということなのです。今日の聖書箇所の流れで考えれば舟に乗っていた時の話だと考えられるのです。
とすれば、この後の今日の聖書箇所については、湖の岸にいた群衆は聴いていない話です。主イエスと一緒に舟に乗っていた人たちだけが聴けた話なのです。
そのように受け止めて、その御言葉に耳を傾けてください。
11節bには、外の人々には、すべてがたとえで示される、と書かれています。普通は、たとえというのは、話を分かりやすくするために用いられるものです。難しい話があれば、「例えばね…」と言って分かりやすく説明するためのものです。ところがここでは、主イエスはそれとは逆のことを言われているのです。
そして、12節には、「それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」と書かれているのです。
3.信じる者と信じない者
この言葉は、先ほどお読みいただいた旧約聖書1069頁、イザヤ書6章9節の言葉です。6章は、イザヤが預言者としての召命を受ける聖書箇所に書かれています。
6章1節には、主が高く天にある御座に座しておられるのをイザヤが見た、とあります。
2節には、神の回りを舞っていた六つの翼を持つセラフィムが飛び交っています。セラフィムとは、人間の罪をきよめる天使です。
そして、6節で、天使セラフィムのひとりが、イザヤのところに飛んで来ました。そして7節に、イザヤの口に祭壇から火鋏(ヒバサミ)で取った炭火の火を触れさせて、「あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」と言ったと記されています。こうしてイザヤに神から罪の赦しが与えられました。8節では、主の御声をイザヤが聞きます。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」という神の召命の言葉です。神の問いかけに対して、イザヤは「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」と答えました。これに対して、主が9、10節で、「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」と、イザヤに語られた言葉が書かれています。
この預言が、今日のマルコによる福音書4章12節で「彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない」と、引用されているのです。
イザヤのこの預言は、マルコによる福音書だけでなく、マタイによる福音書13章14節、ヨハネによる福音書12章40節や使徒言行録28章26節でも引用されています。
いずれもイエスを信じない者たちについて、主イエスが、ユダヤ人たちから反感を買い、信じる者と信じない者に分かれるという記述の中で引用されているのです。
イザヤの時代もそうでした。圧倒的多数の者たちが、神の言葉を聴かない、信じない側にいたのです。新約聖書には、預言者イザヤの言葉が実現するために、主イエスの時代もこの信じるものと信じないものの二つに分かれるということが起こったと、記されています。
教会が始まったパウロの時代もそうでしたし、その後の時代もそうでした。今の私たちの時代もそうなのです。いつの時代であっても、神の十字架の言葉が語られ、それが聴かれるところにおいて、聴く者と聴かない者、信じる者と信じない者という、二つに分かれるということが起こりました。
どうして信じる者と信じない者の二つに分かれるのでしょうか。
その説明として、聖書が言っているいことがいくつかあります。
一つには、信じるか信じないかということは、聴いている側の人間の自由意志が与えられているからだということです。
しかしこれがすべてではありません。むしろもう一つ強調していることがあります。それは、そうなさっているのが、実は神さまご自身であるということです。
旧約聖書出エジプト記5節(旧100頁)の、モーセとエジプトの王ファラオとの交渉が書かれている箇所で見てみましょう。モーセは、イスラエルの民をエジプトから去らせてくれとファラオを説得するわけですが、ファラオは、なかなか去らせようとしません。
ファラオが自分の意志で自分の心をかたくなにしているかのように思えます。ところが、聖書には、「神がファラオの心をかたくなにさせた」と書いてあるのです。
そうだからと言って、信じない人がいる、信じない人は、その人が悪いのではなくて、神が信じないようにさせているのか。と考え出すと難問です。
私たちにとって大事なのは、この難問に挑み続けることではありません。そうではなく、私たちは舟に乗っているのですから、なぜ私たちは舟に乗ることができたのか、なぜ信じることができたのか、それは私たちの功績なのか、それとも神がそうさせてくださったのか、と考えるとよいと思います。
そうすれば、私たちが舟に乗ることができたこと、主イエスの愛、十字架の言葉を聴き、信じることができたこと、それらは私たち人間の力によってでは無くてすべて神からの賜物である、ということが分かるのです。
4.感謝して舟に乗る
聖書はまず私たちに、舟に乗ることができたこと、御言葉を聴くことができたこと、主イエスの十字架の愛を信じることができたこと、御言葉を聴き続けることができていることについて、それらは神からいただいた賜物として感謝することを私たちに求めています。
確かに舟に乗っていない人たちがいるかもしれません。それは事実です。しかしそうであるならばなおさら、私たちが舟に乗っている者として、舟の上から網を下ろして伝道をして、舟の上にその人を乗せることが大事になります。私たちだって、かつては舟には乗っていなかったのに、今こうして舟の上に乗せていただいたのですから。 まず、自分が舟の上に乗せていただいていることに感謝する、そして主イエスが共におられる舟の上に、一人でも多くの人に乗ってもらうことこそが、主のご意志なのです。
教会は、マルコによる福音書を書いたマルコが生きていた最初期の教会においても、一人でも多く舟に乗ってもらうという使命が与えられていることをきちんと受けとめてきました。
そして「種を蒔く人」のたとえを聴いて、先ず、自分たちは主イエスの「周りにいた人たち」であることを確認して、それから自分たちは「よい土地」の者たちであると受けとめたのです。
私たちも同じです。自分が優れているから今ここにいるのではありません。ただ、神の賜物として招かれただけです。舟に乗せていただいた者として、聞く耳が与えられた者として、そして、立ち帰って赦された者として、その神の国の秘密を知ることができた者として、私たちは歩んでいくことができるのです。
私たちは「よい土地」として種を蒔かれたのです。
ここにおられる皆さんお一人お一人が、それぞれ多くの実を結ばせていただけるよう、お祈りさせていただきます。
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