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執筆者の写真金森一雄

真(まこと)のダモイへの希望

更新日:2023年10月18日

本稿は、東京神学大学大学院の2022年度後期説教学演習Ⅰbの課題として、2023年2月8日に提出したレポートです。



(聖書協会共同訳)

エレミヤ書17章5節~13節『真のダモイへの希望』



(第一部)

昨年末、作家・辺見じゅんのノンフィクション小説「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」を原作として製作された「ラーゲリ(収容所)より愛を込めて」という映画を見て来ました。収容所(ラーゲリ)という言葉は、第二次世界大戦後、武装解除され投降した日本軍捕虜や民間人らが、ソビエト連邦(ソ連)によってシベリアに連行されて抑留され、奴隷的強制労働されたことを表象する言葉として用いられています。実在の日本人捕虜・山本幡男をジャニーズ事務所の嵐のメンバーだった二宮和也が演じていました。日本人の生きることへの魂と希望を主題とした作品で、私は映画の初めから終わりまで涙が止まらない感動をいただきました。ビリー・グラハムが「世界は燃えている」の冒頭で紹介しているニューメキシコにおける広島に投下された「リトルボーイ」の実験が成功した、わずか三週間後の満州の緊張した状況から映画が始まります。残念ながらビリー・グラハムのクルセードについては触れられていません。

この映画のシベリア抑留者の収容所内での日本人の合言葉はロシア語の「ダモイ」でした。「帰国」という意味で希望を秘めた言葉です。実は私の父もシベリアに3年間抑留されていました。母と生まれたばかりの私の姉が待つ日本に、何としても帰ることだけを希望として、極寒のシベリアの収容所で飢えとダニとの戦いをして「ダモイ」を待っていたと、私の前で静かな口調で話していました。私はシベリア抑留から父が帰国後に命が与えられた戦後生まれの団塊の世代の一員です。父は富山県出身で浄土真宗の檀家でした。戦争に招聘され、敗戦とシベリア抑留を経験しましたが決して多くのことを語ろうとはしません。戦後の復興と新しい国づくりに昼夜奔走した生涯を送りました。戦後50年、私が神に招かれて45歳で受洗するときも黙って洗礼式に立ち合ってくれました。それから20年後の2014年、父は97歳で受洗しました。そして100歳で皆に愛され見守られながら天国に凱旋していきました。まさに父は、幼少時から仏さまに仕え若き日に戦場に招かれ、この世の使命を遂行した後にイエスと出会って真(まこと)のダモイを果たした人でした。



(第二部)

本日与えられました聖書箇所は、旧約聖書エレミヤ書17章5~13節です。原則として聖書協会共同訳の言葉を用いて説教させていただきます。

エレミヤ書から、エレミヤの生涯をかなり詳しくたどることが出来ます。ヨシヤ王(在位BC639-609年)の13年、エレミヤの召命がありました。エレミヤの預言には、イスラエルの神に背くユダ王国の滅亡とバビロン捕囚に関連した記事が多くみられ、イスラエルの信仰と政治問題が色濃くあらわされています。聖書に登場する預言者は、一般に自分については語りませんがエレミヤ書は例外です。預言者として幾多の苦難を経験しているなかでの自己の悲痛な苦しみを告白しているものとして、エレミヤ書の11、15、17、20章があげられますが、今日私たちに与えられた17章はそのうちの一つです。

 17章1節から4節には、神に特別に選ばれた契約の民ユダの人々が、彼らの神、主に対して罪を犯し続けたことと、神は彼らの罪に対しバビロン捕囚に至らせることで応答したことが簡潔にまとめられています。

 1節の「ユダの罪は/鉄の筆、ダイヤモンドの先で書き記され/その心の板に/祭壇の角に刻まれている。」という記述は、ユダの罪は根深く、歴史を重ね、民の心と意識に刻みこまれているという悲痛な表現をしています。そして5節には、「主はこう言われる。/呪われよ、人間を頼みとし/肉なる者を自分の腕として/その心が主から離れる人は。」と記され、6節で「彼は荒れ地のねずの木のようになり/幸いが来ても見ず/荒れ野の乾いた地/人の住まない塩の地に住む。」と宣告されるのです。主ではなく人に拠り頼んだイスラエルの運命の原因は、1節から4節で説明されているような主なる神への人間の裏切りに由来していることを示しているのです。ねずの木とは、グリム童話のビクシャンの木のことです。

 これとは対照的に、7節では、「祝福されよ、主に信頼する人は。/主がその人のよりどころとなられる。」と記し、8節で詩編1編の変奏といわれている言葉が続いているのです。多くの学者が、エレミヤは数々の苦い経験から人生はこのような絵空事のようには運ばれないことを学んでいたから、この箇所はエレミヤの記述によるものではないと論じています。

エレミヤ書では「旱魃の年も恐れず/絶えず実を結ぶ」(8節b)と言っています。イスラエル南部(エルサレムから150km)のネゲヴ砂漠に位置するところに、世界遺産「ネゲヴ砂漠の香の道と都市群」があります。死海沿いの道を南に行くと、そこの岩は塩で出来ています。ネゲヴの発掘の途中でワインプレスや発酵場が発見されました。ナバテア人が周辺でブドウを育て、この地でワインを作っていたことが判明したのです。年に数回しか雨の降らないネゲヴ砂漠でもブドウが豊富に実り、キャラバン隊の喉を潤したという事実は、ネゲヴ砂漠に広がる世界遺産の地で農業が可能であったことを証明し、研究者たちを驚かせました。環境がこのような酷い状況であっても、もし主に拠り頼めば、その人は救われる約束の確かさを見た気がします。

 私は、エレミヤ17章では「人間を頼みとする人」(5節)と、「主に信頼する人」(7節)が比較対象法によって語られているのであり、詩編第1編で「悪しき者」と「正しき者」が対照されているからといって、あえてエレミヤの記述を否定する必要はないと思います。

確かに、主イエスは、「人にはできないことも、神にはできる」(ルカ18:27)と言われているのです。


(三部)

 続いて9,10節では、人間の心(lêḇ)の頑なさにふれています。

人間の心(lêḇ)は、不思議なほど謎めいたものであり非常に曲がりくねったものであることをわたしたちは自らの経験で知っています。エレミヤは、「心(lêḇ)」は何にも増して偽り、治ることもない。誰がこれを知りえようか。」(9節)と記しています。そして、エレミヤは、心は治らないと言っています。心理学者は人間の心の思いや行動を治そうとします。精神医学者は、物理的な療法、薬物によって治そうとします。けれども、心はそのように生易しいものではないのです。いや、外側からの人為的な操作によってでは、人の心は治しようがないのです。だからこそエレミヤは、「主である私が心(lêḇ)を探り、思い(yō·wṯ)を調べる。」(10節)というのです。10節で「思い」と訳されているヘブライ語のyō·wṯは、はらわた/腎臓です。ヘブルの心理学では腎臓が感情の座と考えられているのです。B.デヴィドソンによれば、人間の内的生命の全領域を示すために、ヘブライ語では、lêḇ(心)とyō·w ṯ(思い/腎臓)が一緒に用いられていたようだと解釈しています。

10節後半で、主が「おのおのが歩んだ道、その業が結んだ実に応じて報いる」と語っていますが、そのことも合わせて黙示2:23bでは「こうして、すべての教会は、私が人の『思いや心』を見通す者であることを悟るようになる。私は、あなたがたの行いに応じて一人一人に報いよう。」と記されているのです。

私たちは自分の邪悪さを知ることによって初めて、本当に神の憐れみにすがり、キリストの十字架のもとに走り寄っていくことができるのです。ダビデはこのように祈っています。ダビデの祈りに心を合わせたいと思います。「神よ、私を調べ、私の心を知ってください。私を試し、悩みを知ってください。/御覧ください/私の内に偶像崇拝の道があるかどうかを。/とこしえの道に私を導いてください。」(詩編139:23,24)

 11節には一つの諺が続いています。しゃことは、雉のような目をしているやまうずらのことです。しゃこは、肉がおいしいので、古代から食用にするため狩猟の対象にされました。飛ぶことはめったになく走って逃げます。岩や他の障害物の後ろに体をかわしたり、岩の割れ目などに隠れます。サウル王の容赦ない追跡をうまく逃れようとして隠れ家を次々に変えたダビデは、自分自身をしゃこに例えています(サムエル上 26: 20)。

しゃこは、2羽の雌が地上にある同じ巣の中で卵を産むことがあって、どちらかが優勢になって他方を追い払います。しかし小さな体ではそんなに多くの卵を温められないので、やがて胚は死んでしまいます。このイスラエルの民が知っていたしゃこの生態に続けて、ここでは、密議や欺きという不正によって富を得る一般的な人間の認識を示して現実的な考察を展開しています。そして、このようにして正しくない方法で得られた富は永続せず愚か者(nā·ḇāl)となるという、教理的な確信が挿入されているのです。

 12,13節では、イスラエルの唯一の希望としての主が示されます。そして一方では、主を捨てる者への厳かな警告が述べられます。コロサイ3章1-3節には、「あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地上のものに思いを寄せてはなりません。あなたがたはすでに死んで、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているからです。」と記されています。ロシアはウクライナ侵攻にあたって、特別軍事作戦の目的の一つに、「ロシア系住民を迫害するナチスからの解放」を掲げ、戦争ではないと主張しロシア正教を巻き込んだ終末論的な動きをしています。わたしたちが、ますます天に思いを馳せなければいけない時代になっています。この地に生きていながら、なおかつ自分が天に属していることを思わなければならないのです。

最後に13節の後半で、「命の水の泉である主を捨てた」と記されていることにふれておきたいと思います。エレミヤはすでに、2章13節でこのように言っています。

「わが民は二つの悪をなした。/命の水の泉である私を捨て/自分たちのために水溜めを掘ったのだ。/水を溜めることもできない/すぐに壊れる水溜めを。」(エレミヤ2:13)

人間は誰でも水を求めます。もちろん物理的な水も認めますが、命の水の泉、霊的な水の源を求めています。ある人は知的なことに、ある人は肉的なこと、そしてある人は社会的なことに、また宗教的なものに源を求めている人さえいます。けれども、それらはすべて「すぐに壊れる水溜め」であり枯渇していくものです。主イエスがサマリヤの女に、「しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」(ヨハネ4:14)と言われました。主イエスだけがわたしたちの「命の水の泉」(13節b)なのです。主との交わりのみが、私たちを完全に満たすことができるのです。

 

(祈り)

栄光の御座、いにしえよりの天におられる神。我らの聖所であり、我らの希望である主なる神よ。わたしたちは御前に告白いたします。イスラエルがあなたに対して罪を犯し、自分の欲望を神として、あなたに背きました。そして、その罪のゆえにイスラエルが滅びたことをわたしたちは信じまた告白します。あなたを信じる信仰者でありながら、あなたに背きあなたの真理を捨てる者は、皆、その罪によって辱めを受けます。それは当然の事です。あなたから離れ去る者は、みな死者の住む地の中に名前が記されます。それはわたしたちの命の泉、生ける水の源である、主なる神に背いたからです。それゆえ、わたしたちは主なるあなたの御前に、自分たちの罪を告白します。それよって、主なる神の御許からわたしたちが決して離れることのないように導いてください。




【参考資料】

◎預言者年表(時間がゆるされれば)

旧約聖書の預言の記録は、民族や政治に関する幅広い物語の中で見出されます。預言者として聖書に最初に登場するのは、北イスラエルの預言者であるエリヤやエリシャですが、彼らが実際に語ったことについては旧約聖書にはほとんど記されていません。旧約聖書に残されている南ユダの預言者を年表にして並べてみますと紀元前9世紀末のヨエルは別にして、アッシリアとバビロニアに支配されていた二つの時代に多くの預言者がいたことが分かります。第一のグループは、紀元前8世紀前半から半ばにかけて預言した北イスラエルのアモス、ホセア、そして南ユダのイザヤ、ミカと続く「アッシリア支配」の時代の預言者であり、紀元前7世紀前半の南ユダの預言者ナホムを挟んで、第二のグループとして、紀元前7世紀末から6世紀前半にかけての「バビロニア支配」の時代の預言者が多くいます。彼らは南ユダが崩壊し、民がバビロン捕囚されるというイスラエル古代史上もっとも悲惨な時代の預言者たちでエレミヤ、ハバクク、ゼファニヤ、オバテヤ、ダニエル、エゼキエルの順に整理することが出来ます。そしてその後に、紀元前5世紀の預言者ハガイゼカリア、マラキがいたのです。



【エレミヤ17章5~13節】

◎翻訳とヘブル語

上段:新共同訳

下段:聖書協会共同訳

☞:〇数字はヘブライ語の語順


5:主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし/その心が主を離れ去っている人は。

主はこう言われる。/呪われよ、人間を頼みとし/肉なる者を自分の腕として/その心が主から離れる人は。


6:彼は荒れ地の①裸の木。②恵みの雨を見ることなく/④人の住めない③不毛の地/⑤炎暑の荒れ野を住まいとする。

彼は荒れ地の①ねずの木のようになり/②幸いが来ても見ず/③荒れ野の乾いた地/④人の住まない⑤塩の地に住む。

☞①kə·‘ar·‘ār②ṭō·wḇ③ḥă·rê·rîm④bam·miḏ·bār⑤mə·lê·ḥāh


7:祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。

祝福されよ、主に信頼する人は。/主がその人のよりどころとなられる。


8:彼は①水のほとりに植えられた木。②水路のほとりに根を張り/暑さが襲うのを③見ることなく/その葉は④青々としている。干ばつの年にも⑤憂いがなく/実を⑥結ぶことをやめない。

彼は①水のほとりに植えられた木のようになり/②川の流れにその根を張り/暑さが来ても③恐れず/その葉は④茂っている。/旱魃の年も⑤恐れず/絶えず実を⑥結ぶ。

☞①ma·yim②yū·ḇal③yir·’eh④ra·‘ă·nān⑤yiḏ·’āḡ⑥mê·‘ă·śōṯ


9:人の①心は何にもまして、②とらえ難く③病んでいる。誰がそれを知りえようか。

①心は何にも増して②偽り、③治ることもない。/誰がこれを知りえようか。

☞①hal·lêḇ②‘ā·qōḇ③wə·’ā·nuš


10:①心を探り、その②はらわたを究めるのは/主なるわたしである。それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる。

主である私が①心を探り/②思いを調べる。/おのおのが歩んだ道/その業が結んだ実に応じて報いるためである。

☞①lêḇ②kə·lā·yō·wṯ


11:しゃこが自分の①産まなかった卵を②集めるように/不③正に富をなす者がいる。人生の半ばで、富は④彼を見捨て/ついには、⑤神を失った者となる。

しゃこが自分の①産まなかった卵を②抱くように/不③正に富をなす者がいる。/しかしその生涯の半ばで、彼は富を④失い/ついには、⑤愚か者となる。

☞①yā·laḏ②ḏā·ḡar③ḇə·miš·pāṭ④ya·‘az·ḇen·nū⑤nā·ḇāl


12:栄光の②御座、いにしえよりの③天/我らの①聖所、

我々の①聖所の②場所は/初めから③高い所、栄光の座である。

☞①miq·dā·šê·nū②mə·qō·wm③mā·rō·wm


13:イスラエルの希望である主よ。あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。あなたを離れ去る者は/①地下に行く者として記される。②生ける③水の④である主を捨てたからだ。

イスラエルの望みである主よ/あなたを捨てる者は皆、恥じ入り/あなたから離れる者は

①地の中のにその名が記される。/②命の③水の④である主を捨てたからだ。

☞①bā·’ā·reṣ②ḥay·yîm③ma·yim④mə·qō·wr

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