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執筆者の写真金森一雄

百倍の実(マルコ4:13-20) 20240929

本稿は、日本基督教団杵築教会における2024年9月29日の聖霊降臨節第20主日礼拝での説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄 

 

(聖書)

イザヤ書 55章8~11節(旧1153頁)

マルコによる福音書  4章13~20節(新67頁)

 

1.いろいろな土地

本日のマルコによる福音書4章14節には、「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」と書かれています。

こうして「種を蒔く人のたとえ」の説明が始まっています。


新共同訳聖書の67頁上段の、3節以下をご覧ください。

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。」と書かれていました。

この種を蒔く人とは、神の言葉を蒔く人のことだというのです。


4章15節には、「道端」についての説明がなされています。

「道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て蒔かれた御言葉を奪い去る。」と書かれています。

道端とは、「道端のもの」のことを指し、神の言葉を蒔く人、すなわちイエスとその弟子たちが蒔いた福音の言葉である種をサタン(悪魔)が来て蒔かれた御言葉を奪い去るというのです。

「道端のもの」とは、人生において、人に踏まれて情を失い、愛も真理も受け入れられなくなって固い地、硬い心、かたくなな心の状態に陥っている人たちのことです。

たとえ話、上段の4節には、ある一粒の種は、「道端に落ち、鳥が来て食べてしまった」と書かれていますから、その鳥とは、サタンのことであると、主イエスは下の段の15節で説明されたのです。そのように道端に落ちた種は、まったく芽を出さなかったのです。


次いで、16節で、「石だらけの所に蒔かれるもの」として、「御言葉を聴くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。」と説明されています。

石だらけの所というと、土を掘るとごろごろと石が出てくるといったイメージを抱かれるでしょうが、ユダヤの地ではそうではありません。スコップを入れると岩盤にコツンとあたってどうにもならない、大きな石の岩盤が広がっている大地なのです。

分かり易く言えば、大きな石の拡がりの上に薄く土が乗っている土地のことです。

上段のたとえの5節では、「そこは土が浅いのですぐ芽を出した」、そして6節で「しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。」と主イエスは仰っていました。

土が浅いというのは、浅い心、人間の浅はかさ、あるいは石頭、人間の心のかたくなさを示す比喩です。そういう人は、真理を受け取ると、周囲の人を見習って、歌い、踊り、喜び、ハレルヤ、アーメンと叫びます。しかし、少しの艱難、少しのつまずきに出会うと、すぐに信仰を捨てて元の木阿弥となるのです。

真理を深く究めずに信じて、福音の快楽的側面のみを味わおうとして、信仰に伴う忍耐と苦痛と犠牲が伴うことを計算しなかった人のことです。


洗礼を授かって4、5年で「キリスト教を卒業した」と言う人がおられますが、実は、日本人には、このタイプの人が多いのです。まさに、芽を出してすぐに枯れてしまうのです。


続いて18節には、「茨の中に蒔かれるもの」のことが書かれています。「この人たちは、御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉をふさいで実らない。」と説明されています。

上段のたとえの7節には、「すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。」と主イエスは言っておられました。

茨の中に蒔かれた御言葉、真理の種は、蒔かれて芽を出して成長しました。しかし、周囲の茨を捨て去らず、博愛主義者のように、真理の善い種と悪い種、善悪二つの種を受け入れた人について、それでは実がならないと主イエスは警鐘を発しておられるのです。

日本の社会において、このような例は少なくありません。

私もかつてそうでした。


そして、20節には、「良い土地に蒔かれたもの」のことが書かれています。「御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は30倍、ある者は60倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」と説明されています。

上段のたとえの8節では、動詞の未完了形を用いて強調しています。すなわち、ほかの(複数の)種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び今も実っている、と主イエスは仰っているのです。


当時のユダヤ人の種蒔きは、直播で効率の悪いものでした。また、種蒔きをした後に、農夫たちは、大きな石をどけたり、地を耕して良い地にしようとしていたようです。

この「種を蒔く人」のたとえに出てくる、道端、石だらけの所、茨の中、良い土地といった、いろいろな土地は、いずれも私たち自身のことです。

なかなか実を結ぶことができなかったけれど、「種を蒔く人」すなわち三位一体の神は、今日も種を蒔き続けてくださっています。そして私たちはその神の御言葉を聞く時を経て、良い土地、開墾された土地に変えられていく、そして今では百倍の実を結び、今も実っていると主は仰っているのです。


3.艱難や迫害


今日の聖書箇所で特に興味深いのが、17節の「御言葉のために艱難や迫害が起こると」という言葉です。これは「石だらけの所」に蒔かれた人の話の中のことですが、聖書は「御言葉のために…」よい人生を送ることができます。とは言いません。


ここでは固い石のような頭を持つ人の人生を語っているのです。人生においては、誰でも苦難と喜びを味わうものですが、「御言葉のために…」かえって「艱難や迫害が起こる」というのです。

信仰者になっていなかったら、味わわずに済んだ「艱難や迫害」なのかもしれません。


しかし、信仰者は信仰を持った者としてのこのたとえ話の聴き方があります。

今日の聖書箇所の言葉で言うと、「良い土地」に種を蒔く人である主は、いろいろな事情があってこれまで実を実らせることができなかった私たちをよくご存じで、よい実を実らせることができる土地にしてくださった、と信じるのが信仰なのです。

そして、艱難や迫害に出会った時には、信仰を持った者として、主が与えてくださる後の実りに対する希望を失わずに、ただひたすら忍耐する必要があるのです。


教会の中にあっても、私たちのそれぞれの人生において、必ず苦難やトラブルに出会います。それでも教会の中では、その後に「それでもこのように生かされてきました」、「それでも、あの頃は楽しかった」と、晴れやかな顔をして語る方々の証しを聞くことができます。

私たちは、そのように自分を「よき土地」ととらえなおすことによって、信仰によって自分を受け取りなおすことができるのです。


4.百倍の実り


このたとえ話で強調されているのは、百倍の実りという言葉です。

ルカによる福音書8章4節にも「種を蒔く人」のたとえが書かれています。「良い土地」に落ちた一粒の種は、「生え出て、百倍の実を結んだ」(ルカ8:8)と書かれています。

ルカは、30倍と60倍の実とは記していません。ルカは、ただ百倍の実を結んだと書いています。聖書注解書に拠れば、当時の農業の収穫効率は、せいぜい数十倍がいいところで、百倍というのは神の介在無くしては考えられない数字だと書かれています。


百倍という言葉が用いられている聖書箇所がいくつかあります。


創世記26章12節(旧40頁)に、「イサクがその土地に穀物の種を蒔くと、その年のうちに百倍もの収穫があった。」と、イサクが主の祝福を受けて豊かになったことが書かれています。


またサムエル記下24章3節(旧523頁)に、ダビデ王が、人口調査をせよという命令を下した時に、ダビデの直属の軍の司令官ヨアブという人物が、「あなたの神、主がこの民を百倍にも増やしてくださいますように。主君、王御自身がそれを直接目にされますように。主君、王はなぜ、このようなことを望まれるのですか。」とダビデに忠言しています。


そして、10節には、「民を数えたことはダビデの心に呵責(かしゃく)となった」と書かれています。

軍の司令官ヨアブがここで、「主がこの民を百倍にも増やしてくださる」といったのは、当時のユダヤ人の信仰が背景にあるのです。サムエル記上14章6節の「主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ではない」という言葉を固く信じていたからです。


こうしてみると、百倍という表現は、神さまの祝福の結果であり、神さまに祝福を願う際に用いられる表現であることが分かります。

ですから私たちも、百倍の実を結ぶ「よき土地」にしていただいていることに感謝して、自分の恵の実を数えることができるのです。


そして、先ほどお読みいただいたイザヤ書55章8-11節の御言葉(旧1153頁)に聖霊の働きが加わってくださることを祈りながら、もう一度深く接していただこうと思います。


最後に、

「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。

 それはわたしの望むことを成し遂げわたしが与えた使命を必ず果たす。」


という恵の言葉に与る者として、主は私たちをも用いてくださることに感謝の祈りを捧げたいと思います。



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