本稿は、日本基督教団杵築教会における2024年11月24日降誕前第5主日(収穫感謝日・謝恩日)の礼拝説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄
(聖書)
詩編22編23~32節(旧853頁)
マルコによる福音書6章1~6a節(新71頁)
1.花彩る春を
讃美歌21の385番「花彩る春を」は、讃美歌21の新しい讃美歌公募の機会に応募された作品を、いくらか手直しして生み出されたものです。作詩は、北海道の教会に属する上島美枝さんで、ご本人が「この世の生涯を終えた人の姿に、主を信じて生きる新しい力を与えられる」と、この詩で描きたかった様子について説明しています。
讃美歌21の編集にも携わった国立音楽大学の高浪晋一さんが、明るいさわやかな曲をつけて、讃美歌21に加えられました。歌詞は、四節で構成され、それぞれ春・夏・秋・冬にあたります。私たちは美しい花や景色を見て、ときどき立ち止まってその美しさを味わい、心に刻んで持ち帰るような人生を過ごせば、心は宝で満たされます。
この詩では、召天した人を「友」と呼びつつ、どの季節にも輝いていたその方の人生を描いていますが、4番の最後で「この友を包んだ主の光」と賛美することにより、それらすべてを包み支えていたのが、実は神であったと示されるのです。そして私たちは、先に召された方に寄り添いながら、そこに神の栄光を見つめるのです。
杵築教会では、11月4日に主のもとに招かれた、故堀澄子姉の葬儀の時からこの讃美歌を歌い始めています。そして今日から年内の最後の礼拝までこの「花彩る春を」賛美して、神の栄光を賛美したいと思います。
2.渋柿を甘くすること
今日は収穫感謝日ですが、この秋には、教会の入り口の渋柿が、鳥に食べられることなく、たわわに実をつけました。有志の方が渋柿を甘くして食べられるようにすることに挑戦してくださいました。柿の種類は、1000種類もあるようですが、甘柿はたったの17種類しかありません。残りの983種類はなんと渋柿です。
柿の渋みは、可溶性(口の中で溶けて動き回る)のタンニンによるものだそうです。甘柿は、成長とともに、同じタンニンが口の中で動き回らない不溶性に変化するので、そのままでも食べられるのです。渋柿は、タンニンが可溶性なので食べると口の中に溶けて広がって、渋くて食べられないのです。渋柿の渋みを抜くためには、可溶性のタンニンを不溶性に変化させることが必要です。そのために、柿の果肉を腐らせないようにしながら干し柿にしたり、へたの部分にアルコールつけるなどして、タンニンを不溶性に変化させるのです。
渋柿は、そのままでは渋くて吐き出してしまいます。それ故に鳥に食べられずに多くの実を結ばせます。そして、渋柿のタンニンを口の中で動き回らないように、不溶性なものに変化させれば、甘くて食べられる柿になるのです。やはり、神がおつくりになったものはすべて「極めて良かった」(創1:31)と聖書に書かれているとおりなのです。ですから、1000種類の柿すべて、甘柿も渋柿も良かったということなのです。
神の愛によって人間には自由意志が与えられています。そして人間には原罪がありますが、神に神に似て創造された人間も、良かったのです。
人間の身体の中に、どのような成分なのかは分かりませんが、渋柿のタンニンのように動き回ると渋さを出して吐き出してしまわなければならない原罪があります。ところが、私たち人間が主に向かう信仰を持てば、身体の中で原罪が溶けて動き回るようなことが無くなり、主を賛美する良いものへと変えられていくのです。
神は、人間だけに信仰というものを与えています。神の愛が、私たちを主を賛美するものに変えてくださる道を用意してくださっているのです。
本日私たちに与えられた旧約聖書は詩編22編23~32節です。
ここには、渋柿のような吐き出しそうな人間でも、渋柿を甘くするかのように、主に喜ばれる良いものに変えられる様子が書かれています。
23、24節には、「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美します。主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。」と書かれていて、御名を語り伝えること、主を賛美すること、主を畏れることの必要性を指し示しています。
そして、31、32節では、「子孫は神に仕え/主のことを来たるべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵の御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。」と、主を賛美しているのです。
3.つまずいた人々
今日のマルコによる福音書6章の初めに、主イエスが「故郷」にお帰りになったと書かれています。今日の物語の舞台となる主イエスの故郷ナザレは、小さな田舎町で、町中、誰もがお互いによく知っていました。
2-3節に、「安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。』このように、人々はイエスにつまずいた。」と書かれています。
3節の終わりに「人々はイエスにつまずいた」と書かれています。
「つまずく」という言葉は、獲物を捕らえるための罠に関わるものでした。
獲物にとっては、罠は命にかかわるような重大事です。獲物が「つまずく」というのは、罠に囚われるということです。そしてここでは、「つまずき」とは、イコール不信仰だったというのです。この命に係わる「つまずき」が、ナザレの人たちがつまずいたようには私たちには起こらない、とは決して言い切れません。
ナザレは小さな町ですから、町の人々は、イエスの両親、母マリアと養父ヨセフの関係についても知っていたでしょう。主イエスは、ヨセフに習って普通の大工として仕事をしていました。「あの大工」、よく知っているよ、「あの大工さんではないか」、というような関係でした。また、当時は、一夫多妻制でしたからイエスの腹違いの兄弟姉妹も皆一緒に住んでいたと思われます。
ところが突然、イエスがその大工をやめて、家族から離れて人々に伝道するようになりました。イエスが、優れた教えを語り、力ある奇跡の業を行うようになったので、ナザレの町の人たちは、とても驚いたというのです。
イエスの身近な個人情報をあまりにも多く知っていたので、結果として、つまずいてしまったということになります。主イエスがナザレの町の普通の人間として成長された小さな田舎町だったからこそ、人々はイエスにつまずいたのです。主イエスが神の子でありながら本当に人となって人々の間に住まわれたからこそ出てきている問題なのです。
イエスは、一体どこから来たのか、その力は一体何によるのか、イエスの由来が分からなくなり、素直に主イエスの言葉や力を信じることができなくなってしまったのです。
だからこそ4節で、「主イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。」と書かれているのです。
そして5節には、「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」と書かれています。
本当に主イエスが奇跡を行うことができなかったとは考えにくいことです。実際に「ごくわずかの病人」に対してはいやしを行っています。なぜ、「そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」とわざわざ書かれているのでしょうか。
その理由として、6節に「そして、人々の不信仰に驚かれた。」と書かれているのです。人々が不信仰だったからです。
主イエスが驚かれるくらいの不信仰が、その理由であるというのです。
実は、このことそのものが神のご計画、摂理の中にあることなのです。
5.信仰とは何か
私たちの信仰と不信仰は、コインの表と裏のように、いつでも紙一重なところがあります。あなたに信仰はあるか、そう問われたら、何と答えられますか。
「自分は不信仰ではありません」と自信をもって答えることはなかなかできません。
今、信仰があったとしても、いつ御言葉を聴かなくなってしまうか、いつその不信仰になってしまうか、それが分からないというのが私たち人間の姿です。
それでは信仰とは何でしょうか。
主の愛が私たちの心の中に入ってくると、私たちの罪が働かなくなります。
これが、私たちの信仰の方程式です。愛が罪が動き回らなくさせるのです。
ナザレの人たちは、主イエスの個人情報を知りすぎていたので、イエスの由来が分からなくなってしまいました。主イエスの教え、その力が、神に由来するということが見えなくなっていたのです。主イエスは、無条件の愛を先行してくださる方です。神でありながら、徹底して人になってくださり、人として死んでくださいました。しかも人々の罪を身代わりに背負って十字架で死んでくださったのです。それなのに、主イエスの愛が、あまりにも身近過ぎた存在だったが故に、人間的な事柄に目をふさがれて分からなくなってしまったのです。
その意味で、クリスマスの出来事はとても大切なものです。
恵み深いクリスマスを過ごすために、その他の余計なことは一切語るのを避けたいと思います。あなたは次のことを信じるか、ということが問われるのです。
罪深き世に、神の独り子が人間の幼子として与えられました。
罪の中からあなたを救うために、御子、主イエス・キリストがお生まれになったのです。
聖書が言っているのは、ただそのことだけなのです。
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