渋柿を甘くする(マルコ6:1-6a) 20241124
更新日:2024年12月7日
本稿は、日本基督教団杵築教会における2024年11月24日降誕前第5主日(収穫感謝日・謝恩日)の礼拝説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄
(聖書)
詩編22編23~32節(旧853頁)
マルコによる福音書6章1~6a節(新71頁)
1.花彩る春を
先ほど賛美した讃美歌21の385番「花彩る春を」は、讃美歌21の 新しい讃美歌公募の際に応募された作品にいくらかの手直しをして 生み出されたものです。作詩者は、北海道の教会に属する上島美枝さ んで、ご本人は「この世の生涯を終えた人の姿に、主を信じて生き る新しい力を与えられる」ようにと、この詩で描きたかった気持ちを 説明しています。
讃美歌21の編集に携わった国立音楽大学の高浪晋一さんが、明る いさわやかな曲をつけて、讃美歌21に加えられました。
歌詞は、 四節で構成され、それぞれ春・夏・秋・冬にあたります。私たちは この詩のような美しい花や景色を見て、ときどき立ち止まってその美しさを味わい、 心に刻んで持ち帰るような人生を過ごせば、心は宝で満たされるでしょう。
この詩では、召天した人を「友」と呼びつつ、どの季節にも輝いて いたその方の人生を描いています。そして4番の最後で「この友を包ん だ主の光」と賛美することにより、それらすべてを包み支えていた のが、実は神であったと示されるのです。そして私たちは、先に召 された方に寄り添いながら、そこに神の栄光を見つめるのです。
杵築教会では、11月4日に主のもとに招かれた、故堀澄子姉の葬 儀の時からこの讃美歌を歌い始めています。そして今日から年内の 最後の礼拝までこの「花彩る春を」を賛美して、神の栄光を賛美した いと思います。
2.渋柿を甘くすること
今日は収穫感謝日ですが、この秋には、教会の入り口の渋柿が、鳥 に食べられることなく、たわわに実をつけました。有志の方が渋柿 を甘くして食べられるようにすることに挑戦してくださいました。
柿の種類は、1000種類もあるようですが、甘柿はたったの17種類 しかないそうです。残りの983種類はなんと渋柿です。
柿の渋みは、可溶性(口の中で溶けて動き回る)のタンニンによる ものだそうです。
甘柿は、成長とともに、同じタンニンが口の中で 動き回らない不溶性に変化するので、そのまま食べられるようになりま す。
渋柿は、タンニンの可溶性が変わらないので食べると口の中にタンニンが溶けて広が るので、渋くて吐き出してしまいます。それ 故に鳥に食べられずに多くの実を結ばせます。
柿の渋みを抜くためには、可溶性のタンニンを口の中で動き回らないように、溶けない、不溶性に変化させ れば、甘くて食べられる柿になるのです。
そのため、柿 の果肉を腐らせないようにしながら干し柿にしたり、へたの部分に アルコールをつけて、柿の実のタンニンを不溶性に変化させるのです。
それだけで、柿の渋みがなくなります。
神がおつくりになったものはすべて「極めて良かった」 (創1:31)と聖書に書かれているとおり、1000 種類の柿すべて、甘柿も渋柿も極めて良かったということなのです。
私たち人間の身体の中には、渋柿のタンニンのような動き回ると渋 さを出して吐き出してしまうような原罪というも のがあります。それでも人間には、神の愛によって自由意思が 与えられていて、私たち人間が自由を働かせて主に向かう信仰を持てば、身体の 中の原罪が柿のタンニンのように溶けて動き回るようなことが無く なって、主を賛美する良いものへと変えられていくのです。
神は、人 間だけに信仰というものを与えています。 神の愛が、私たち一人ひとりに、主を賛美するものに変えてくださる道を用意し てくださっているのです。
本日私たちに与えられた旧約聖書は詩編22編23~32節です。 ここには、渋柿のような吐き出しそうな人間でも、渋柿を甘くする かのように、主に喜ばれる良いものに変えられる様子が書かれてい ます。
23、24 節には、「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中で あなたを賛美します。主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの 子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れ よ。」と書かれています。
このように、御名を語り伝えること、主を賛美すること、 主を畏れることの必要性を指し示しています。
そして、31、32節では、「子孫は神に仕え/主のことを来たるべき 代に語り伝え/成し遂げてくださった恵の御業を/民の末に告げ知ら せるでしょう。」と、主を高らかに賛美しているのです。
3.つまずいた人々
今日のマルコによる福音書6章の初めに、主イエスが「故郷」にお 帰りになったと書かれています。今日の物語の舞台となる主イエス の故郷ナザレは、小さな田舎町で、町中、誰もがお互いによく知っていました。
2-3 節に、次のように書かれています。
「安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。 多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。『この人は、このよう なことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手 で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではな いか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではな いか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。』 このように、人々はイエスにつまずいた。」と言うのです。
3 節の終わりの「人々はイエスにつまずいた」という、「つまずく」 という言葉は、獲物を捕らえるための罠に関わるものでした。獲物 が「つまずく」というのは、罠に囚われるということです。獲物に とって、罠は命にかかわるような重大事です。
ナザレは小さな町ですから、町の人々は、人間イエスの誕生から今 日までの苦難を耳にしていたでしょう。イエスの両親、母マリアと 養父ヨセフの関係についても知っていました。
イエスは、養父ヨセフに習って普通の大工として仕事をしていました。 「あの大工」、よく知っているよ、「あの大工さんではないか」、 というような関係でした。
また当時は、一夫多妻制でしたからイエ スの腹違いの兄弟姉妹も皆一緒に住んでいたと書かれています。
ところが突然、イエスがその大工をやめて、家族から離れて人々に 伝道するようになりました。イエスが、優れた教えを語り、力ある 奇跡の業を行うようになったので、ナザレの町の人たちは、とても 驚いたというのです。
イエスの身近な個人情報をあまりにも多く知っていたので、結果と して、つまずいてしまったということになります。
主イエスがナザ レの町の普通の人間として成長された小さな田舎町だったからこそ、 人々はイエスにつまずいたのです。主イエスが神の子でありながら、 本当に人となって人々の間に住まわれたからこそ出てきている問題 です。
イエスは、一体どこから来たのか、その力は一体何によるのか、 人々はイエスの由来が分からなくなり、素直に主イエスの言葉や力 を信じることができなくなってしまったのです。
だからこそ4節で、「主イエスは、「預言者が敬われないのは、自 分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。」と書かれて いるのです。
そして5節には、「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていや されただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなか った」と書かれています。
そして6節で、「つまずき」とは、イコール不信仰だった からだと言うのです。
私たちの信仰と不信仰は、コインの表と裏のように、いつでも紙一 重なところがあります。あなたに信仰はあるか、そう問われたら、 何と答えますか。
なかなか「自分は不信仰ではありません」と自信をもって答えることはできません。 今、信仰があったとしても、いつ御言葉を聴かなくなってしまうか、 いつその不信仰になってしまうか、それが分からないというのが私 たち人間の姿です。
5.信仰とは何か
それでは信仰とは何でしょうか。 主の愛が私たちの心の中に入ってくると、私たちの罪が働かなくな ります。主の愛が私たちの罪を動き回らないようにしてくださるからのです。
これが、私たちの信仰の方程式です。 その主イエスの教え、その力は、神に由来するということが、見え なくなることが不信仰なのです。
主イエスは、無条件の愛を先行して示してくださった方です。 神でありながら、徹底して人になってくださり、人として死んでく ださいました。罪ある人間の身代わりとなって、罪を背負って十字架で死 んでくださったのです。
それなのに、主イエスの愛があまりにも身近過ぎる存在となると、 人間は謙遜さを失って人間的な事柄に目をふさがれて分からなくな ってしまうのです。 思い当たることがありませんか。
その意味で、クリスマスの出来事はとても大切です。 恵み深いクリスマスを過ごすために、その他の余計なことは一切語 るのを避けたいと思います。
あなたは次のことを信じるか、と問われるのです。
罪深き世に、神の独り子が人間の幼子として与えられました。
罪の中からあなたを、私自身を、いやすべての人を救うために、御子、主イエス・キリストがお生 まれになったのです。
聖書が言っているのは、ただそのことだけなのです。

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