本稿は、日本基督教団杵築教会における2024年8月4日の聖霊降臨節第12主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄
(聖書)
イザヤ書2章4節(旧1063頁)
マルコによる福音書3章11、12節(新65頁)
1.汚れた霊ども
本日与えられた聖書箇所は、ガリラヤ湖の岸辺におびただしい群衆が押し寄せたことから、主イエスが小舟を用意してほしいと言われた後の出来事です。
マルコによる福音書3章10節の、「病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、(主イエスの)そばに押し寄せた」という、ところまではよくお分かりいただけたと思います。
先週は、イスラエル全体から、おびただしいユダヤ人の群衆が主イエスのところに押し寄せたことについて聖書巻末の地図6を用いた説明を丁寧にしましたので、11節と12節にまで言及できませんでした。
そのため本日は、11節から説教を始めます。
11節では、汚れた霊ども、悪霊が唐突に登場しています。
汚れた霊に取りつかれた人の癒しは、既にマルコによる福音書の1章23節でも行われていました。そこでは、主イエスは悪霊を追い出す権能を持っているので汚れた霊を追い出して癒しています。
3章のここでは、主イエスが御言葉をガリラヤ湖の岸辺でおびただしい群衆に語っておられる中で起きている出来事ですから、群衆の中に汚れた霊どもに取りつかれていた人たちがいたということになります。しかし汚れた霊に取りつかれた男が、何かを語ったとは記されていません。いきなり悪霊どもが出てきてイエスの前にひれ伏して、しかも『あなたは神の子だ』と叫んだというのです。
汚れた霊に取り付かれると、自分の言葉ではなく悪霊の言葉を語り、そして自分の思いではなく悪霊の思いによって行動するようになります。ですから、汚れた霊どもが、ひれ伏したとか、叫んだというのは、表面的にはその汚れた霊どもに取り付かれた人がひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだのです。しかしその実は、それは悪霊の行動であり、悪霊の叫びなのです。
汚れた霊どもは、主イエスが、神の独り子であり、人々の救いのためにこの世に来られた方で、自分たち悪霊を取りついた人から追い出す権能を持っていることを知っています。
一方で、主イエスに触れようとして押し寄せて来たユダヤ人の群衆たちは誰一人として、そのことに気付いていない様子です。
汚れた霊どもがひれ伏して『あなたは神の子だ』と叫んだのは、主イエスを礼拝した言葉ではありません。信仰を告白したのでもありません。自分たちが、主イエスによってその取り付いた人から追い出されないように、つまり悪霊が自分を守るために『あなたは神の子だ』と叫んだのです。
すでに主イエスと悪霊との間に熾烈な戦いが始まっているのです。
主イエスは汚れた霊が取り付いている人から悪霊を追い出して、それによってその人を悪霊から解放しようとしてくださるのです。その人が自分自身の言葉を語り、自分の思いによって行動できるように癒そうとしてくださるのです。その人に救いを与えるために、主イエスが悪霊と戦って下さるのです。
2.悪霊を追い出す権能
マルコは「汚れた霊」という言葉を11回も用いています。マタイは「悪霊」という言葉で10回用いています。福音書では、それら二つの言葉が厳密な区分なしで用いられていますが、同じ霊を指しています。
悪霊はイエスの前では敗色濃厚であり、自分を守ることに必死です。そのように主イエスが悪霊を圧倒しているのは、主イエスの語っている言葉が、十字架の死に裏付けられた、主イエスの全存在をかけた命がけの権威あるものだからです。
そして主イエスは悪霊との戦いに勝利されます。先にお話しした3章9節で、主イエスが押し寄せるおびただしい群衆を見て、小舟を用意してもらいました。主イエスが小舟に乗ると、群衆に対して距離を取られたことになります。群衆からすると主イエスに触れることができなかくなったということになります。しかし、それによって人々は、小舟の上で語る主イエスの御言葉を聞くことができました。
私たちは、今日の聖書箇所に出てくる群衆のように、病を抱え、死にさらされ、罪のうちに悩む、そのような者です。しかし主イエスは単に病を癒されるだけの救い主ではないのです。むしろ主イエスは、人間の病や死や罪の現実の中に飛び込んでくださった方です。
今日の聖書箇所でもそうですが、この後も、主イエスは多くの人たちと出会い、時には押しつぶされそうになりながらも、十字架への道行きを進んでくださるのです。主イエスは、十字架の死に至るご生涯の全体によって、私たちを罪の支配から、悪霊の支配から、解放してくださる方なのです。
使徒信条では、主イエスのことを「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり」と告白しています。主イエスは病や死や罪に押しつぶされたのではなく、死からよみがえられた方です。
その主イエスのよみがえりを信じているのが、もはや岸辺の群衆ではなくなり、教会に集うようになった私たち一人ひとりなのです。
主イエスが私たちの救い主でいてくださるので、死や病や罪の力にさらされている私たちに、それらをはね返す忍耐力と希望が与えられるのです。主イエスが私たちの救い主であるということは、そのようなことを意味しているのです。
よみがえられた主イエスと共に、私たちは歩んでいくことができるのです。
11節には、主イエスが汚れた霊どもを追い出された、とは書かれていません。
その代わりに、12節で、「自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた」と書かれています。
このことの意味については、次週の聖書箇所になるのですが、13節以下で、主イエスが12人の弟子を任命して使徒と名付けたところで語られています。
12人の使徒たちは、神の国の福音を宣べ伝えるために造られ、主イエスに任命されました。それは彼らを主イエスのそばに置くためであり、彼らを派遣して宣教させ(14節)、使徒たちに悪霊を追い出す権能を持たせるためであった(15節)と記されています。
そのような経過を考えますと、主イエスが神の子であられ、救い主であられることは、汚れた霊どもによって、言いふらされて伝えられのではなく、主イエスによって造られた弟子たち、すなわち派遣された使徒たちによって、つまり教会の伝道によって、主イエスとの本当の出会いと交わりの中で告げ知らされていくべきものだと、ここに示されているのです。
そして同時に、汚れた霊どもに対する勝利、すなわちその力からの解放ということについても、主イエスからその権能を授けられた使徒たちによって、つまり教会の働きによってなされていくことが主の御旨だということです。
主イエスが、私たちに御言葉を語りかけることによって、私たちと本当に出会ってくださり、触れ合ってくださること、そしてその中にこそ、主イエスの十字架の死に裏付けられた救いの出来事が私たちに起っていくのだということが示されているのです。
3.終末の神にある平和(シャローム)
今日は、日本基督教団の平和聖日です。
先ほどお読みいただいた、イザヤ書2章4 節の冒頭では、主が国々の争いを仲裁して多くの民を戒める、そして、神が勝利の裁判官として主が立ち現れると、彼らは剣を打ち直して鋤(すき)とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない、と預言されています。ここには、神にある最上の終末論が記されていますが、その前提に、主イエスの権能があります。私たちは聖書から、神が全てを統べ治められることを知り、主を求めることが必要であることを学ぶのです。
信徒の友8月号29頁の「特集・非戦に生きる」をご覧になりましたか。
そのトップに、本日お読みいただいたイザヤ書2章4節のこの預言の言葉を象徴した、製作者エフゲニー・ヴチェティチのモニュメントがとても良い角度で撮影されて紹介されています。右手にハンマー、左手で剣を持って鋤の刃に打ち直している男性のブロンズ像には、戦争を終わらせて、破壊の道具を農機具に鋳直して、人類の平和に役立て、大地の有効利用のために用いることを願う人々の祈りが表わされています。
信徒の友が掲載したこの写真は、ニューヨークの国連本部のものではなく、モスクワにある同じ像だと記されていました。わざわざモスクワにある同じ像を、信徒の友が紹介しているのは、モスクワとニューヨークに同じ像があることを強調しているのでしょう。
最後に、新約聖書のヨハネによる福音書3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」という御言葉をお届けします。
私たちには、主イエスの十字架と復活という一つの新しい創造行為と結びついた完全な啓示があります。ただ主の憐みと恵の御業をいただく祈りと、人類全体としての悔い改めが行われることへの希望があるのです。
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