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執筆者の写真金森一雄

永遠の住まい(マルコ5:1-20)20241103

更新日:11月4日

本稿は、日本基督教団杵築教会における2024年11月3日の聖徒の日、降誕前第8主日礼拝(永眠者記念礼拝)の説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄 


(聖書)

詩編22編17~32節(旧853頁)

マルコによる福音書5章1~20節(新69頁)


1. 自然、悪霊、病と死を治める主イエスの権能

 

マルコによる福音書聖書の4章35節で、主イエスが弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と言われています。

主イエスのこの言葉を受けて、弟子たちは舟を漕ぎ出しましたが、その湖で嵐が起こります。その日の嵐は、居合わせた弟子たちの力で舟をコントロールすることができないほどのものでした。どうにもならなくなったとき、主イエスが風を叱り、湖に「黙れ、静まれ」平安あれと言われると、風はやみ、凪になりました。主の御言葉は必ず実現します。主イエスが、自然さえも従わせる権能を持っておられることを学びました。

 

今日からは、マルコによる福音書5章に入りますが、前半で主イエスが「悪霊」を追い出してくださる出来事を学びます。そして、後半では、主イエスが「病と死」からいやしてくださる話が続いています。

 

2.悪霊に取りつかれた一人のゲラサ人

 

本日、私たちに与えられたマルコによる福音書5章1節から20節には、一人の人の「逆転人生物語」が記されています。

 

マルコによる福音書5章の1節には、主イエスの一行がガリラヤ湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いたと書かれています。群衆を後に残し、嵐に出合って命懸けで新たに向かった宣教地は、ガリラヤ湖の南東岸に広がる異邦人のギリシャ人の住む植民都市ゲラサ地方だったことがここで分かります。

 

2節には、対岸に着いて舟から降りた主イエスの一行を出迎えた人が登場します。墓場からやってきた、汚れた霊、悪霊に取りつかれた一人の人でした。

2~5節にはこのように書かれています。

「イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。」というものです。

 

どうやら、この町の人たちは、汚れた霊に取りつかれた人を足枷や鎖でつないでいたようです。この人とかかわりを持ちたくない、町の中に入って来てもらっては困る、という仕打ちをしていたのです。


また、当時の墓場というのは、今の私たちが想像するような墓場とは異なります。山の中腹に洞穴を掘ってそこを墓場にしていました。

空いている墓ならば、誰でもその洞穴の中に入ることができました。ですから、この人は墓場を住まいとしていたというのです。

 

6節には、この汚れた霊に取りつかれた人は、「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し」と書かれています。

ひれ伏すと翻訳されている言葉は、聖書の原典ではπροσεκύνησενが用いられておりworshipped:ひざまずいて礼拝した、と表現されているものです。

その人が主イエスを礼拝して最初に発した言葉が、7節の「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」というものです。何か違和感を感じる表現だと思いませんか?


もっとも、8節に「汚れた霊、この人から出て行け」とイエスが言われたからである。と書かれていますので、主イエスはこの人に礼拝する姿勢があることを認めましたが、すぐに汚れた霊が取りついていることも知ったのでしょう。だからこそ、この人に取りついていた悪霊に向かって、「この人から出て行け」と仰っているのです。そのため、後半には悪霊がこの人の口を用いて「かまわないでくれ」と語らせたということなのです。

「かまわないでくれ」という言葉は、私とあなたの間にどんな関係があるというのだ、関係ないだろう、ほっといてくれ、ということを意味しています。

 

私たちもかつてはそうだったかもしれません。皆さんは、主イエスに対して、いや自分に愛を持って接している他の人に対して「ほっといてくれ」と言ったことはなかったでしょうか。そうだとすれば、悪霊に語らされたのかもしれません。紙一重のところに私たちはいるのです。もしそうだとしたら、自分も悪霊に何か言わされたことがあったのではないかと、心配になります。


でも大丈夫です。「かまわないでくれ」とう言葉を発せざるを得なくなった、人間の背景にある苦しみと弱さをを主イエスはご存じです。

そして「名は何というのか」とお尋ねになりました。名前を聞いてくださる方なのです。

 

すると、びっくりするような答えが返ってきました。9節です。

「名はレギオン。大勢だから」というのです。レギオンはその人の名前ではありません。

ここからは、明らかに悪霊が勝手にこの人を用いて語らせ始めます。


「レギオン」というのは、ローマ帝国の歩兵軍団のことを意味します。

当時、ローマ帝国は地中海世界一帯に広がる広大な国でした。いくつもの軍団が点在して、国境警備に当たっていました。一つの歩兵軍団の定員は六千人だったようです。たいていの軍団は四千とか五千人くらいの大軍団で成り立っていました。ですから、レギオンといえば、ユダヤ人を苦しめる憎い敵、ローマ帝国を象徴する言葉で、当時の誰にも分かる恐ろしいものでした。

 

そして10節には、「自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った」と書かれています。既に、ローマ帝国の歩兵軍団レギオンを名乗る悪霊どもは、主イエスに降伏して和平交渉をしているのです。


さらには、11節以下で、ユダヤ人が律法の規定によって、飼うことも食べることも禁じられていた「豚」という言葉が、14節までのわずか4節の間で、「豚の大群」、「豚の中」が2回、「豚の群れ」、「豚飼いたち」と、豚という言葉で都合5回も出て来ます。さらに13節には、「二千匹ほど」と豚の数まで記されているのです。

悪霊とレギオンと豚、三拍子の悪が揃った実に最悪な組合わせが登場しているのです。


12節では、悪霊どもがイエスに「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願っています。

13節で、主イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもはこの人から出て、豚の中に入ったのです。

すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。と書かれています。

 

3.ダビデの逆転人生

 

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、詩編第22編の後半の部分です。この詩編第22編は、前半と後半でガラリと様子が変わるという特徴があります。

前半は、この詩編第22編の詩人であるダビデが味わった大きな苦難が記されています。

そしてその内容は、主イエスの十字架の苦難の出来事が預言されているかのような深いかかわりのある言葉で書かれています。

 

22編冒頭の2節では、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」とあります。マルコ15章34節にある、主イエスが十字架にお架かりになった「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」と、同じ言葉を用いています。主イエスは、この詩編のダビデの詩を読んでいたのでしょう。

また19節には、「わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」と書かれていますが、このことは、マルコ15章24節にも書かれています。主イエスが十字架に付けられる時に、着ていたイエスの服がはぎとられました。そして、見張りをしていた兵士たちが、くじを引いてそれを自分のものにしたと書かれていることと重なります。

 

ところが23節からは、「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美します。」と、この詩編の調子が一変します。

具体的に何が起こったのかは、ここには書かれていませんが、ダビデに大きな苦難があり、深い嘆きがあったことと、そして苦難を祈りによって乗り越えていった様子が分かります。そして、そのような苦難と嘆きの人生の中から、ダビデは救い出されたのです。


そして旧約聖書854頁、詩編22編30節の終わりでは、「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を、民の末に告げ知らせるでしょう。」と語るのです。

そして、ダビデは、神が自分にしてくださった恵みの御業を告げ知らせるという、生き方に徹する生涯を送ったのです。

 

4.「自分の家に帰りなさい」

 

マルコによる福音書に戻りましょう。5章17節をご覧下さい。

町の人は主イエスに「出て行ってもらいたい」と言い出しています。

自分たちが育てていた二千匹もの豚の群れがガリラヤ湖の中でおぼれ死にしました。経済的にも大きな損害を与える事件となったことでしょう。人々はすっかり怯えきっていました。ですから、町の人は主イエスに「出て行ってもらいたい」、つまり「かまわないでくれ」と言ったのです。主イエスに対して、私たちとあなたといったいどんなかかわりがあるのかと、悪霊に取りつかれていた人が言ったのと同じセリフを、町の人が言い出したのです。

 

聖書には、けっこう皮肉なことが書かれていると思いませんか。

この汚れた霊に取りつかれた人は、町の人たちから異常な人だと見られていました。

だから足枷や鎖で縛っておいたのです。

町の人たちは自分たちのことを正常だと思っていたのでしょう。立場が逆転しました。


一方、主イエスに悪霊を追い出していただき、悪霊の支配から解き放たれて、汚れた霊にとりつかれていたいた人は、主イエスを主人とする歩みが始まります。

18節で「イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。」と書かれています。

ところが、主イエスはこの人に対して、一緒に行くことを許しません。

その代わりに19節で、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」と言われました。

 

主イエスは、この詩編第22編の詩人ダビデが自分の罪を悟り、「逆転人生」を歩み始めたことをご存知でした。ダビデと同じように、自分が今まで相手にされていなかった家族や周りの人たちのところへ帰って、伝道する「逆転人生」を始めるようにと言われたのです。

このようにして、人は誰でも、主イエスと出会い、主イエスに新たに造り変えていただき、新たな歩みが始まっていくのです。私もそうです。自分の思いではなく、神のご計画の中で神に従って、この大分県杵築市にやって参りました。

 

ところでここで主イエスが語られた「自分の家に帰りなさい」という言葉は、カトリックの有名なシスターであるマザー・テレサがよく用いていました。

マザー・テレサは修道女です。1910年に生まれて、18歳の時修道院の教師として当時のイギリス領インドに渡り、貧富の差と飢えや病に苦しむインドの現実に直面して現地にとどまって、修道院の外へ出て行って、貧しい人たちを助ける具体的な働きをしました。

彼女のもとに、世界中から多くの女性たちが訪ねて来ました。

「あなたのようになりたい」「あなたのように生きたい」という女性たちに対して、マザー・テレサは「自分の家に帰りなさい」と告げました。あなたが住んでいる家に、あなたが住んでいる町に、あなたの力を必要としている人たちがいる、それがあなたの生きていく場所だと諭して、それぞれの家に帰したそうです。

 

今日の聖書箇所の終わり、20節には、悪霊に取りつかれていた人が、主イエスに言われた通りに従っている様子が書かれています。

「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。」というのです。

デカポリスとは、異邦人であるギリシャ人の住む「10の都市」という意味です。

実に、異邦人伝道の幕開けとなる出来事が、ここに記されているのです。

 

私たちの目指すべき生き方がここにあります。

自分が主人になるように、自分を主語にして生きるのではないのです。

そうではなく、主イエスを主語にして、主イエスが何を自分にしてくださったのか、そのような目線で自分のことを語り、主イエスが自分に与えてくださった生き方に徹すればよいのです。

 

私たちそれぞれに生きる場が与えられています。そして主イエスが私の主人になってくださった。主イエスによって私が生かされている。私たちもそのように神の恵みを受取って、歩むことができるのです。そうすれば、私たちには「永遠の住まい」 が与えられるのです。

 

今日は、主の家族が共に集まる聖徒の日です。そして永眠謝記念礼拝を捧げています。

先に召された方々104名の名前を覚えて、共に祈りを捧げます。


死は罰ではありません。いただいた命を、しっかり最後まで生き抜いた人に与えられる大きな恵みです。あらゆる苦しみからの解放であり、永遠の住まいにある安らぎです。



 

                                 2024年11月3日   

召された人の記念礼拝

    日本基督教団 杵築教会

 

わたしは復活であり、命である。

わたしを信じる者は、死んでも生きる。

(ヨハネによる福音書11章25節)

氏 名

召天年月日

氏 名

召天年月日

001 川上アヤ

1918.8.14

024 得能えみこ

1954.3.20

002 伊藤豊治郎

1923.1.19

025 須藤光喜

1955.1.

003 山久瀬裔嗣

1923.12.5

026 石田喜一郎

1955.2.28

004 吉原正議

1924.11.16

027 清部貞子

1957.7.8

005 後藤マキ

1929.5.30

028 荒木美子

1959.8.24

006 後藤ミス

1932.7.22

029 加来吉利

1959.8.30

007 後藤根本子

1936.12.20

030 荒木雅子

1961.12.27

008 竹中常夫

1942.1.23

031 黒田シゲノ

1962.3.19

009 後藤政篤

1942.3.20

032 河野美奈子

1963.5.2

010 後藤治生

1942.5.17

033 堀   一

1966.7.27

011 須藤ジュン

1942.10.5

034 勝田里仁

1966.9.6

012 須藤光泰

1944.12.24

035 黒川恒雄

1967.11.

013 富田タケ

1945.7.

036 多賀野コヨシ

1968.1.7

014 後藤 康

1945.8.14

037 長田 司

1968.3.12

015 後藤信一

1947.3.10

038 加来ヒサ

1968.6.16

016 澤 喜久子

1949.9.9

039 石田タカ

1970.1.9

017 竹中謙吉

1950.6.25

040 得能勇造

1970.3.24

018 石川百合子

1950.5.1

041 勝田 操

1971.1.23

019 須藤ミネ

1950.9.4

042 北村松夫

1973.3.13

020 多賀野藤吉

1951.

043 竹中モト

1973.3.21

021 山下 斎

1951.12.8

044 吉新覚造

1974.10.6

022 堀 栄一

1953.6.15

045 吉新トヨ

1974.10.26

023 得能シズ

1953.12.16

046 澤 ミツコ

1977.12.9

(1)

 

047 山本コト

1978.2.13

076 吉新道夫

2004.11.24

048 久保田レイ

1979.6.3

077 田中美穂子

2005.2.25

049 吉新保夫

1981.7.8

078 三浦敬一

2005.2.28

050 麻生美佳

1983.7.21

079 平林通夫

2006.3.3

051 二塚ヒロ

1983.9.3

080 北村トクヨ

2006.10.29

052 角 彰人

1984.1.4

081 竹中常裕

2008.5.3

053 北村源治

1985.8.21

082 澤 正義

2010.1.28

054 加来ヒサ

1986.6.18

083 阿部典生

2010.10.14

055 堀  美佐保

1987.3.30

084 河野永子

2011.10.4

056 長田節子

1987.12.4

085 白石一郎

2014.1.4

057 佐々野きえ

1988.11.3

086 吉新治夫

2015.3.10

058 後藤トクノ

1989.5.3

087 勝田スズ子

2015.12.9

059 北村多実枝

1989.5.6

088 河野淳三

2017.2.12

060 多賀野重吉

1989.8.25

089 北村文男

2017.7.7

061 北村文三

1990.11.24

090 杉本貞子

2017.9.28

062 水谷和子

1991.9.11

091 末永 薫

2018.4.7

063 河野はな

1991.10.25

092 賀川トシ子

2018.8.28

064 山久瀬フミ

1992.1.4

093 舛田 森

2018.12.27

065 白石  光

1993.7.26

094 竹中常孝

2019.7.18

066 河野巳子夫

1995.6.22

095 吉新 緑

2019.8.27

067 山下ヒサ

1995.6.25

096 阿部弥生

2019.12.20

068 得能桃江

1995.9.3

097 田邊フミ子

2021.5.8

069 澤  正雄

1995.10.18

098 賀川 真

2021.5.29

070 黒田健三

1996.9.19

099 北村 覚

2022.5.17

071 佐々木郁子

1997.10.30

100 植田道子

2022.9.4

072 多賀野のぶ

1998.1.6

101 加茂俊一

2023.1.3

073 佐藤 巽

2000.3.22

102 多賀野一朗

2023.1.8

074 竹中ツチエ

2001.11.20

103 竹中幸江

2023.1.20

075 竹中常政

2003.5.13

104 田邉英雄

2023.11.21

(以上104名)

(2)

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