本稿は、日本基督教団杵築教会における2024年11月17日の降誕前第6主日礼拝説教の要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄
(聖書)
詩編16編5~11節(旧845頁)
マルコによる福音書5章21~43節(新70頁)
1.12年間生きてきた女性たち
先ほど司式者がお読みした詩編16編は、詩編15編から24編までの一連のダビデの詩の一つです。16編5節bでは、「主はわたしの運命を支える方。」と書かれています。そして、10、11a節には、「あなたはわたしの魂を陰府(よみ)に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず/命の道を教えてくださいます。」と、主は慈しみに富みたもう方であり、主は死を支配される方であると証言されています。
今日のマルコによる福音書5章21節からの聖書箇所は、まさに死と病に対する主イエスの権威の話が具体的に書かれていますが、ダビデの詩と重ね合わせて読むとより深く味わうことができます。ご一緒にじっくりとみ言葉を聴いて参りましょう。
最初にユダヤ教の会堂長ヤイロの12才になった娘のいやしの話が始まります。ところが、途中から25節で、群衆の中の名も知れない「12年間も出血の止まらない女」が登場しています。
ユダヤ教会の会堂長は、一般にその地区において権威と影響力を備えた立場にあった人物でした。聖書には、主イエスにいやされた人、あるいはその親族の名前が残されている例は多くありません。名前が残されている場合は、キリスト教会の中で、後代の人が、ああ、あの人かと思うような方のようです。
ユダヤ教会の会堂長であるヤイロの12才の娘に対する主イエスの介在についての話が冒頭から始められていたのに、その話の途中で12年間も出血の止まらなかった女性の話が突然出てきます。その女性に対する主イエスの愛と病に対する主の権能の話が出てきて、それから再びヤイロの娘の話に戻って、その娘を復活させて死に対する主の権能が示されていく構造になっています。
この二人への主の権能が示される話に共通点がたくさんありますので、いっしょに食べ合わせて味わっていただきたいと思います。
そして、交差しながら書かれている二つの話の重要な共通点が、主への信仰と主イエスの権能を信じることが共通の味(テイスト)となっていることがお分かりいただけると思います。
別の角度から申しあげれば、12年間も出血の止まらない女性のいやしの物語を餡子として、会堂長ヤイロの12歳の娘の復活の話がサンドイッチのパンのようにして挟みこむ構造となっているのです。
二人の女性に共通しているものは、12年の歳月です。聖書では、12は完全数とされていますが、十分に長いということも表しているようです。餡子となっているのは、長血を患っていた女性です。12年間も病を患ってきました。もう一人の少女は、会堂長を務めていた父親のもとで12年間おそらく何不自由なく育てられました。そうした対照的な二人の女性の12年間という歳月が象徴的に語られて、その二人の話が交差して一つにまとまっているのです。
2.会堂長ヤイロと主イエスの出会い
21節に、「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。」とあります。主イエスがガリラヤ湖対岸のゲラサ人の地方でレギオンという名の悪霊から一人の異邦人をいやした後にカファルナウムに帰って来られました。そして、以前のように大勢の群衆が、ガリラヤ湖のほとりにおられる主イエスのそばに集っている光景が書かれています。
すると、22節に、会堂長ヤイロという人物が、主イエスの足もとにひれ伏して、娘が病で死にそうなので、助けて欲しいと主イエスに懇願します。
ヤイロという名前は、「神を照らす」「神は甦らせる」という意味があります。ユダヤ教の会堂長ですからファリサイ派です。
マルコによる福音書3章6節を思い出してください。主イエスが安息日にいやしの業を行うのを見て、ファリサイ派の人々はヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めたと記されていました。
ところが、ここでは、ユダヤ人教会の会堂長ともあろう人が、「イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った」というのです。
このことから、当時すでに多くのユダヤ人たちが、主イエスに対し、自分たちに助けと救いをもたらすメシアではないかという期待を抱いていたということが、はっきりと分かるのです。すべてのファリサイ派の人が、ヘロデ派の人々と一緒になってまで、主イエスの死を望んだわけではないということです。
そしてヤイロの主イエスに対する姿勢は、主イエスのところに助けを求めてやってくる他の人のお手本となるような謙遜なひれ伏すという姿勢をとっているのです。
そしてヤイロの信仰を見た主イエスは、ヤイロと一緒にその娘のいるヤイロの家に向かわれるのです。
3.イエスの服に触れた女
その途中で、25節で12年間も出血の止まらない女がいきなり登場します。
26節に、その女性について、「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」と書かれています。まるで医療事故があったのかのような表現がなされています。多くの医者たちにかかって、多くの苦しみを受け、全財産が費やされた挙句、ますます病は悪くなるだけだった、というのです。
27節には、「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。」こと、28節には、「『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである。」と、その女性について主イエスに対する信仰の証しが書かれています。
そして、「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」と、この女性の「病気がいやされた」というのです。日本語の翻訳では、ともに「いやす」となっていますが、ギリシャ語の原典では、28節のσωθήσομαιは、「救っていただける」と、29節のἴαταιは「治った」と訳した方がよい言葉です。そのようにこの箇所を翻訳しますと、この女性は、「救っていただけると思っていたが、病気が治ったことを身体で感じた」ということになります。
そして34節で、主イエスが「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と、優しく自分の娘に語りかけるように、愛に溢れる言葉を告げられます。
それは、主イエスによる「救い」宣言です。
信仰とはいったい何でしょうか。私たちは主に求めているものがあります。それぞれ切実な求めです。病気を抱えた方は、その病のいやしを求めるでしょう。
この女性にとっても同じでした。12年間も願い続けてきたことは、病が癒されることでした。しかし自分が願っていた以上のことが起こったのです。
この女性は多くの医者にかかりました。しかし駄目でした。最後の手段として、主イエスにすがりました。このお方しかいない、そういう思いだったでしょう。
主イエスはこの女性を群衆の中から探し出してまで、「あなたの信仰があなたを救った」と声をかけてくださったのです。
「あなたの信仰があなたを救った」という言葉は、この女性のこれからの人生における座右の銘となる、大事な言葉です。主イエスは、この言葉をこの女性に宣言するために、群衆の中から探し出してくださったのです。
30-32節に、主イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返って、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われています。そこで、弟子たちは、「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」と答えています。
それでも、イエスは、ご自分に触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた、と書かれています。このように弟子たちが不審に思うほど、主イエスがこの女性を探し出そうとしたのです。
33節に、このいやされた女性が、恐れながら、「すべてをありのまま話した」と書かれています。そして主イエスから言われた言葉は、「安心して行きなさい」という言葉です。
ギリシャ語の原典をそのまま訳すと、「平和のうちに」(εἰς εἰρήνην)、英語では、in peaceと言う言葉です。
これからは、この癒された女性は、その後同じ病にはかからなかったとしても、違う病を患うこともあるでしょう。しかし、この女性のこれからの人生においては、医者を恨むようなことにはならないでしょう。これまでに財産を使い果たしましたが、いつまでもそのことを引きずらないでしょう。
誰でも最終的には死を迎えますが、彼女は平和のうちに死を迎えたと思います。
主イエスと出会い、主イエスのお言葉をいただき、健やかに歩み始めたのです。
この女性の歩みは、私たちの歩みそのものではないでしょうか。
主イエス・キリストの権威とは、「安心して行きなさい」「平和のうちに」と言う権威があることです。病の癒しの権威です。救いの権威、平和の権威です。主イエスだけが救いの宣言、平和の宣言をすることができるのです。そして主イエスのこの救いと平和の宣言が、私たちの歩みを健やかなものにしてくださるのです。
3.12歳の娘の復活
それから、再びヤイロというユダヤ人教会の会堂長を父に持つ、12歳の娘の話に戻されます。ヤイロはいったい何を信じていたのでしょうか。主イエスに来てもらえれば、娘は治る、助かると思っていたのです。
そのためには主イエスに来ていただかなくてはならない、自分の愛する娘が死んでしまえば一貫の終わりだと考えていました。そこで、主イエスを自分の娘がいる家にまでお連れすることにしたのですから、一刻も早く自分の家に主イエスをお連れしたかったはずです。
ところがその道中、一人の女性に中断されてしまうことになりました。
ヤイロはこの時、何を思ったでしょうか。
心の中で「早くしてくれ」と思っていたと思います。主イエスが、一人の女性のために貴重な時間を費やしているのです。
そして、その女性と主イエスが対話をしている最中の出来事です。恐れていたことが起こりました。娘が死に飲み込まれてしまう、その現実を突きつけられたのです。
35節です。「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」」と言うのです。その報告を聞いたヤイロの気持ちは、なんともやりきれないような心の内だったと思います。
主イエスは喜んで時の「中断」を受け入れられました。ご自分はエルサレムに向かう、十字架に向かう旅をされていた主イエスです。
そもそもヤイロの娘のところに行くというのも「中断」でした。主イエスは、会堂長のヤイロから請われて、ご自分の旅を「中断」しているのです。そして、ヤイロの娘のところに行こうとされました。
その道中でした。十二年間も出血の止まらなかった女を探し出すために、やはり「中断」されたのです。大事なことは、主イエスが「中断」して、何をしたかということです。
十二年間も出血の止まらなかった女性に声をかけています。そしてこの時もまた恐れを抱いているヤイロに声をかけておられます。
主イエスが時の「中断」を受け入れることによって、時々の人格的な対話が生まるのです。
その人にどうしても必要な言葉が語られていくのです。
今日の聖書箇所の二つの物語には、そのような共通の特徴、同じ味があるのです。
35節のヤイロの家から遣わされてやって来た人々の言葉は、とても冷静なものです。ヤイロ本人の様子は記されていません。
しかし36節の「恐れることはない。ただ信じなさい」と、主イエスがヤイロに語られた言葉からすると、ヤイロは何らかの恐れを抱いていたのだと思います。
そして、主イエスが向かった先の状況が書かれています。
38節です。「一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て…」とあります。会堂長の娘ですから、「泣き女」がいたのかもしれません。
そういう人もいたでしょうけれども、やはり当事者のヤイロやその家族、親しかった人は別だったと思います。何よりもヤイロは恐れを抱いていたのです。
ヤイロは、何を恐れていたのでしょうか。
絶望感に打たれた恐れでしょうか。それとも自分の娘が神に打たれてしまったというような恐れでしょうか。自分もまた死に飲み込まれるという恐れでしょうか。
具体的には聖書に書かれていませんので分かりませんが、死に対する人間の根源的な恐れがヤイロの中にあることを、主イエスは感じ取っていたのでしょう。
このように、主イエスが出会ってくださるのは、完全な人ではなく主に恐れを抱く人たちなのです。十二年間も出血の止まらなかった女性もそうでした。自分の身に起こった出来事に恐れを抱いたのです。しかし主イエスがその女性を探し出して出会ってくださいました。
ヤイロは、恐れました。このように恐れを抱いている人間のところに主イエスの方から赴いて、出会ってくださるということが、ここには共通の味として、サンドイッチのように一つになってこの二つの物語が書かれているのです。いずれも主イエスが、御自身の時の中断をしてくださったからこそ、起きた恵みの出来事です。
41節には、「タリタ、クム」という主イエスの発した言葉は、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味だという解説までなされていますが、これは主イエスが話されていたアラム語の響きをそのまま記したものです。「起きなさい」という言葉に促されて、少女は生き返ります。
42節に、「少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。」と書かれています。
主イエスがその歩みを中断してまで、死の現実の中に飛び込んでくださり、当事者に声をかけて、起き上がらせて、歩ませてくださったのです。
この12年間長血をわずらっていた女性のいやしの業が主の歩みを中断するかのように先に行われたことをもってしても、主イエスは、ヤイロのようなこの世の肩書きや信仰の完全性を必要条件とされる方ではないことが示されているのです。もし、人の完全性が神の恩恵をいただくことの必要条件であるならば、これに与れるものは、この世に一人もいないはずです。
この物語を通じて、主イエスを恐れ、主イエスを信じる者すべての者に、終わりの日に死と病を支配される権能を働かしてくださることを知ることができます。
主イエスが、「タリタ、クム」と言われた、主の力ある言葉を私たちは聞くのです。
主の復活の業とは、再び死ぬことのない、悲しみ、嘆き、痛みのない永遠の命を与えてくださるという約束です。この物語を通じて、主がそれを指し示めしてくださっているのです。
その主イエス・キリストの言葉を聴くことができる場は、教会です。
私たちは、死、病、罪を乗り越えて、私たちを歩ませてくださる力を、主イエスから説教を通じて受け取ります。それが渋柿を甘く食べられ老年
主イエスは、皆さんそれぞれのところでも、そのために必要な主イエスの歩みの「中断」をしてくださいます。そして私たちは、「起きなさい」という主の言葉を聴かせていただくのです。その時私たちは、主イエス・キリストと真の出会いをすることになるのです。
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