本稿は、2022年6月21日(火)の横須賀学院高等学校のチャペル礼拝の説教です。
教育実習生 東京神学大学大学院1年 金森一雄
あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。(22節)
あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。(23節)
こう言われているからです。
「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。
草は枯れ、花は散る。(24節)
しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」(25節a)
これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。(25節b)
ーーー新約聖書ペトロの手紙第一 1章22~25節ーーー
今朝のチャペル礼拝でわたしたちが与えられました聖書箇所の冒頭(22節)では、「真理を受け入れて」、「清い心で深く愛し合いなさい」と記されています。ここで言う「真理」とは神さまのことです。横須賀学院の『敬神・愛人』の建学の精神と重なってその実践が求められている聖書箇所なのです。
そして続く23節では、あなたがたは、「朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれた」と宣言されているのです。今朝は「朽ちない種」から神の変わることのない生きた言葉によって「新たに生まれる」とは、とはどのようなことなのか、その「新生」ということについて考えてみましょう。
ところで、今朝の礼拝は花の日を記念する礼拝です。今年も皆さんの各家庭から花を持ち寄っていただきました。花の命は短いからこそ、美しく、受け取った方の心を癒してくれるものです。花の日の花束に、主イエスの中にある慰め、救い、希望などに感謝する言葉を添えて、わたしたちが日ごろお世話になっている病院などに心を込めてお届けして神さまの愛を分かち合おうと計画しています。
聖書箇所の後半部分24節以下の、「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」という言葉は、どのように華やかに見える人であっても、それは花の美しさと同じで、命には限りがありいずれは枯れてしまうと、人の人生を憂いている言葉です。それは、長さの違いこそあれ、生まれたままの「新生」していないわたしたち人間の命は、花の命と同じだというのです。だからこそ人は、永遠の命はないものかという真理を探す旅を始めるのです。
ヨハネによる福音書には、当時のユダヤ人社会のサンヘドリンという最高の権力を持つ国会議員(評議会)として、ニコデモという人が登場します。当時の社会では、個人的な財産は神の恩恵をいただいている証拠だと考えていました。また、サンヘドリンの議員の地位を得るためには、自分の実力で獲得しなければなりません。人々から良い評判をいただくために、長いこと一所懸命に周囲に気配りしながら働いたのです。
ニコデモは、遠くから距離を置いて主イエスの言葉と教えに耳を傾けていたのでしょう。彼は自分の人生の中でずっと「真理」とは何かと探し求めていました。さらに詳しく主イエスの話を直接聞きたいと考えたのでしょう。「ある夜」ニコデモは、イエスのもとに来ました。そして、「ラビ(先生という意味)、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。」と言った(ヨハネ3:2)のです。人が「夜」動くというのは自然ではありません。理由があるのです。うなずいている方がいまね、そうなのです。人目を避けたのです。彼は、イエスに敵対感を持っていたファリサイ派の有力議員でしたから、主イエスに接することを周囲の人に見られることで、自分のこれまでの地位を失いかねないリスクがありました。それでも、 真理は神にあるのではないかと思って、夜を待って主イエスを訪問したのです。
主イエスは、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない。」(ヨハネ3:3)と、ニコデモの求めるド・ストライクの答えをされました。真理を追究するニコデモはさらに、「年をとった者が、どうして生まれことができるでしょうか。」「年をとった者が、・・もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」(ヨハネ3:4)とイエスに言いました。ニコデモの「真理」を求める気持ちが本物であることが分かります。
そして、ニコデモはイエスから、
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
という、福音中の福音と言われている言葉を聞き出すのです。
わたしたち人間には、死の前で絶望するのではなく、希望が与えられる道を神さまが用意してくださっているのです。そしてペトロもこの手紙の中で、「主の言葉は永遠に変わることがない。これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」(25節)とわたしたちを励ましているのです。
ところで、わたしたち教育実習生は、6月1日から三週間、横須賀学院に遣わされて皆さんとご一緒に歩ませていただく恵みに与かりました。本館4階のチューターズルームに自分の教材やパソコンを持ち込んで、各教室と行き来しています。先週、残り一週間となり、研究授業の準備も大詰めになりました。さあラストスパートというとき、皆が心身ともに相当疲れを覚えていました。
そのとき、チューターズルームにいた実習生が、誰彼となく讃美歌を手にして歌い出しました。またある者は、今晩は徹夜で研究授業の準備をしなければならなくなると語っていましたが、気分転換になるからと言って聖書を読み始めました。いずれも、横須賀学院を4年前に卒業した教育実習生です。
川名校長先生が、「入学したばかりの頃は、キリスト教学校のたたずまいに戸惑いを感じる生徒たちも、卒業する頃には『日頃の礼拝で触れた御言葉が支えになった』と振り返ることが多いそうだ。」と語っておられますが、まさにそれを目の当たりにしました。
そして教育実習最終日の、この花の日礼拝まで、たどり着くことができました。
わたしたちが、『敬神・愛人』の建学の精神に包まれてなければ、自分たちの力だけに頼っていたのでは、この山を乗り切ることができなかった気がします。
このチャペルでの花の日礼拝に参加している高校三年生の皆さん。安心してください。
横須賀学院の建学の精神『敬神・愛人』に基づく、礼拝、聖書と讃美歌、キリスト教行事の三本柱の下に、あなたが、皆さん一人一人が、すでに置かれているということを覚えて感謝してください。
神の愛に包まれた横須賀学院で過ごす一日一日を大切にしてください。今が人生で一番美しく咲き誇るときです。
そして御言葉を受け入れて、「朽ちない種」から新たに生まれゆく人として成熟していくことを信じて、残り少ない卒業までの9か月間を歩んでください。
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