top of page
検索
執筆者の写真金森一雄

新しい革袋に(マルコ2:18-22)20240707

更新日:9月27日

本稿は、日本基督教団杵築教会における2024年7月7日の聖霊降臨節第8主日礼拝での説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄 


(聖書)

イザヤ書58章1~14節(旧1156頁)

マルコによる福音書2章18~22節(新64頁)

 

1. 断食についての問答

本日与えられたイザヤ書58章の冒頭には、「神に従う道」と小見出しがつけられて、断食のあり方が書かれています。断食をすることは、洋の東西を問わず宗教的に意味ある行為とされています。旧約聖書においては、断食は、神様に自分の罪を告白して悔い改めることの印として、罪を犯した者が神様の前にひれ伏し、悔い改めて赦しを求めることだとされており、律法では、年に一度「贖罪の日」に、大祭司によって特別な犠牲が献げられ神様による罪の贖いを受ける断食を教えていました。

ところが、イザヤ書58章の4、5節では、「お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし、神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては、お前たちの声が天で聞かれることはない。」(4節)「そのようなものがわたしの選ぶ断食、苦行の日であろうか。葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと、それを、お前は断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。」(5節)と、神が言われています。ユダヤ人の行っていた断食が、本当に意味のある断食にはなっていない。形式的で偽りの断食になっている。古いままでとどまり、新しくなれない。といった問題を抱えた状況に陥っているというのです。

そして6、7節以下で、「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛(くびき)の結び目をほどいて、虐(しいた)げられた人を解放し、軛(くびき)をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。」だと、神が語られているのです。それは、神様の選ぶ断食とは、虐(しいた)げられた人の軛(くびき)をほどいて飢えた人にパンを与え、さまよう人を家に招き入れ、裸の人に衣を着せかけて、助けを惜しまないことだというのです。私はこの箇所を読むまで、神が選ぶ断食として断食の原点が記されていることについて、十分理解していなかったことに気付かされました。


その後、イスラエルの民の罪の結果として国を滅ぼされ、バビロン捕囚された時代になると、イスラエルの人々は、年に一度断食して悔い改めるだけでは足りないと考えて、年に四回断食をするようになりました。そして、ファリサイ派の人々は、主イエスの時代には、週に二度、月曜と木曜に断食をするようになりました。

これに対して、ヨハネがファリサイ派の人々に「蝮の子らよ」(マタイ3:7)と激しい言葉を浴びせています。ヨハネの弟子たちは、自分たちの断食は真実な悔い改めに生きることを実践するものだと主張する一方で、ファリサイ派の断食を形式主義に陥っていると指摘しています。マルコ1章6節には、ヨハネが「いなごと野蜜を食べていた」と記されているように、ヨハネの生活の全体が一種の断食だったのです。

 ファリサイ派の人々とヨハネの弟子たちは、どちらも断食を大切にして、積極的に行なっていました。それは、一般の人々より律法を厳格に守り、常に悔い改めて、律法を遵守しようとする彼らの信仰の現れでもあったのです。

 

2.婚礼の席と断食

ところが、主イエスは、マタイによる福音書の第6章16節で、「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」と、私たちが断食するときの姿勢を批判をしています。主イエスは、神様に対する悔い改めと祈りの行為でなければならない断食が、人に見てもらおうと自分の信心深さや熱心な信仰の姿を人に見せるための偽善に陥っていると仰っているというのです。罪の悔い改めの行為だった断食が、いつのまにか自分を誇る自慢の行為になってしまうのです。

主イエスご自身が、しばしば断食して祈っておられたことが聖書で語られていますが、主イエスはそれを弟子たちには求めておられません。むしろ、主イエスは、弟子たちと、また様々な人々と共に食事をすることを喜ばれました。聖書には、主イエスが断食したということよりも、食事をした、食事の席に着いたということの方がずっと沢山語られています。

断食をせず、むしろ積極的に人々と飲み食いをするところに、主イエスとその弟子たちの新しい集団の特色がありました。それは人々を驚かせるものでした。


マルコによる福音書2章18節には、「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と、人々が主イエスのところに来て言っていると書かれています。当時、洗礼者ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちが多くいて、どちらも断食に励んでいました。ところが、主イエスとその弟子たちには断食している様子は見られません。人々はそこにも他の人々との違いを感じて、主イエスを中心とする群れの独自性に驚いていたのです。


 19節で主イエスは、「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか」と、不思議な答え方をなさいました。主イエスの弟子たちが断食をしないのは、婚礼の客だからだというのです。婚礼の席と断食とは全く似つかわしくない話です。

結婚披露宴に招かれた客が、御馳走を前にして、「私は今断食をしていますからいただけません」と言ってただ座っているというのは失礼な話です。

彼らを婚礼に招いたのは花婿です。その花婿とは主イエス・キリストです。

主イエスが花婿として来られて、今や婚礼の宴会が始まっている。弟子たちは花婿である主イエスによってその宴席へと招かれている客なのです。


主イエスの弟子たちは、そのように婚宴に招かれている客である。だから断食はできないのだ、と主イエスはおっしゃったのです。婚礼に招かれた客に求められることは、花婿のことを心から喜び祝い、祝いの宴席に着いて飲み食いして、神の国、神様のご支配による救いの実現が近づいたことを心から喜び祝うことです。それが、主イエスを信じて従っていく弟子たちの主イエス・キリストを信じる信仰の基本です。この主イエスの言葉をもって、主イエスの弟子たちの共同体は、まだメシアの到来を将来に待望しているユダヤ教の会堂に集う人々や洗礼者ヨハネの弟子たちの集団に対して、自分たちはすでに預言者が預言し、イスラエルが待望してきた終わりの日の現実に生きているのだ、花婿がすでに到来し自分たちは花婿と一緒に婚礼の祝いの祝宴にいるのだ、と宣言しているのです。


杵築教会でも断食をしていません。今日はお昼抜きです。礼拝後から夕方まで断食祈祷会をしましょう。そんなことは言わないのです。私たちキリストに属する者は、花婿と一緒にいる者として、すなわち霊なる復活者キリストと合わせられて生きている者として、ユダヤ教徒のように断食することはありません。既に、十字架に架かられ復活されたキリストと共に生きる霊的現実が、十字架の出来事において既に与えられているのです。


第二コリント5章14節bに、「わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。」とあります。

キリストが私のために死んでくださったのだから、私はキリストの十字架に重ねられて死んだのです。キリストと共に生きる霊的現実に生きているのです。断食が目指している自己否定による悔い改めは、キリスト者の内面で既に実現しているのです。


プロテスタントの教会になって、説教壇と聖餐卓を礼拝堂の中央に寄せました。この会堂にも、説教台の目の前に、聖餐の食卓があります。そして皆さんの前に、礼拝堂の前方中央に、聖餐の食卓があります。この配置はとても大事なことで、説教を聴くことに集中することと、聖餐の食卓を取り囲むということを大事にしていることの表れです。

私たちは、聖餐がある時はもちろんですが、聖餐がない時であっても、いつでも喜びの聖餐卓を囲んで礼拝をしています。それが私たちの信仰にとって大事なことで、断食をするよりもずっと大事なことなのです。

 続いて20節で、主イエスは「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。」と言われました。明らかに十字架のことがここで言われています。花婿である主イエスが奪い取られる時が来る。そして、十字架に架けられて、三日後に甦(よみがえ)られるのです。その十字架の直前、最後の晩餐の席で、主イエスは弟子たちに聖餐を祝うようにと命じています。その後十字架に架けられて復活した主イエスは、何度も食事の席を弟子たちと共にしています。弟子たちに、新しい命に与るようにと、食事の席を備えてくださったのです。

キリストにある者は、十字架の場で実現してくださった自己否定による悔い改めを、御霊の喜びの中で地上の生活で現していくことになります。それは、もはや断食という形ではなく、悔い改めという自己否定から出る愛の行為として現れることになるのです。

今日のこの礼拝でも聖餐式はありませんが、喜びの祝いの象徴として聖餐卓が置かれています。そして私たちは赦された者として、新しくなることができるのです。

 

3.二つの譬えの意味

今日お読みいただいたマルコによる福音書の2章21節には、「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。」とあります。

また、22節では、「また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」とあります。

この二つの譬えはいずれも、新しいものによって、古いものが引き裂かれてしまうことが語られています。このたとえによって、主イエスによってもたらされた新しい御霊の生命は、それにふさわしい新しい形の中で生きるものであることを宣言しています。

もはやユダヤ教の律法という古い、固い殻の中に納まらない生命なのです。

それは、ローマ信徒への手紙7章6節で、「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」と、パウロが命がけで主張したことなのです。

それは、神様の救いにあずかるのに相応しい立派な人になれ、ということではありません。主イエスによってもたらされている新しい救いを受け止めるために、あなたがた自身が新しくなりなさい、と言っておられるのです。主イエスは、十字架の死をもって私たちの罪を赦して、私たちを神の子として下さいました。その救いの恵みを喜び祝い、そしてその主イエスがもう一度来て下さって、今は隠されている救いを完成して下さることを待ち望む信仰をもって生きること、このことこそが私たちが用意しなければならない新しい革袋なのです。

新しいぶどう酒はまだ発酵を続けていて、ガスを出しています。人間の身体と同じです。そのようなぶどう酒を、弾力を失い硬化している革袋に入れると、ガスの圧力で革袋が破裂することがあります。新しいぶどう酒は弾力性がある新しい革袋に入れなければなりません。これは、水やぶどう酒を羊の革で作った袋に入れて遊牧した遊牧民の知恵の言葉なのです。


私たちがその新しい革袋となるために神様が備えて下さっているものが、主の日の礼拝です。礼拝に集って、救い主イエス・キリストの福音を聞き、そして聖餐にあずかる時に、私たちのために十字架にかかってくださり、復活して下さった主イエスによる救いが確かに与えられ、世の終わりにもう一度来て下さる花婿主イエスによる救いの完成を待ち望む希望が新たにされるのです。聖餐は、既に来て下さった主イエスの恵みを味わう喜びの食事であると共に、再び来たりたもう主イエスによって世の終わりに約束されている喜びの宴席を先取りする希望の食事でもあります。教会の礼拝においてみ言葉を聞き、聖餐にあずかることによって、私たちは常に新しい革袋となるのです。

聖なる事物の最上の使用法は、主の贖いの業を覚えて、他の人を助けるために用いることであることを私たちは知っています。愛と赦しと奉仕と憐みを行うことです。

私たちは、主イエスが注いで下さる新しい喜びのぶどう酒を新しい皮袋に注ぎ込むことによって、私たちはキリストの愛を実践するものに変えられていきます。飢えた人にパンを与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に衣を着せかけて同胞に助けを惜しまない者にさせていただくのです。




閲覧数:40回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Comentários


bottom of page