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新しい契約(マルコ9:30-32) 20250316

  • 執筆者の写真: 金森一雄
    金森一雄
  • 3月16日
  • 読了時間: 10分

更新日:4 日前

本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年3月16日受難節第2主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会 伝道師 金森一雄  

(聖書)

エレミヤ書31章31-34節(旧1237頁)

マルコによる福音書9章30-32節(新約79頁)

 

1.受難節にすること

今年のイースターは4月20日ですが、イースター直前の土曜日の19日から、日曜日を除いて四十日間遡って数えた日を受難節の始まりの日「灰の水曜日」としています。今年は3月5日でした。灰の水曜日には、その心を象徴して今でも灰を額に付ける人たちもいます。また、主イエスが四十日間、悪魔から誘惑を受けられたことを覚えて、イースター前の40日間は断食をする方もいます。

 断食については、旧約聖書のイザヤ書58章6、7節に「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛(くびき)の結び目をほどいて 虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え さまよう貧しい人を家に招き入れ 裸の人に会えば衣を着せかけ 同胞に助けを惜しまないこと。」と書かれています。軛とはそれによって行動の自由を奪うことを意味する言葉です。軛の結び目をほどくというのは、自由に周囲を見回せる状態に戻すことです。更に、周囲の人に助けを惜しまず、共に愛しあって生きることが、断食の勧めであると言うのです。

 

それでは杵築教会の私たちは、今この受難節に何か象徴的な行為をするとすれば、何をしたらよいのかと質問される方がおられるかも知れませんね。

私は迷わず、それは、主イエスが十字架に向かって歩まれたことを思い起こしてください、とお答えします。

主イエスは何のために十字架に進まれたのでしょうか。主イエスの十字架は、自分とどのようなかかわりがあるのか。などなど、主イエスが十字架に向かわれたことをしっかり見据えると、いろいろな問いが生まれてきます。

杵築教会では、毎主日に礼拝を捧げて、御言葉を聞くことによって真の教会形成を目指す群れとさせていただくことを目指しています。

 

そのための私たちの応答として、説教批判、説教へのコメントをする習慣を身に付けたいと願っています。イザヤ書58章の「軛(くびき)」をたとえとしてお話しさせていただきますと、軛の結び目をほどかれて、礼拝に参加させていただくことから始めているということです。ですから私は、「毎週、毎週、新しい気持ちで御言葉を聴き直してください。」とお願いしています。教会で語られていることは毎週同じだ、と言っても言い過ぎではありません。それどころか、二千年にわたってずっと変わっていないのです。その中に、まず身を置くのです。そして主イエスからの導きをいただこうとしているのです。もうこの礼拝に参加されている方は、準備万端だということです。

 

ところが私たち人間は、聞いたことをすぐに忘れてしまうし、神の愛、神の憐みや慰めを忘れて的外れな生き方をしてしまいます。

 だからこそ御言葉を聴き続ける必要があるのです。主に喜ばれる礼拝を捧げたいと願い、キリストとはどなたなのかと尋ね求め、主の光の中を歩ませていただくのです。

主イエスは、十字架の自己犠牲の愛へと進まれました。主イエスが救い主として、私たちのために自分の身を投げ出して十字架にお架かりになったのです。そんなことは、主イエスにしかできないことです。特に受難節においては、このことを直接的に思い起こすことが求められていると受け取ってください。

 

2.エルサレムへの旅と受難予告

今日与えられたマルコによる福音書9章30節には「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった」と書かれています。

「ガリラヤを通って行った」と書かれていますから、主イエスが福音を宣べ伝えはじめたガリラヤは、もはや目的地ではなく通過点になっているということです。


それまでは、主イエスと弟子たちは、病人を癒したり、悪霊を追放されたり、多くの御業を行って神様の権威を示されていました。そして主イエスが行くところどこにでも、群衆が集まっていました。ところが、主イエスは、十字架が近づくにつれて、人々の目を避けるようになりました。ご自身が十字架に架けられるエルサレムに向かうにあたって、弟子たちの教育に力を入れ始めたのです。

と言うことは、主イエスがこの世の来られたのは、驚くべき奇跡を行うことで人々を引きつけることが主眼ではなかったのです。この時期から主イエスは、群衆の前で神の権威を示すことは避け、主イエスの教えを弟子たちに語られ、その中で、主イエスは繰り返し、ご自身の死と復活を予告されていたのです。

 (これ以降主イエスが病の癒しを行われる出来事は、マルコの福音書10章46節の、エルサレムに入る直前にエリコの町で盲人バルティマイを癒されたことだけです。)

 

3.人々の手に引き渡される

今日の説教箇所、マルコによる福音書9章31節では、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と、二度目の受難予告の言葉が書かれています。

しかし、その前の8章31節の一回目の受難予告の時に書かれている言葉とは、微妙な違いがあることに気がつかれたでしょうか?

 

一回目の受難予告では、主イエスは、「長老祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される」と十字架の出来事について、具体的に誰からどのような形で行われるのかが語られていました。そして今回の二度目の受難予告では、「人々の手に引き渡され」という言葉が加わわっています。この言葉に着目してみましょう。

「引き渡され」という言葉を用いることによって、一度目の受難予告の時よりはっきりと、この十字架とは一体どのようなことなのか、何を意味するのかが示されているのです。

 主イエスの十字架の出来事とは、神が神の独り子を人々(私たち人間)に引き渡されることです。「引き渡される」という言葉は、ギリシャ語でπαραδίδωμι(パラディドーミィ)という、主イエスの十字架へ直結する言葉が使われています。

パラディド-ミィという同じギリシャ語が、文脈によって別の箇所では、文脈によって、主イエスが「捕らえられる」、ユダが「裏切る」と翻訳されているのです。

 

世界各地の戦争で捕虜交換が行われていますが、神様の独り子が人間の手の中に引き渡されるということは、戦争をしているわけではありませんが、神の独り子イエスが人間の側の捕虜になる(引渡される)ということです。

捕虜については、『国際人道法に基づき、常に人道的な待遇を確保するとともに、捕虜等の生命、身体、健康及び名誉を尊重し、これらに対する侵害又は危難から常に保護しなければならない。』と定められています。

私たち人間は、神様からの愛の和平を実現するために、私たちに主イエスが引き渡されるという神のご計画を知って、その主イエスをどのように取扱うのかが問われるのです。

 

私たち人間は神に造られ、主イエスと向き合い、神の愛に応答して神との交わりの中に生きるように創造されています。ところが聖書に書かれていることは、人間は神様と向き合おうとせず、神様に背いて罪を犯してきたことばかりです。

創世記11章の「バベルの塔」の出来事が、その典型的な物語です。人間が、神と肩を並べて神のようになろう、もはや神は要らないのだから、と考えて天まで届く高い塔を建てようとした出来事です。それが私たちの姿なのです。

 

一方、主イエスを人々の手に引き渡す主体は誰かと言えば、父なる神です。

父なる神が、愛する独り子を人間の手に引き渡し、まったく罪を犯していない主イエスを私たちの罪の身代わりとして十字架にかけられて、私たち人間を救おうとされているのです。

私たちの目には、主イエスの十字架の死は、人々の手によって引き起こされたものかのように見えるかも知れませんが、実はそのことまでもが神様の先行する愛の中にあることであり、私たち人間の救いという神様のご計画なのです。

 

4.未完了で今も続いている

31節の「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言う言葉は、動詞のすべてが未完了形で表現されています。今もその状態が続いている、という文法にしたがって書かれています。

マルコによる福音書ではこのような受難予告が、一回(8:31)、二回(9:31)、三回(10:33)、三度なされたように書かれています。三度は完全数です。しかしながら、主イエスは、三度だけでなく常日頃から何度も話されたと考えるべきでしょう。いずれも未完了形で書かれていますので、今も続いていて完了していないことなのです。

主イエスは、私はこれからエルサレムを目指していく、そこで十字架に架けられて殺されて、三日目に復活されていることを今も私たちに教え続けているのです。

主イエスを十字架に付けた責任は誰にあるのか、教会の二千年の歴史の中で、しばしばその責任はユダヤ人にあると言われてきました。それがユダヤ人への迫害につながっていました。主イエスを十字架に架けたその責任は、すべての私たち人間にあります。現代に生きる私たちに主イエスが「引き渡されて」いるのに、主イエスを尊重しないで、ユダのように主イエスを裏切ってしまうのです。

十字架の死は、私たちの手によって引き起こされたものであると同時に、神様の救いのご計画の中にあることです。愛する独り子を罪人たちの手に渡し、十字架に架けられ、主イエスの流された血潮によって人々の罪の身代金、代償としてくださった出来事なのです。

 

5.新しい契約

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書箇所はエレミヤ書31章(旧1237頁)です。

旧約聖書の時代は、人の罪の贖いのために動物の犠牲が必要でした。動物、すなわち自分の財産である家畜を代償としてささげていました。罪を犯した者が、自己責任として自分の財産を代償としてささげたのです。

エレミヤ書31章31、32節には、「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。」と書かれています。

ここで言う、「エジプトの地から導き出したときに結んだ」古い契約は、人間が神様との約束を守ることができなかったので成就していません。

そこで、エレミヤ31章33、34節で、「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」と預言しているのです。神様は、罪の赦しが前提とされている新しい契約を結ばれるのです。ここに書かれている新しい契約を結ぶために、主イエスは十字架の死へと「引き渡された」のです。

 

かつて罪の問題は、本来自己責任でした。ところが人間の自己責任では、いつまでも罪の問題が解決されることはありません。人間は、また罪を犯してしまう。また自己責任で罪の赦しを得るという、負の連鎖がいつまでも続くのです。

しかし神の子が犠牲を払ってくださる。それが新しい契約です。

人間の罪の赦しのための犠牲を主イエス・キリストの十字架によって、果たしてくださいました。主イエスが罪の赦しを成し遂げてくださり、私たちはその主イエスを救い主として信じる、それが新しい契約です。

 

マルコによる福音書9章32節にこうあります。「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。」と書かれています。弟子たちは恐れを抱いていました。主イエスに質問することもできませんでした。弟子たちが無理解のまま、主イエスは、十字架に向かいます。人間の心には、見たくないものを拒否する特性があります。例えば、医者に余りよくない診断を下されたがその詳細を知らされなかったと感じたときに、医者に質問をするのが怖くなることがあります。人は、それ以上見たくないと思うことについて、それ以上知ることを恐れるのです。この時弟子たちは、そんな状態だったのです。

その後、使徒として大きな働きをすることになる弟子たちですが、この時点では、すでに主イエスの悲劇の雰囲気に気づいていたけれど分かりたくなかった、怖かったというのです。

 

今、ここに集められている皆さんは幸いです。こうして共に御言葉を聞かせていただいているので、恐れることがないからです。

受難節の第2主日のこの日、主の求められる断食の意味を噛みしめながら、新しい契約の中を生きることができる幸いに改めて感謝の祈りを捧げましょう。


 
 
 

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