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新しい契約

執筆者の写真: 金森一雄金森一雄

2025年3月16日受難節第2主日礼拝説教要旨

杵築教会 伝道師 金森一雄 

 

(聖書)

エレミヤ書31章31-34節(旧1237頁)

マルコによる福音書9章30-32節(新約79頁)

 

(説教)

 

1.受難節にすること

 

今年のイースターは4月20日ですが、イースター前の土曜日から、日曜日を除く四十日間遡って数えた日を受難節の始まりの日として、「灰の水曜日」と言います。今年は3月5日でした。この日には、灰を額に付ける教会やイエスが四十日間、悪魔から誘惑を受けられたことを覚えて、イースター前のこの期間に断食をする教会もあります。

 

それでは杵築教会の私たちは、この受難節に何をしたらよいのでしょうか。

主イエスが十字架に進まれたことを思い起こすのです。主イエスが何のために十字架に進まれたのか。主イエスの十字架と私たちにどのようなかかわりがあるのか。そもそも十字架に進まれた主イエスとはどなたなのか。主イエスの十字架への道行きを覚えると、いろいろな問いが生まれてきます。

 

杵築教会では、主に喜ばれる礼拝を捧げながら教会形成を目指しています。ある方が、「最近、説教を聴いてもすぐ忘れてしまうのです。」と言われました。すぐ忘れたり、眠くなると言うことは、礼拝に参加していることで、安心して平安の中に包まれているということなのでしょう。記憶力の問題ではありません。

それでも私は、「毎週、新しい気持ちで御言葉を聴き直してください。」と答えています。教会で語られていることは、基本的に毎週同じだと言っても言い過ぎではありません。それどころか、二千年にわたって変わっていないとさえ言えます。

私たち人間はすぐに忘れてしまうし、神の愛、神の憐みや慰めを忘れて的外れな生き方をしてしまうのです。だからこそ御言葉を聴き続けるのです。

主に喜ばれる礼拝を捧げながら、キリストとはどなたなのかと尋ね、主の光のもとで自分自身の歩みを顧みるのです。

主イエスは、十字架の自己犠牲の愛へと進まれました。主イエスが救い主として、私たちのために十字架にお架かりになったのです。受難節だけではありませんが、特に受難節においては、何度もそのことを思い起こす必要があるのです。

 

2.エルサレムへの旅と受難予告

 

今日与えられたマルコによる福音書9章30節には「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった」と書かれています。主イエスは、十字架が近づくにつれて、人々の目を避けるようになったのです。これまで主イエスは、ガリラヤ湖を離れて、ガリラヤ湖対岸のゲラサ人の住む地や北方の異邦人のシリア方面まで旅をされることもありました。

しかしここでは、「ガリラヤを通って行った」と書かれていますから、ガリラヤはもはや目的地ではなく、通過点になっているのです。

主イエスはこれから、エルサレムを目指す旅が本格的に始まっていきます。エルサレムは、主イエスが十字架にお架かりになったところです。

ご自身の十字架の死を見据えて、新たな出発をされるのです。

 

主イエスと従う者たちの一行は、活動拠点としていたガリラヤから、十字架につけられるエルサレムへと向かって一歩一歩進み始めます。

それまでは、主イエスは、病人を癒したり、悪霊を追放されたりと、多くの御業を行って神様の権威を示されました。そして主イエスが行くところにはどこでも、群衆が集まっていました。しかし、十字架に架けられるためにエルサレムに向かうにあたって、主イエスは弟子たちの教育に力を入れ始めました。

主イエスが世の来られたのは、驚くべき奇跡によって、人々を引きつけることではなかったからです。これ以降主イエスが病の癒しを行われる出来事は、10章46節でエルサレム入城直前にエリコの町で、盲人バルティマイを癒されたことだけです。

 

この時期から主イエスは、群衆の前で神の権威を示すのではなく、ただひたすら主イエスの教えを語られたのです。

教えを語られる中で、主イエスは繰り返しご自身の死と復活を予告されます。

そして31節には、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と、二度目の受難予告が記されています。

8章31節の一回目の受難予告の時には、主イエスは、「長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される」と十字架の出来事が、具体的にどのような形で起こるのかが語られました。今回の二度目の予告では、「人々の手に引き渡され」ということが加わっています。一度目の予告の時よりもはっきりと十字架の意味が明確にされているのです。むしろ、この十字架とは、一体どのようなことなのか、何を意味するのかが語られているのです。

 

主イエスの十字架は、神が独り子を人々に渡す出来事です。主イエスを人々の手に渡す主体は、父なる神です。愛する独り子を罪人たちの手に渡し、十字架の死に渡されることによって、人々の罪を贖い、人々を救おうとされる計画なのです。

人間の手による業であるように見えますが、十字架の死は、全ての人々の手によって引き起こされたものであると同時に、神様の救いのご計画によるものだというのです。主イエスの十字架の背後には、父なる神の救いの御意志があるのです。

しかし、この二度目の受難予告を聞いても、弟子たちは、その意味を理解することが出来ませんでした。32節には、「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」とあります。ただ意味が分からないだけでなく、そのことについて怖くて尋ねられなかったのです。

 

3.引き渡される

 

続く31節の主イエスの二回目の受難予告で「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言われたことが書かれています。

ここでは未完了形の動詞で表現されていて、今もその状態であることを示しています。マルコによる福音書ではこのような受難予告が三度なされたことが書かれていますが、一回(8:31)、二回(9:31)、三回(10:33)、そういう形で三度だけ主イエスが予告されたというのではなく、未完了形で書かれていて完了していないのですから、何度も繰り返し言われたのだと思います。

主イエスは、私はこれからエルサレムを目指していく、そこで十字架に架けられて死に、またよみがえるために、エルサレムへ行くのだ、と弟子たちに教え続けたのです。

 

ここで、「人々の手」という言葉が使われています。「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と書かれています。8章31節の一回目の受難予告では「長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され」と書かれていました。しかし二回目の今回は、「人々の手に」引き渡されると書かれているのです。

主イエスを十字架に付けた責任を誰に押し付けるのか。教会の二千年の歴史の中で、しばしばその責任がユダヤ人に押し付けられてきました。ユダヤ人への迫害ともつながっています。しかしそれは誤った態度で、すべての人にその責任があるのです。現代に生きる私たちも、自分に「引き渡されて」自分の手の中に置かれている神の子と、きちんと向き合おうとしない、裏切って捨ててしまうというのです。

十字架の死は、すべての人々の手によって引き起こされたものであると同時に、神様の救いのご計画によるものだというのです。

愛する独り子を罪人たちの手に渡し、十字架の死に渡されることによって、わたしたちすべての人々の罪を贖い、救おうとされている主イエスの十字架の出来事の背後には、このような父なる神の救いの御意志があることを示されているのです。

 

また、二回目の受難予告の言葉の中に、「引き渡される」という表現があります。ギリシャ語でπαραδίδωμι(パラディドーミィ)という、主イエスの十字架へ直結する重要な言葉で、同じ言葉が別の箇所では、主イエスが「捕らえられる」、ユダが「裏切る」というように訳されているものです。

主イエスは神の子なのに、私たち人間の手の中に引き渡されるということです。

各地の戦争で捕虜交換などを行っていますが、神様の独り子が人間の手の中にあるということは、人間の自由にしてよいということです。ところが、人間は、敬ったり丁重に扱ったりせず、自分たちの手の中に渡された神の独り子を見捨てたのです。

私たち人間は神に造られ、神と向き合い、神に呼びかけられ、神に応答し、神との交わりの中に生きるように造られました。ところが聖書に書かれている人間は、神に向き合わず、背いて罪を犯してきました。創世記11章の「バベルの塔」を建てて、神と肩を並べようとして神のようになろう、もはや神は要らないのだからという物語は、まさに私たち人間のなしてきたことなのです。

 

4.新しい契約

 

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所はエレミヤ書です。

エレミヤ書に書かれている新しい契約は、罪の赦しが前提とされている契約です。旧約聖書の時代は、罪の赦しのために動物の犠牲が必要でした。動物、すなわち自分の財産としての家畜をささげ、自分が罪を犯したならば、自分の財産をささげる。いわば自己責任としての罪の赦しを得ていたのです。

 

31、32節には、まったく別次元の赦しがあります。

「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。」と書かれています。

ここで言う、「エジプトの地から導き出したときに結んだ」契約とは、旧い契約のことです。古い契約がもはやうまくいきませんでした。人間がきちんと守ることができなかったからです。

 そこでエレミヤ31章33、34節で、新しい契約が結ばれます。

「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」と書かれているとおりなのです。

「罪に心を留めることはない」と断言されています。もう罪の赦しが実現している契約です。

 

ここに書かれている新しい契約を結ぶために、主イエスは十字架の死へと「引き渡された」のです。

罪の問題は、本来自己責任でした。ところが人間の自己責任では、いつまでも罪の問題が解決されることはありませんでした。罪を犯した、自己犠牲で赦してもらう。いったん赦されてよかったのかもしれませんが、また罪を犯してしまう。そうなったら、また自己責任で罪の赦しを得る。いつまで経っても、その負の連鎖が続いたのです。

しかし神の子が犠牲を払ってくださる。それが新しい契約です。人間の罪の赦しのための一切の犠牲を払ってくださった。それが主イエス・キリストの十字架です。すべてを主イエスが担ってくださった。そのようにして新しい契約が結ばれました。主イエスが罪の赦しを成し遂げてくださる。私たちはその主イエスを救い主として信じる。それが新しい契約です。

 

マルコによる福音書に戻りますが、今日の聖書箇所の最後9章32節にこうあります。「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。」と書かれています。弟子たちは恐れを抱いていました。何に対する恐れでしょうか。聖書にはっきりと書かれていませんので、推測する以外にありませんが、自分たちの師匠の死を恐れたのかもしれませんし、自分たちにも火の粉が降りかかることを恐れたのかもしれませんし、先行きに不安を覚えたのかもしれません。しかしはっきりと主イエスに質問することもできませんでした。弟子たちが無理解のまま進んでいきます。それでも主イエスが十字架への道行きを進んでいかれます。弟子たちは、主イエスの悲劇の雰囲気に気づいていたけれど分かりたくなかった、怖かったという状態だったのでしょう。

人間の心には、見たくないものを拒否する特性があります。例えば、医者に余りよくない診断を下されたがその詳細を知らされなかったと感じたときに、医者に質問をするのが怖くなることがあります。人は、それ以上見たくないと思うことについて、それ以上知ることを恐れるものです。この時弟子たちは、そんな状態だったのでしょう。

 
 
 

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