手を取って起こされる(マルコ1:29-39)20240602
- 金森一雄
- 2024年6月2日
- 読了時間: 9分
更新日:2024年9月27日
本稿は、日本基督教団杵築教会における2024年6月2日聖霊降臨節第3主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄
(聖書)
詩編90編13節~17節
マルコによる福音書 1章 29節~39節
(説教)
本日、私たちに与えられた聖書箇所には、シモンの家に主イエスが行かれた時のことが記されています。シモンが、主イエスの弟子に召されて間もない頃の出来事です。
シモンとアンデレそしてゼベダイの子ヤコブとヨハネの四人の漁師たちが、主イエスの弟子となって従ったという話は、マルコによる福音書では1章16~20節に記されていました。
主イエスは、彼らがガリラヤ湖で漁をしているのを「御覧になり」、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(1:17)と声をかけられて彼らを弟子にされました。
シモンはすぐに網を捨てて、すなわち漁師という職業を捨てて、主イエスの弟子になりました。彼らは皆、家族も残して主イエスに従いました。
それから、安息日にカファルナウムの会堂で起きた出来事を、マルコ独特の「すぐに」という言葉を用いて記しています。どれくらいの時間が経ったのか、はっきりとは分かりません。おそらくさほど長い時間経っては、いなかったと思われます。
29節には、冒頭に「すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った」、30節には、「シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていた」、「人々は早速、彼女のことをイエスに話した」とあります。同じ安息日の礼拝後すぐに、イエスの一行が、会堂を出てシモンの家に行きました。当時のユダ人社会では、安息日の礼拝が終わると、礼拝の説教者を家に招いて食事をする習慣があったことが分かります。そこは、シモンとアンデレの家です。シモンのしゅうとめ、つまりシモンの妻の母親が、一緒に暮らしていたのでしょう。この記事から、シモンが主イエスの弟子となった時には、結婚していたことが分かります。
このあたりは、かなり細かな描写がなされていますので、マルコによる福音書は、シモン・ペトロの証言のもとに書かれた、と考えられる根拠の一つとなっています。見ていきます。
31節で、「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした」のです。主イエスが、しゅうとめの病気を癒して下さいました。この出来事は、マルコによる福音書だけでなく、マタイとルカによる福音書にも記されています。時間的な順序が異なるなど、その出来事の伝え方が異なるところもありますが、ペトロのしゅうとめが主イエスに癒されたこと、そして、しゅうとめが起き上がって「もてなした」というは、三福音書に共通して書かれています。
31節の、この「もてなす」という言葉は、仕える、奉仕する、という意味です。単なる食事などの世話をしたというよりも、もっと深い意味が込められています。そのしゅうとめが、あたかも主イエスの弟子であるかのように、主イエスにお仕えしたということです。
2013年にIOC委員に訴えた東京オリンピックの招致メッセージで、滝川クリステルが両手を合わせて「お・も・て・な・し」と語りかけて、日本人の心をアピールしたことが記憶に新しい出来事ですが、このしゅうとめのもてなしとは、敬虔さが伴う意味を持つ言葉です。
私たちが仕えることに際して、私たちの「手」がとりわけ大事です。ですから、主イエスが、安息日に働かれたことと、そして、しゅうとめの「手を取って起こされる」(31節)ことを重ねてマルコが強調しているのです。
先ほど聖書朗読していただいた詩編90編17節には、「わたしたちの神、主の喜びが、わたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きを、わたしたちのために確かなものとし、わたしたちの手の働きを、どうか確かなものにしてください。」とあります。
この祈りを祈ったモーセは、80歳(出7:7)で召命を受けました。健やかで80年の歳月を数えてきた人生の晩年の祈りが、この「わたしたちの手の働きを」確かなものにしてくださいという祈りなのです。
32節に、「夕方になって日が沈むと」とあります。ユダヤの暦においては、一日は日没から始まります。つまり「夕方になって日が沈むと」というのは、ここの文脈からは、安息日が終ったことを意味しています。すると、「人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た」と記されています。すなわち、安息日の間は病人を連れて来るような仕事をすることはできなかったので、日が沈んで安息日が終ると同時に人々は働き始めます。33節には「町中の人が、戸口に集まった」とあります。シモンの家にいたイエスのところには、病人や悪霊に取りつかれた人たちで溢れ返りました。勿論、主イエスはその人々を追い返したりはしません。「いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」のです。
34節の「悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである」という所について考えてみましょう。これは24節で、悪霊が主イエスに「正体は分かっている。神の聖者だ」と言い、主イエスが「黙れ」とその悪霊を叱って追い出したことと繋がります。悪霊は、主イエスが誰であるか、その正体を知っているのです。「神の聖者」だと言っています。神様から遣わされた聖なる方、神様の独り子、罪や悪霊の支配から人間を解放する救い主、といった意味が込められています。しかし主イエスは悪霊がものを言うことをお許しにならないのです。それが、悪霊に勝利する主イエスのお姿です。
マルコはここで、悪霊の追放も、病気の癒しも、この主イエスの権威と力、また主イエスによって与えられる救いの恵みを指し示すしるしとして書いています。神様のご支配の確立による救いを宣言し、その喜ばしい知らせ、福音へと人々を招く権威ある救い主としての主イエスのお姿を描き示しているのです。
35節には「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」とあります。安息日明けの癒しの業は夜遅くまで続いたのでしょう。翌朝早くまだ暗いうちに主イエスは、起きて、カファルナウムの町を出て行かれます。人里離れた所へ行って、一人で父なる神様の前に出て祈るためです。
36節以下には、シモンとその仲間、つまり弟子たちが、まだ暗いうちに町を出て行かれた主イエスの後を追ってきたことが記されています。そして、37節では、主イエスを見つけた彼らは、主イエスに、「みんなが捜しています」と言っています。主イエスを捜していた「みんな」とは、カファルナウムの町の人々のことでしょう。病気の人や悪霊に取りつかれていた人だけではありません。
それは、ルカによる福音書でこの場面を読むことによってはっきり分かります。
ルカによる福音書4章42節の後半には、「群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた」と記されています。群衆が、「自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた」という表現は、主イエスを捜しているカファルナウムの人々の思いが込められた言葉だと思います。
マルコは、主イエスを捜し回ったのは、「シモンとその仲間」だと記しています。弟子たちが、暗い内にいなくなってしまった主イエスの後を追ったことを強調しているのです。
そして、38節の「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」という主イエスの言葉は、弟子たちに対して語られます。
弟子たちに対する言葉となっていることで、別の意味がつけ加えられます。「近くのほかの町や村へ行こう」という呼びかけの表現が用いられて、主イエスが、神の国の福音を告げ知らせるという、父なる神様から与えられている宣教の使命を受け止めて、弟子たちを伴なって共にその使命を果たそうとしておられることが浮かび上がってきます。
そして、35節の主イエスの祈りは、ご自身の宣教と癒しの業のための祈りであるだけでなく、弟子たちのための執成しの祈りでもあったというが分かるのです。
主イエスはこれから弟子たちを、宣教の旅に同行させます。そして、主イエスが神の国の福音を告げ知らせ、それを妨げる悪霊を追い出し、病を癒す、そのみ業(わざ)を弟子たちに見せて体験させることによって、彼らが将来主イエスによって遣わされて、全世界に出て行って福音を宣べ伝えるための備えをさせているのです。
このようにマルコは、主イエスの弟子たちが、近くのほかの町や村へ行って福音を宣べ伝える主イエスに同行し、宣教の働きを共に担う者とされていったことに注目しているのです。
ですから39節の「そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」というのは、勿論主イエスご自身のお働きですが、その傍らにはいつも弟子たちが共にいます。まだ主イエスの働きを共に担うことは出来ませんが、将来主イエスによって派遣され、神の国の福音を宣べ伝えていくための備えが既にここから始まっているのです。
このようにして、神の国の福音を宣べ伝える主イエスの宣教の活動と、その福音がしっかりと人々に聞かれ、それによって生かされていくための癒しのみ業(わざ)の中に、マルコは弟子たちの姿を位置づけています。そのように語ることによって、マルコは私たちに、あなたがたも自分自身の姿をそこに見いだしていくことができる、と伝えているのです。
ガリラヤ中の会堂で宣教し、悪霊を追い出された主イエスは、今も生きて働いています。この杵築においても、大分地区中の、九州教区だけでなく日本中の、そして世界中の町や村で、主イエスは福音を宣教しようとしておられるのです。
主イエス・キリストは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と権威をもって宣言することのできる方です。そして、その福音を信じて生きることを妨げている力を打ち破り、私たちをそこから解放して、主に仕える者として下さるのです。
そして、神の子としての権威と力とを持っておられる主イエスが、私たちを「わたしについて来なさい」と招いて下さって、主イエスに従う弟子、信じる者として下さいます。
私たちは、何かが出来るわけではありません。特別に力やお金があるわけでも、十分な時間があるわけでもありません。しかし主イエスは私たちの力や持ち物や余った時間に期待しておられるのではありません。私たちのために祈ってくださり、主イエスのみ業に、私たち信仰者を伴おうとしておられるのです。
主イエスについて行くことがわたしたちの信仰です。わたしたちはともすれば、自分たちのもとに、自分たちの町に、主イエスをずっと留めておこうとする誘惑に駆られます。
それぞれの教会を守る会などの働きも大切なものです。しかし主イエスは、なお先に出て行ってほかの町や村で福音を宣べ伝えようとしておられる方です。
その主イエスについて行って、主イエスがして下さる宣教のみ業を主イエスの傍らで見させていただく者でありたいと願います。わたしたちは、弱く、貧しく、罪に満ちた者ですが、主イエスについて行くなら、すばらしいみ業を目の当たりにすることができるのです。

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