キリストの名(マルコ9:38-40) 20250330
更新日:3 日前
本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年3月30日受難節第4主日礼拝での説教要旨です。 杵築教会 伝道師 金森一雄
(聖書)
イザヤ書53章4-10節(旧約1149頁)
マルコによる福音書9章38-40節(新約80頁)
1.キリストの名を使う
本日、わたしたちに与えられたマルコによる福音書9章38節からの聖書箇所では、「キリストの名」の大切さについて書かれています。
38節で、「ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」」と書かれています。
主イエスと弟子たちは、人々の病のいやしや悪霊追放を福音宣教において行っていたのに、ここでヨハネが、イエスの名前を使って悪霊を追い出している人を見て、どうして「やめさせようとした」のだと思われますか?
先ほど、わたしたちは使徒信条によって信仰告白をしました。その中で、主イエスは十字架につけられ死んで葬られて、三日目に復活されて、今も、全能の父なる神の右の座において、「とりなし」の働きをしてくださったと告白しています。「とりなす」とは、「間に立つ」「交渉する」という意味です。わたしたちは、イエスの名によって祈ることによって、神の右の座で主イエスが神にとりなしてくださると信じています。
とりなしについて、ヘブライ人への手紙7章24~25節(新約409頁)に「しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」と書かれています。
ここに書かれているように、主イエス・キリストは、神様とわたしたち罪人との和解が行われるためにこの世に来られ、人々の間に神の平和をもたらす働きをされています。
今も、天においてだけでなく地上においても、キリストはいつも生きていて、とりなしをしておられるのです。
次に、わたしたちが「イエス・キリストの御名によって祈ります。」と言っている「名」とは何かと言うことについて考えてみましょう。その意味するところは、名とは、その人の存在を表すものです。ですから、「名によって」と言うことは、「イエス様によって」「イエス・キリストを通して」と祈っていることになるのです。
その後に「アーメン。」と祈りますが、どのキリスト教会でもお祈りの最後に用いている言葉で、「まことにそのとおりです。」という意味です。
ヨハネの福音書16章23、24節(新約201頁)で、主イエスが、「その日には、あなたがたにはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」と語っています。イエスの名によって願うならば、与えられて、喜びで満たされると、主イエスは仰っていま。
キリストは、わたしたちの罪をすべて負って、十字架でご自分のいのちを投げ出して、わたしたちの罪の代価、身代金を支払ってくださいました。ですから、わたしたちは、わたしたちの罪が、主イエスによって赦されることを信じることができるのです。
そしてわたしたちは、聖なる神の前に立って祈ることができるのです。
ですから、主イエスの名で祈ることは、単なる決まり文句だというのではありません。
わたしたちの祈りの土台と言うべきものなのです。
教会が地上で祈ると、主イエス・キリストは仲介役となってくださり、天において神と交渉してくださるのです。それが、キリストが天においてとりなしをしてくださっているという意味なのです。
2.悪霊追放をやめさせようとしたヨハネ
マルコ9章38節の後半に、わたしたちに従わないので、(悪霊を追い出しているのを)やめさせようとした、とヨハネが主イエスに言ったということですが、ヨハネは、どうして悪例を追い出すことをやめさせようとしたのか、ご一緒に考えてみましょう。
主イエスと弟子たちは、マルコによる福音書9章14節で、山の上と下に弟子たちが分けられて、山の下に残った9人の弟子たちが、悪霊にとりつかれた人を癒そうとしたけれどもできなかった苦い経験をしたばかりでした。そのような状況の中で、主イエスの名前を使って、悪霊を追い出している者に出会ったのです。弟子たちはその人に伝道したのでしょう。けれども、弟子たちの言うことに耳を傾けず、従わなかったと言うのです。
福音の宣教と悪霊の追放は、主イエスと弟子たちが行なって来たことですが、ここでヨハネは、イエスの名前によって悪霊から解放されてよかったと考えている様子は見られません。
自分たち以外の者が、主イエスの名前を使っていることで素直な気持ちになれなかったのです。主イエスの弟子になってもいない人が、イエスの名前を使って悪霊を追い出しているというのはどういうことだ、と心穏やかではなかったのでしょう。
悪霊に苦しめられていた人が、自分たちに従わない人によって救われた事実を素直に受け取ることができなかったのです。ヨハネは、キリストの名を用いることは、自分たちだけに与えられた権能だと思っていたのです。
ヨハネがやめさせようとしたと言うことは、自分たちこそが主イエスの正当な弟子であるという、上から目線の思い上がったところがありました。キリストの弟子としての誇りは大切なものですが、裏を返せば自分自身が誇らしかったのだと言うことになりかねません。弟子たちの心に、排他精神があって、その人に対する妬みの気持ちが生じたのです。
わたしたちクリスチャンは、この物語のヨハネのように妬みの心で、昨今のオウム真理教や統一教会の宗教法人の解散命令をとらえているかも知れないと、立ち止まって考える必要がありそうです。
宗教法人の解散命令を出すにあたっては、信者たち、悪霊から解放された人たちの居場所をどのように提供できるかとフォローすることが求められます。また、非課税措置廃止を狙った政治的思惑によって、宗教法人の安易な解散命令が行われることに飛び火しないか、などの注意が必要です。
わたしは統一教会から脱出してクリスチャンになられた方を知っています。その方に信仰の証をしていただくことには、慎重な対応が求められました。
その方に対する世間からの偏見の目や妬みの心から、どのようにその身や心の安全と平安が守られるかが大切な問題です。
わたしたちは、知らず知らずのうちに抱いてしまうヨハネのような妬みの心を他山の石として学ぶ必要があります。
他の人によって主イエスの名前が使われて悪霊が追い出されるのを見たヨハネが、それを腹立たしく思い、妬ましく感じたと同じようなことが、教会の中でも起こりうるのですよくあるのです。自分たちに従わない者に妬みの心を抱いて、その人を排除する精神で臨んでしまうのです。正しい動機で人がしたことを人が正すことは、本当に難しいことです。
まさにこの種のことは、主イエスの名による祈りによらなければならないのです。
3.キリストの名によって
続いて39節で主イエスは、「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。」と答えられました。
主イエスはむしろ、ご自分の名が使われることを、喜んでおられるのです。
主イエスは寛容の精神を示されます。
神様の恵みはわたしたちの現実よりも大きく、キリストの福音は、世界全体よりも、教会よりも大きいからです。
キリストの名が伝えられますように、キリストの名が崇められますように、というのが教師としてのわたしの祈りです。自分が教会の教師としての務めを担っていけるのも、説教を語り、祝福を告げることができるのも、洗礼を授けることができるのも、すべてはキリストの名においてできることです。ところが、教師が行うすべてのことについて、キリストの名よりも人間の名が大きくなってしまう誘惑があります。このように教師はその立場上、とてもその誘惑が大きいのですが、それは何も教師だけの話ではありません。
わたしたちクリスチャン誰にも、キリストの名よりも自分の名や人間の名を大きく考えてしまうことがあるのです。反対に、自分のメンツが損なわれたと言って、教会を離れてしまうこともあります。人間の心とはやっかいなものなのです。
4.「キリストの名」が共通点
40節に、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」と、主イエスがヨハネに言われた言葉が続きます。「味方」とは「そばに(同じ側に)立つ」という意味です。ここで、主イエスは、「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である」という大原則を示されました。
主イエスはここで、ヨハネに対して、キリストの名を使っていることで、自分たちの気に食わない用い方に思えるかもしれない、気に食わない相手かもしれないが、本当に敵なのか、「キリストの名」という共通点があるではないか、それなら「味方」、同じ側に立つ者ではないか、と言われたのです。
ローマの信徒への手紙8章31節(新約285頁)で、パウロが、「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」と語っています。神さまが「味方」でいてくださるならば、わたしたちにはもはや敵がいないも同然になるというのです。
今日読んでいる聖書箇所から、弟子たちには、すべての人に仕えるように外の人に対しても開かれた姿勢、寛容の精神が求められるのだと告げることは難しくないと思います。しかしそれでは、言うは易し、行うは難しで、心が通い合いません。開かれた姿勢、寛容の精神が、どれほど難しいことなのか。そのこともわたしたちはよく知っているからです。
日々報じられる戦争、排他的な現実の社会が、その問題をわたしたちに突き付けてきます。それだからこそわたしたちは、40節の「逆らわない者は味方なのである」と言われたイエス・キリストに信頼したいと思います。
宗教法人法の解散命令と言った日本における今日的問題にまで及んで、聖書から離れたすぎていまいましたので、大切なポイントを整理させていただきます。
大切なことは、今日の説教題の「イエスの名」であるかどうかです。
妬みの心や罪の問題や異端論争などは、ずっと続いている人間社会の問題です。
その答えは、わたしたちの救い主はどなたですか?というこの単純な問いにどう答えるかだけでよいということです。
わたしたちは「キリストの名」が与えられた者として、教会において結ばれています。
人間的に親しくなったからとか尊敬できるからで、結ばれたのではありません。「キリストの名」という共通点があるからです。この共通点があるからこそ、すべてのことを乗り越えることが出来るのです。
この共通点から、愛が生まれます。赦しが生まれます。和解が生まれます。
それほど大きな力のある恵みなのです。
この恵の光の中を共に歩んで参りましょう。

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