本稿は、日本基督教団杵築教会における2024年7月28日聖霊降臨節第11主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄
(聖書箇所)
詩編145編1~21節(旧985頁)
マルコによる福音書3章6~10節(新65頁)
1.ファリサイ派やヘロデ派の人々と民衆との対照的な姿
マルコ3章6節には、ある安息日に主イエスがユダヤ人の会堂で片手の萎えた人を癒されると、ファリサイ派の人々は出て行って、ヘロデ派の人々と一緒にどのようにしてイエスを殺そうかという相談を始めたと記されています。
ファリサイ派とは、律法を守るように人々に教えることによってユダヤ人を神の民として、一般の人から分離した者であることを主張していた人たちです。
へロデ派というのは、当時のガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの取り巻きのグループで、この地の政治を牛耳っていた人々です。
本来この両派は水と油のような関係なのです。しかし、この時、宗教的指導者と政治的指導者の思惑が、主イエスを殺そうという陰謀を諮るという一点で一致したというのです。
7節には、「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた」とあります。「立ち去られた」ἀναχωρέωという言葉は、口語訳聖書では「退かれた」となっていました。その方が原文のニュアンスを正しく伝えています。つまり、イエスは弟子たちと共にただ立ち去ったと言うよりも、退却したということです。その伏線として6節に、ファリサイ派やヘロデ派の人々の敵意、殺意が高まっていく動きが記されているのです。
カファルナウムのユダヤ人の会堂は、ファリサイ派のホームグラウンドですから、主イエスと弟子たちは、危険を感じてガリラヤ湖岸の方へ退却したというのです。すると、7節後半に「ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った」というのです。
そして8節には、「イエスのしておられることを残らず聞いて」ガリラヤの人々だけでなく、「ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを聞いて、そばに集まって来た。」と記されています。主イエスの評判がまたたく間に、広い地域に伝わっていったことが伺えます。
7節から多くの地名が並んで出てきますので、地図を用いて調べてみましょう。
聖書の後ろの「聖書地図」「第6図 新約時代のパレスチナ」をご覧ください。
先ずは、主イエスが育った「ガリラヤ」です。ガリラヤ湖の西側の地域です。ガリラヤ湖の北岸にはカファルナウムがあります。交通の要衝であり、イエスの伝道活動のベースキャンプで、Jesus Townと呼ばれる町です。ファリサイ派のホームグランドであるユダヤ人教会があり、レビの収税所も、シモン・ペテロの姑の家もこの町にありました。
7節の終わりの「ユダヤ」ですが、「ガリラヤ」の南に「サマリア」と記されている地域のすぐ下の南隣で死海の西側の地です。「ユダヤ」の中心が、8節の「エルサレム」です。
「イドマヤ」は、イスラエルの最南端の地です。旧約聖書に出てくるエドム人とユダヤ人との混血民族で、領主ヘロデやその父であるヘロデ大王はこのイドマヤ出身です。
イドマヤの次に記されている「ヨルダン川の向こう側」とは、ガリラヤ湖から死海に向かって北から南に流れている、ヨルダン川の東側を指します。この地図では太字でペレア、デカポリスと記されている地域のことです。そして「ティルスやシドンの辺り」とは、この地図の一番上、北西の地中海沿岸地域でフェニキアと呼ばれる異邦人の地です。
マルコは、ガリラヤの人たちと他の地域の人たちを区別せず、直線距離で北に100kmから南に150kmに及ぶ広範囲な地から人々が集まって来たことを表現しているのです。ここに異邦人の地名まで記されているのは、これらの広い地域に移り住んでいたユダヤ人たちが集まったということであり、ユダヤ人でない異邦人が集まったということではないようです。「イエスのしておられることを残らず聞いて」広い地域からおびただしいユダヤ人たちが集まって来たというのです。
8節後半の「おびただしい群衆」というのは、馬から落馬のような同じような意味の言葉が重なった表現を用いて強調しています。そして10節には、群衆が集まってきた理由が記されています。「イエスが多くの病人をいやされたので」「病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せた」とあります。「病気に悩む人たちが皆」という、「皆」πολλοὺςという言葉もマルコが多いことを強調する言葉として好んで用いる言葉です。肉体の病に苦しんでいる人に限定して考える必要はないでしょう。救いを求めて主イエスのもとに大群衆が押し寄せたのです。
マルコの1章22節ですでに語られていたように、主イエスは、「権威ある者」として語りました。主イエスが最初に語った、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)という言葉はまさに権威ある者としての言葉です。
ご自分が主としての権威を持っている方として語り、人々に御言葉に聞き従うことを求められました。主イエスの権威の下では、人間は自分が主人であろうとすることをやめ、主イエスの御言葉に聞き従うことが求められます。まさにファリサイ派やヘロデ派の人々が主イエスを殺そうと相談するに至ったのは、主イエスが、自分たちの立場や地位を脅かしている、自分の指導的な地位を奪うのではないか、と感じたからです。
人間は、自分が主人であり続けたいと思うと、何としても主人であり続けることに固執します。一方、自分の力でどうすることもできない苦しみや悲しみの中にいる民衆は、権威ある者として語られる主イエスの言葉と癒しの業に、救いを感じ取り、そこへと引き寄せられました。ファリサイ派やヘロデ派の人々と民衆との、主イエスに対する対照的な姿勢です。
2.御言葉を語る主イエス
9節には、群衆が押し寄せて来た時の主イエスの対応が記されています。
「そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである」とあります。日本でもイベント会場で圧迫死の事故が起こった報道をご存じだと思います。そのような事態に陥ることは、避けなければなりません。主イエスは、押し迫る群衆を見て、弟子たちに小舟を用意させて小舟に乗り込んだのです。
危険を感じてガリラヤ湖の岸を離れたということです。主イエスに触れれば、たちどころに病気が癒されましたから、片っ端からどんどん癒しを行うこともできたはずです。あるいは、岸辺に留まったまま、自分が押しつぶされることがないように群衆を制御することだってできたでしょう。しかしそのようには対応せず、小舟に乗って群衆との間に物理的な距離を置かれました。どうしてでしょうか。その意味を考えてみたいと思います。
マルコによる福音書4章の1節(66頁)以下の記事から、その答えを見出すことができます。
「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた」とあります。ここには、主イエスが舟の上から人々に教えを語ったとは書かれていませんが、前後の記述から、舟の上から人々にたとえを用いて教えるために主イエスは舟に乗り込まれたことが分かります。
主イエスは、苦しみ悲しみを背負って押し寄せてきた人々を片っ端から病を癒し、苦しみ悲しみを取り除くのではなくて、彼らに御言葉を語ることを優先したのです。群衆を前にして舟に乗り込むというのは、確かに「群衆に押しつぶされないためである」(マルコ3:9)と記されているとおりなのですが、群衆に押しつぶされないようにして舟の上から岸辺の群衆に御言葉を語ることに、主イエスは重点を置かれていたのです。
3.群集心理
何が何でも主イエスに触れて癒していただこう、と思って押し寄せて来た人々にとっては、それは期待外れのことだったでしょう。主イエスの教えを聞いても、それで病気が治るわけではありません。苦しみや悲しみが解消されるわけではありません。多くの人は、イエスの教えを聞くためにわざわざ遠くから来たのではない、とがっかりしたと思います。
そういう思いは、苦しみや悲しみをかかえて主イエスのもとに集まって来る私たちの中にも生じます。救いを求めて教会に来て礼拝に出席しても、与えられるのは聖書の説き明かしの言葉だけで、目に見える形での苦しみや悲しみからの解放や救いは得られないと感じて、こんなことのために来たのではない、期待外れだ、という失望の思いに陥るのです。
十字架の場面にも「群衆」がいました。当時、過越の祭の度ごとに、人々の願いを聞いて、囚人の一人を釈放する習わしがありました。ユダヤ属州総督のポンテオ・ピラトが、民衆に対して、その解放される者について問われましたが、群衆は、大犯罪人バラバの釈放を求めました。そして、「イエスを十字架につけろ」(マルコ15:13)と叫びました。
ですから、主イエスを十字架につけて殺したのは、他ならぬ、主イエスの救いを求めて押し寄せて来たはずのこの群衆だということだということになるのです。主イエスを十字架につけてしまった「群衆」の存在を、聖書にはっきりと示されているのです。
現在の私たちは、群衆の一人としての性質が自分たちにもあることを認めています。そして、教会ではそのような「群衆」の信仰集団を作ることのないようにしています。それは大切なことです。
主イエスは、そのような私たちをそのまま受け入れて愛してくださり、あくまでも御言葉を語りかけることによって私たちに関わりを持とうとしておられるのです。その結果、群衆に捨てられて十字架につけられていくことになるとしても、その歩みを変えようとはしなかったのです。主イエスは、御言葉を語られて、私たち一人一人と、本当に出会い、本当の意味で触れ合い、友としての関係を持とうとしておられるからです。
主イエスに触れたら病気が治るというのは、その時だけの、全く表面的な触れ合いでしかありません。本当の出会いと交わりはそこにはないのです。群衆にとっては、自分の苦しみや悲しみの解消のために主イエスの力を利用する、だけのことで、利用する相手は主イエスでなくても、誰でもよいのです。群衆とのそのような表面的な触れ合いによっては、主イエスが告げ知らせている主なる神様の恵みの支配、神の国の福音は伝わらないのです。
福音が伝わるためには、主イエスと私たち一人ひとりの間に、本当の出会いと交わりが起らなければならないのです。
主イエスは、ただ言葉だけを私たちに与えようとしておられるのではありません。あくまでも御言葉によって私たちに語りかけ、出会い、交わりを築こうとしておられます。主イエスは、その結果として起ってくる十字架の死を引き受けてくださり、ご自分の命をも私たちに与えてくださる方なのです。
主イエスの御言葉は、十字架の死に裏付けられた御言葉であり、主イエスの命と結びついた、命がけの御言葉です。御言葉をもって私たちと出会い、触れ合い、交わりを持って下さる主イエスは、ご自分の命をもって、全存在をかけて、私たちと関わり、触れ合い、救いを与えて下さるのです。
杵築教会の一つ一つの集会が、主イエスの権威の下に御言葉に養われながら、日々形成されていきますよう祈り求めて参りましょう。
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