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執筆者の写真金森一雄

安息日は誰のために(マルコ2:23-28)20240714

更新日:9月27日

本稿は、日本基督教団杵築教会における2024年7月14日の聖霊降臨節第9主日礼拝での説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄 


(聖書)

サムエル記上21章1~7節(旧463頁)

マルコによる福音書2章23~28節(新64頁)

 

1.規定遵守を第一とするファリサイ派

今日の聖書箇所マルコによる福音書2章23節では、「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。」という、ある安息日の出来事が記されています。主イエスの弟子たちが歩きながら麦の穂を摘み始めたのです。道ばたの畑の麦の穂を摘んだというのですから、他の人の物に手を出したことと咎められることです。

すると案の定、ファリサイ派の人々が、主イエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と咎めています。

これに対して、主イエスは、25節で、「ダビデが食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。」と言われます。そして26節では、「アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」と仰っています。

ダビデ王のなさったこのことが記されているのが、先ほどお読みいただいた旧約聖書のサムエル記上の21章1~7節です。サムエル記では、ダビデが尋ねた大祭司の名前が「アビアタル」ではなく「アヒメレク」となっていますが同一人物です。そこで出てくる供えのパンというのは、特別なパンです。レビ記24章9節には「このパンはアロンとその子ら(祭司)のもの」という規定がありましたので、祭司だけが食べられるもので、ダビデが食べてはならないものでした。主の託宣を求めながら、自分が生きるために規定に違反してまでも食べ物を求めたダビデ王の例を、主イエスは持ち出されたのです。

 

このほかに、このある安息日の出来事に関係すると思われる旧約聖書の言葉を捜しました。レビ記23章22節には、「畑から穀物を刈り取るときは、その畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい者や寄留者のために残しておきなさい。わたしはあなたたちの神、主である。」と書かれています。貧しい人や寄留者のために食べ物を残しておくことが定められた人道的な規定もあります。さらに、申命記23章25、26節には、「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。」と書かれています。食べるのに困ったならば、その場で手で取って、お腹を満たすことは許されている、という規定です。ただし、ぶどうならば籠を使ってはならず、麦ならば鎌を使ってはならないと、度が過ぎることを防止するような定めがあります。

 

ある安息日の麦の穂摘み始めた出来事の時も、弟子たちのお腹が空いていたのでしょう。

とすれば、旧約聖書の規定によれば、弟子たちが麦を手で取って食べようとすること自体、何ら悪いことではなかったのです。それでは、ファリサイ派の人々が咎めた根拠はどこにあったのでしょうか。

それは、出エジプト記35章2節の「六日の間は仕事をすることができるが、第七日はあなたたちにとって聖なる日であり、主の最も厳かな安息日である。その日に仕事をする者はすべて死刑に処せられる。」という安息日に関する規定をもとに、安息日に麦の穂を摘むという仕事をした主イエスの弟子たちを咎(とが)めたのです。安息日の規定に則るなら、麦の穂を手で摘むことは収穫作業という労働にあたります。ファリサイ派の人たちにとっては、安息日の規定を守ることが大事でした。その規定を守る一心で人を縛っていたのです。

主イエスは、安息日の規定は、そもそも人を縛り付けるためのものだったのか、律法の大事な本質を忘れてしまっているのではないか、と問うているのです。いったい何のために安息日があり、何のために私たちが安息日を守るのか、安息日をどう過ごす必要があるのか、ということです。これは単なる表面的なことでは終わりません。私たちの生き方、在り方が問われてくる根本的な問題になります。今日お読みしたマルコによる福音書2章23-28節は、私たちにその答えを教えてくれているのです。

 

2.安息日は、人々を助けるために

続けて27節で、主イエスは「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」と言われます。主イエスは、規定遵守を第一とするファリサイ派の人たちの考えとは真反対なことを仰いました。人が本当の安息を得ることができるように、というのが安息日の定められた目的である。人のために安息日がある。人を縛り付けるものではない。と言うのです。 ファリサイ派のように、周囲の人に対して、規定に従って、きちんと働いているか、きちんと休んでいるか、という物差しを振り回すことによって、善し悪しを判定するような生き方をするのではない。そんなことをしていたら、自分も周囲の人たちも疲れるだけである。と言うのです。主イエスは、主なる神が独り子主イエス・キリストの十字架によって、私たちを罪から解放してくださった。それによって、本当の安息を私たちのために用意してくださったことを覚えて感謝する。その安息が日曜日の礼拝で与えられる。と仰っているのです。

 

最近よく働き方改革という言葉を耳にします。日本の社会では、少子高齢化が進み、就労人口、働く人の人数がどんどんと減っています。働き手を増やすためにはどうしたらよいのか、働き手が減る中でも生産性を増やすためにはどうしたらよいのか、そのようなことが論じられ、預かり保育や育児休暇等の拡大、人事・労働制度の改革・改善に取り組んでいます。しかし人はいったい何のために働くのか、何のために生きるのか、という基本的な問題については、これらの改革がどんなになされたとしても国は教えてくれません。もっとも、国がそんなことまで介入して、何かを押し付けるようになったらもっと困ります。

当時の社会の中にあっては、ファリサイ派の人たちも改革的なところがありました。律法の規定にしたがって生活を変えようとしていました。信仰的に、真面目に、取り組んでいた人たちです。しかし表面的なこと、形式的なことばかりにこだわるようになっていました。

働くにあたってはこのように働きなさい、休みはこのように休みなさい、麦の穂を手で積むこと自体は構わないが、それは労働にあたるから安息日にしてはいけない、といったものでした。主イエスが言われるのは、もっと根本的なことです。何のために働くのか、何のために休むのか、そして何のために生きるのか、ということです。それは、主イエスが教えてくださるもので、聖書が示してくれることです。主イエスは、人は、何のために仕事をし、何のために休んでいるか、何のために生きているかという根本的な問題について私たちに問いかけて、真の生き方改革をしてくださる方なのです。

 

ところで私は、6月24-26日に2024年に全国に赴任した日本基督教団新任教師のオリエンテーションに出席させていただきました。スモールグループのディスカッションの中で、「余暇と安息」ということについて情報交換しました。

「余暇」は英語では「レジャー」で、「安息」は、英語では「レスト」です。

最低限の生命の維持に必要な食事・排泄・睡眠などのパーソナルケアの時間と家族の生活の維持に必要な仕事や家事の時間を除いた、余った時間が余暇です。

余暇の使い方として、趣味や消費活動などにあてられる場合は積極的レジャーとなり、静養・休息などにあてられる場合は消極的レジャーとなります。日本では前者の積極的レジャーを意味することが多いのですが、日本以外ではその両者を含んで余暇と言います。


聖書には余暇についての規定は見当たりませんが、安息については、旧約聖書に安息日の規定という明確な教えがあります。他の宗教とか他の文明のどこを探しても、驚くことに古(いにしえ)の時代には、一週間に一度、安息日にきちんと休むようにとか、自分や家族も、奴隷や家畜も必ず休ませるように、というということを定めた規定はありません。

昔は、自分は休んでも、奴隷は休みなしでこき使って働かせる、という風潮だったのです。

キリスト教会は、ユダヤ教の安息日の根本的な考え方を引き継ぎました。神が何をしてくださったのか、神のおかげで今の私たちがあるということを思い起こすための安息日です。

単に休むというのではありません。七日に一度、礼拝を行います。一か月に一度とか、三日に一度というのでもありません。聖書が教えてくれる安息というのは、人間の根本的な問いかけであって、私たちの在り方が問われるものです。それを問うていく中で、神が何のために私たちに安息を与えてくださるのかを問うていくことになります。 今朝も私たちはこの会堂に招かれて集うことが許されました。体に疲れを覚えておられる方もいるかもしれません。様々なことがあって、心にも疲れを覚えている方もおられます。


先週から猛暑が続いています。「不要不急の外出は控えた方がよい」というニュースまで流れる時代です。何のために私たちは日曜日に教会まで来て礼拝をしているのでしょうか。

それは、イエス・キリストが私たちを罪の中から救ってくださったからこそ、そのことを思い起こし、日々の手の働きを止めて、主の赦しと愛を知り、慰められ、感謝するためです。

主イエスはそのような安息こそが、安息日だと言われたのです。ですから私たちは、十字架に架けられて葬られた主イエスが日曜日に甦(よみが)えられたことを記念して、礼拝をし続けているのです。主イエスが、人間の罪を背負って十字架で死なれたのが金曜日。そして金、土、日と三日目に、主イエスは罪の力、死の力を打ち破って甦えられました。

そのことを覚えて、私たちは日曜日を大事にし続けているのです。


今日の聖書箇所の最後28節に、「だから、人の子は安息日の主でもある。」とあります。「人の子」とは、主イエスがご自身のことを指して使われる言葉です。

主イエスが安息日の主であるということは、主イエスが安息について、私たちがきちんと安息することができるように、主イエスがその責任を負ってくださるということです。主は、私たちの罪を贖うために十字架上でその御身体を捧げてくださいました。そしてさらに一歩進んで、主イエスの信仰に生かされて安息日に礼拝を捧げ続ける私たちに対して、主からいただく恵としての聖なる事物の最上の使用法は、他の人々を助けるために用いることだ、ということを主が示してくださっているのです。



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