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安心しなさい(マルコ6:45-56) 20241229

  • 執筆者の写真: 金森一雄
    金森一雄
  • 2024年12月29日
  • 読了時間: 8分

更新日:1月14日

本稿は、日本基督教団杵築教会における2024年12月29日降誕節第1主日礼拝の説教要旨

です。 杵築教会伝道師 金森一雄 

(聖書)

出エジプト記 33章18~22節(旧150頁)

マルコによる福音書  6章45~56節(新71頁)


1.弟子たちと主イエスの距離

 

先週は、主なる神が、旧約聖書のエゼキエル書34章15節で「わたしがわたしの群れを養い、憩わせる」と言われていたとおりに、五千人の給食という奇跡の出来事があったことについてお話ししました。

神がご自分の群れを養う、とバビロンに捕囚されたイスラエルの民に約束された通り、神の独り子である主イエスは、飼い主のいない羊のような有様を深く憐んでくださって、群衆を解散させることなく「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え」、皆に分配され(マルコ6:41)、すべての人が食べて満腹した(マルコ6:42)、というのです。神の方から恵みの愛が示された出来事です。

 

そして今日のマルコによる福音書6章の45節では、「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。」と書かれています。それから46節には、「群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。」と書かれています。

この時の状況について、ヨハネによる福音書6章15節には、主イエスの身近にいたヨハネらしいきめ細かな視点で、次のようなことが書かれています。

五千人の給食の出来事を見た人々は、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言って、自分の王とするためにイエスを強引に連行しようとしていた、というのです。

 

2.主イエスが山から降りて来られる

 

ところでガリラヤ湖は、古くから海と表現されるほど大きな淡水湖です。竪琴のような形をしていて、南北21km、東西13kmで、周囲53kmという、琵琶湖の1/4ほどの大きさです。

47節に、「夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。」と書かれています。弟子たちは舟で湖の真ん中、イエスは陸地と、弟子たちと主イエスが隔たりのある位置にいたことをマルコは強調しているのです。

  

12月25日のクリスマスを前にした4週間が、アドヴェントでした。クリスマスの出来事とは、神が私たち人間との絶対的な隔たりを乗り越えて神の方から私たちのところへ来てくださった出来事です。アドヴェントとは、日本語では「待降節」と言い、天から降りて來られる神を、私たちが「待つ」ことが強調されている言葉です。主イエスが天から来られるので、主イエスにとっては「来る」ことですが、私たちにとっては「待つ」こととなります。

この「来ることと待つこと」の二つが重なり合う日がクリスマスなのです。

 

私たち人間の側から神さまへは近づけません。

私たちは神さまがどのようなお方なのかということをよく理解できませんし、神がおられる山に登ろうとしても私たちは登れません。私たち人間は、山を登るどころか谷底まで転落してしまった、と言った方がよいかもしれません。神と人との間には、絶対的な断絶があるのです。 私たちは「待つ」ことしかできず、動けないのです。


湖の真ん中で逆風のために立ち往生してしまった弟子たちと同じです。

そんな待つことしかできなかった私たちのところに、神が来てくださった。陸におられた、しかも山の上におられた主イエスが、山を降りて来られ、大荒れの湖の上を歩いて来られたという出来事が起こるのです。


3. 主の栄光が通り過ぎる


48節に、「ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。」と書かれています。

 主イエスは、何故そばを通り過ぎようとされたのでしょうか。弟子たちが湖の上で立ち往生しているところを、主イエスが「そばを通り過ぎようとされた。」とは、いったいどういうことなのでしょうか。 


疑問が生じたら、旧約聖書に当たれというのが、聖書解釈の鉄則です。

本日与えられた旧約聖書は、出エジプト記33章18節以降です。

旧約聖書の150頁の下の段の小見出しに「主の栄光」と書かれている箇所です。

18節の冒頭で、モーセが主に、「どうか、あなたの栄光をお示しください」と言うと、主は20節で「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」と言われています。

そして、21~23節で「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。」と主が言われたと書かれています。


主がモーセを岩の裂け目に入れて、主の栄光が「通り過ぎる」まで、ご自身の御手でモーセを覆ってくださるというのです。

ということは、マルコによる福音書6章48節で、主が弟子たちのそばを「通り過ぎようとされた」というのも、弟子たちを捨て置いて過ぎ去って行こうとされた、ということではないようです。

 出エジプト記33章では、主はモーセの前を通り過ぎることによって、ご自身の栄光を現されましたが、マルコ6章48節では、人となられた主イエスの肉体を通して、神の栄光が現されるということなのです。

すなわち、ここでは、弟子たちが「逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て」ご自身の真の姿を、主イエスが彼らの前を通り過ぎるようとされることによって、主の栄光を明らかにされようとしたということに他なりません。


もう一つ別の観点からお話ししましょう。旧約聖書112頁の出エジプト記12章23節の「過越」の記事です。「鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。」と書かれています。出エジプトのこの「主の過越(ペサハ)」の出来事から、出エジプトの血で塗られた鴨居と柱をイエス・キリストの血でぬられた赤い十字架にたとえる、私たちの救いの預言であると解釈をする人もいます。

 

ここには、強風に荒れる湖の上であっても、主イエスが神の御手に支えながら静かに優しく歩いておられる姿があります。神の栄光が、荒れ狂う水の上を主イエスが歩くという静けさとしてここでは表現されているのです。そのために、コントロール不能になった舟と、イエスの静かな歩みが対照的に生き生きと描かれているのです。

私たちが向かい風に翻弄され、前進できなくなって困っているときに、主イエスは優しく私たちのそばに近づき、私たちを支えてくださる方だということが、「通り過ぎようとされた」(=「過越」)という言葉によって強調されているのです。

 

4.わたしはあなたとともにいる

 

49節です。「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ」と書かれています。

50節には、その理由を「皆はイエスを見ておびえたのである。」と説明されています。

しかし、イエスは、すぐに彼らと話し始めています。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われたと言うのです。

「安心しなさい。」と「恐れることはない。」と言う二つの言葉の真ん中に「わたしだ」という言葉が、簡単ですが重要な意味があります。


この「わたしだ」という新約聖書のギリシャ語の言葉は、旧約聖書の出エジプト記3章14節で、神がモーセに「わたしはあるという者だ」と、ご自身につい語られた言葉と同じニュアンスがあります。すなわち、主イエスが、ご自分は父なる神と一体の方であることを表現した言葉であり、また、「わたしはあなたとともにいる 」という神の愛が込められている言葉なのです。


 そして51節には、イエスが「舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは、心の中で非常に驚いた」と書かれています。主イエスと弟子たちが、文字通り一体となったときに弟子たちの不安は消え失せたのです。

ところが、52節には、「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。」と書かれています。「心が鈍くなっていた」というギリシャ語πωρόωは、「かたくなになっていた」とも訳せます。弟子たちは、五千人の給食という奇跡からイエスの力をもっと理解してもよかったはずである、という弟子たちに対するマルコの批判的な気持ちが込められているのです。

 

私は、説教の前に神の導きとして聖霊を求める短い祈りをしています。

これから御言葉を聴くにあたって、「私たちのかたくなな心を、柔らかな心にしてください」という祈りを込めています。

人間の心ほど厄介なものはありません。かたくなな心になってしまうと、何も受け入れようとしません。そんなことあるはずがない、どうせこうだろう、と決めつけて、何も受け付けない心になってしまいかねないのです。

 

それでも主イエスは、弟子たちのところに、動けずにうずくまっている私たちのところに来てくださいます。「安心しなさい。わたしだ(わたしはあなたとともにいる)。恐れることはない。」と仰ってくださるのです。

私たちのかたくなな心は、主イエスキリストの愛によって、やがて変えられていきます。

自分の人生の受けとめ方が変わってきます。何かに強いられたような人生から脱皮するのです。そして主イエスに導かれた人生へと変わっていくのです。

信仰によってそのように受けとめることができるように変えられていくのです。

 

あと三つ寝ると新年を迎えます。

2025年も心をかたくなにすることなく、主の愛に包まれながら、日々心新たに主イエスの御言葉に聞き従って歩ませていただきましょう。



 
 
 

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