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執筆者の写真金森一雄

呼ばれている(マルコ10:46-52)

更新日:6月27日

本稿は、東京神学大学夏期伝道実習における、2021年8月11日(水)日本基督教団指路教会の昼の礼拝での説教です。     神学生 金森一雄




(新約)マルコ10:46~52

(旧約)イザヤ42:6~7

聖書箇所

新約聖書マルコによる福音書10:46~52

46:一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。

47:ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。

48:多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。

49:イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」

50:盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。

51:イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。

52:そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

旧約聖書イザヤ書42:6~7

6:主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。

7:見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために。


讃美歌21 516:主の招く声が、463:わが行く道



1.はじめに

 緊急事態宣言が出されているこの時、この夏の暑さが加わって、心身とも何の問題も無いとおっしゃる方は少ないと思います。このような中にあっても、主が、この会堂に集った皆さんと共に、み言葉を聴くときを与えてくださったことに感謝しています。早速、今日与えられている聖書箇所に耳を傾けて参りましょう。

 ガリラヤで伝道を始められた(1:14)イエスさまは、十字架に向かう道を歩き始めています。この地上での、人間としての生涯最後の過越祭となることをご存知の上で、エルサレムに上る旅を続けています。この旅の中で、イエスさまは、弟子たちに、ご自分の死と復活の予告を何度か弟子たちに語っています。弟子たちは、その言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった(9:32)、と聖書に記されています。


 イエスさまが目的地としているエルサレムに入られる前の、最後の訪問地となった町がエリコです。エリコは海抜下△250mにある世界最古(BC8千年)の城壁で囲まれた町です。エルサレムはエリコの西、直線距離で22kmのところに在り、エルサレムは標高750mですから二つの町の高低差が千メートルもある厳しい荒野の広がる地勢となっています。


 当時は、行政地区の古代エリコの町と、2km離れた高台に広がる住居地区エリコの町がありました。マルコ10章46節で示されているエリコの町は、古代エリコの行政地区の町を指します。行政地区の古代エリコの町に入って、直ぐ町を出た道端でイエスさまと盲人バルテマイの出会があったと記されています。このときのマルコの語る古代エリコの行政地区の町エリコでは、過越祭直前の町の状況がどのようであったとか、どのようなことがあったのか、人々とイエスさまがどのような会話をされたのか、といった記事は一切ありません。


 一方、ルカ18章35節では、盲人バルティマイがいやされた出来事について、居住地区エリコに近づいた道端でと記されています。いずれにせよ、マルコとルカの二つの福音書で、行政地区と居住地区の二つのエリコの町の間の道端で起こった同じ盲人の癒しの出来事として、この盲人バルテマイの癒しの出来事を記しているのです。ルカは、続けて取税人のザアカイの回心の出来事を記していますが、マルコは、ザアカイの回心についてはふれておらず、盲人バルテマイの癒しの出来事だけを記しています。このようなことをふまえながら、マルコがバルテマイという盲人の個人名まで記している、本日与えられました聖書の言葉に耳を傾けてみたいと思います。


2.バルティマイの叫び

 イエスさまがエリコの町を出て行こうとされたとき、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた(46節)と、記されています。過越祭が近づいていましたから、エルサレム周辺の町はどこも人の流れが増えて、慌ただしさを増していたと思われます。こうした中で、イエスさまがいよいよエルサレムに上って行かれるらしいと、群衆がざわめき始めたのでしょう。ナザレのイエスがエルサレムに向かって出ていく、と聴いたバルティマイは、その足音を聞き分けたのでしょう、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び始めました(47節)。群衆の混乱を避けようとしたのでしょう、多くの人々が彼を叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐んでください」と叫び続けました(48節)。

 「ハンデを負う人にも人格はあり、ノーマルな生活を送る権利を持っている。社会はこの人々が普通に生活する条件を作る責任がある。」という、今日のような人に優しい考え方や社会福祉の制度は、当時はありませんでした。生まれつき目が見えない場合には、それは親の罪、自分の罪の結果であると考えるような哀しい時代です。物乞いは、道行く人に憐れみを乞いながら、自分の姿をさらけ出して、かすかすの生活をして何とか生き延びていくしか手立てがなかったのです。

 しかしこの時、バルティマイに、何かが働きかけてくれたようです。

「ダビデの子よ、わたしを憐んでください」と、叫び続けたのです。 

 多くの人々が、バルティマイを叱りつけて黙らせようとしました。とても哀しいことですが、わたしたちの周囲で、いや教会においてもありがちなことです。わたしの目には、イエスさまのエルサレムへの出発を何とか平穏に済ませたいと願う気持ちが先走りして、慌てているペトロをはじめとした弟子達の姿が見えます。私自身の姿まで見えるのです。


 障害を持っていて周囲からの支援とは無縁のところにいる人を助けようとする、イエスさまのご意志とバルティマイのイエスさまを求める信仰とがここで重なり合います。そして、一方では、何とか表面を取り繕うとする人々の姿が際立たされるのです。


 バルティマイはひるみません。そんなエルルギーが彼のどこに残っていたのでしょう。神さまの恵みが、バルティマイを覆ってくださったのです。彼はますます「ダビデの子よ、わたしを憐んでください」と叫び続けます。


 ここで、バルティマイが語った「ダビデの子よ」と言う言葉には驚かされました。ダビデの子と言う言葉は、ユダヤ人にとって重大な意味を持つものです。ダビデはエルサレムでイスラエルとユダの全土を33年間統治し、ダビデの町エルサレムとまで言われている王様です。そこまでなら分りますが、このダビデ王の子孫にイスラエルの救い主、メシアが現れて神さまの救いが実現すると預言されていることまで彼は知っていたのです。バルティマイが叫んだこの言葉は、単にイエスさまの奇跡の力を求めたものとして終わらせる話ではないことを象徴しています。イエスさまこそが、今の自分を救い出すことができる唯一の方だと分かっていて叫んだのではないかと思わされます。


3.イエスさまの招き


 エリコの町に出入する道はそれほど広い道ではありません。バルティマイはイエスさまのすぐそこにいます。いつも病人のいやしをイエスさまがしてくださったように、直接バルティマイに語りかけて、彼をいやすことが出来たはずです。しかしここでは、イエスさまはそうされません。先ほどまでこの騒動の中で、イエスさまをお守りしようとして、バルティマイを制止しようとしていた弟子たちを用いられるのです。


 イエスさまは立ち止まります。そして「あの男を呼んできなさい」と、イエスさまが言われました。このイエスさまの一言で、その場の雰囲気が一変します。それまでは叫び続けているバルティマイを𠮟りつけて、何とか黙らせようとしていた人々でしたが、イエスさまのこの一言で彼らの対応が打って変わったものになりました。


 人々は、バルティマイを呼んでこう告げたのです。

 「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」(49節)


 これまでバルティマイを制止しようと躍起になっていた弟子達の言葉とは思えません。

 イエスさまの「呼んで来なさい」という一言で、バルティマイを叱りつけて黙らせようとしていた人々が、イエスさまの気持ちを受け取って語る者へと変容されました。弟子達はイエスさまの心をしっかり理解して働き始めているのです。 まるでイエスさまの言葉のようです。イエスさまの優しい麗しい言葉そのもののように受け止めることができます。


 イエスさまが、あの男を「呼んで来なさい」と語られた一言にもう少し注目してみたいと思います。福音書記者のマルコは、イエスさまのこの「呼んで来なさい」と言う言葉をとても重んじています。イエスさまが呼んで来なさいと仰った言葉を受けて、人々は盲人を「呼んで」、バルティマイに「お呼びだ」と続けて用いて、この49節の一節だけで「呼ぶ」という言葉を三度も用いて際立たせています。先ずはイエスさまがわたしたちに救いを求める心を恵みとして与えてくださって、救いを求めるわたしたちを「呼んで」くださるのです。

私が信仰を持たせていただいてから今日まで、夫として娘の父親として、社会で働く一人として、そして教会員の一人として、何度も経験してきた多くの苦難の中で、何度も受け取らせていただいた、「我に来よ」という言葉と重なるのです。イエスさまは、今日も「我に来よ」と私たちを呼ばれています。

 

 ところで、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」という言葉を弟子達から聞いたとき、上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスの前に進み行く、バルティマイの姿には驚かされます(50節)。バルティマイの嬉しさは、並大抵のものでなかったのでしょう。そして、イエスさまの「何をしてほしいのか」という問いに、バルティマイは「目が見えるようになりたい」(51節)と、躊躇せず答えます。


 このバルティマイの応答の言葉、「再び目が見えるようになりたい」という言葉を聖書の原典で確認しますと、見えるようになるという言葉に「もう一度」という接頭語を付した合成語となっていますから、彼は生まれながらの盲人ではないのでしょう。


 旧約聖書イザヤ書42章6節7節には、「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び あなたの手を取った。民の契約、諸国の光としてあなたを形づくり、あなたを立てた。 見ることのできない目を開き 捕らわれ人をその枷から 闇に住む人をその牢獄から救い出すために。」と記されています。バルティマイは、 自分をいやしてくださる方はイエスさまをおいて他にはないと信じて、再び目が見えるようになりたいという強い願いを込めて、イエスさまに応答しているのです。イエスさまの助けを求めて、臆するところなくイエスさまに答えたのです。


 この時、バルティマイを呼ばれているのは主の恵みによるものです。バルティマイが何かを知っていたからとか、信仰が芽生えていたからとか、彼が叫び続けたなどの特別な行動で、イエスさまが彼を呼ばれたのではありません。主の恵みに覆われた出来事なのです。主がバルティマイの必要を憐れんでくださって、バルティマイを呼ばれて身元に招いてくださったのです。イエスさまだけが、苦しい状態にある私たちのことをすべてご存じなのです。そして恵みをもって、闇に住む人をその牢獄から救い出すように、わたしたちを「呼んでくださる」のです。 だからこそ、わたしたちも主が呼ばれていることを確信するのです。


 すべての人が主の招いてくださる声を聞き分けることができますように、主の招きに素直に応じることができますようにと祈る毎日です。これが福音宣教のベースにあるもので、主の願いであり、今日も主がわたしに求めてくださっていることなのです。そして、今わたしたちも主に呼ばれてここにいるのです。

4.イエスに従うバルティマイ


 それから、イエスさまの一行は、海抜マイナス250mにある、世界一海抜の低い町エリコから、エルサレムの丘まで標高差1,000m近い上り坂を進んで行かれます。それがイエスさまの十字架に向かって歩む最後の道として用意されていました。そしてその一行の中に、バルティマイの姿があるのです。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(52節)とイエスさまに言われたバルティマイは自由に生きる者へと救い出されました。自由を得た彼の最初の選択はイエスさまに従うことであり、イエスさまから離れて行きません。


 イエスさまに従う喜びで満たされながら、イエスさまに従って、共に歩んで行ったのです(52節)。その道は、エルサレムの丘を見上げて歩む、青空が広がる厳しい上り坂ですが、苦しいとは感じません。そして目が見えるようになったバルティマイは、イエスさまの十字架の出来事の証人として用いられるのです。イエスさまが、バルティマイの果たすべき働きを用意しておられたのです。


 目が不自由となり、暗闇の中を歩んでいたバルティマイは、イエスさまがダビデの子でありメシアであることを知っていました。そして弟子達を通じてイエスさまが自分に目を向けて呼んでくださったことを聴きました。そして、バルティマイは臆することなくイエスさまの前に進み出て行きました。そしていやされました。自由を与えられたのです。そして、バルティマイは自分の意思でイエスさまの道に従ったのです。


 エルサレムに向かうイエスさまに同行したバルティマイは、イエスさまの十字架と復活の出来事の証人となり、初代教会の信徒の一人としてその証をしていたのでしょう。彼のことが多くの人々に語り継がれていたのです。だからこそ、聖書の中で「盲人バルティマイをいやす」と標題を付されて、彼の名前が記されているのです。


 イエスさまがエルサレムの十字架に向かう旅の最後の訪問地であるエリコを出て行かれるときに、この出来事が語られていることには意味があります。エルサレムに入られる直前の出来事として、福音書記者のマルコは、この出来事を通じてイエスさまの救済の業について、神さまが助けを必要としているわたしたちを救われるというご意志について明示しているのです。エルサレムでの受難物語に入る直前の出来事として、わたしたちの信仰とは何なのか、イエスさまに従うとはどのようなことなのかということを、盲人バルティマイの出来事を用いてわたしたちに語っているのです。

 わたしは今日、新たな気持ちで「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」(10:49b)という神さまの言葉を受け取りました。今のわたしにとって、大きな励ましとなりました。

最後に、本日の讃美歌516番の5番の歌詞を読ませていただきます。


 「主の招く声が、聞こえてくる。

  こんなに小さな私たちさえも

  みわざのために用いられる」


 主はいつもわたしたちを呼ばれています。

 なんと大きな恵の中に生かされているのでしょうか、

 主に感謝します。

 みわざのためにこの身を用いてくださいと祈ります。




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