本稿は、東京神学大学夏期伝道実習における、2021年8月25日(水)の指路教会祈祷会での奨励をまとめたものです。 神学生 金森一雄
聖書箇所:マルコによる福音書4章35〜41節
マルコによる福音書4章の1節には、イエスさまが、再び人々を湖のほとりで教え始められた(4:1)と記されています。この湖とは、かつて、イエスさまが、網を打っていたシモンとシモンの兄弟アンデレ(1:16)に、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(1:17)と言われて、また、舟の中で網の手入れをしていたゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ(1:19)を呼ばれて、彼らを弟子としたガリラヤ湖です。
ここでは、再び人々を教え始められた、と記されていますので、以前にも同様のことがあったことが分かります。すぐ前の3章9節に、おびただしい群衆が、イエスさまのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである(3:8.9)と、記されています。
押しつぶされそうになるほど、群衆が集まっているのです。そのため、イエスさまが舟に乗って、腰を下ろして湖の上におられ、群衆は皆、湖畔にいてイエスさまの話を聞いている、という光景を思い浮かべていただくことができると思います。
先ほどお読みいただいた、4章35節では、夕方になって、イエスさまが「向こう岸に渡ろう」(35節)と弟子たちに仰ったことから、始まります。弟子たちは、このイエスさまの言葉に従って、舟を漕ぎ出します。行き先は、「向こう岸」とだけ示されています。その途上で、何が起こるか、向こう岸で、何が待っているか、弟子たちには分かりません。これからどうなるかは分からないまま、イエスさまの召しと促しに従って舟出しています。
すると、激しい突風が起こりました(37節)。イエスさまの促しによって、イエスさまと共に沖に漕ぎ出した舟でしたが、順風万帆という訳にはいきません。激しい突風で、舟は波をかぶって水浸しになるほどの事態に陥ります(37節)。
この記事の様子では、いつものようなガリラヤ湖北側のヘルモン山から吹き付ける真面(まとも)な風ではなく、荒れ狂う突風だったと思われます。弟子たちの乗った舟は、激しい突風を受けて、荒れ狂う湖上で木の葉のように揉まれています。弟子たちの中には、かつては、この湖で漁をすることによって、生計を立てていた者がいます。彼らは、この嵐をやり過ごす術(すべ)を知っていたはずです。舟を安定させるために出来ることや思いつくことは、何でもしたでしょう。それにもかかわらず、今回は、彼らのこれまでの経験や知見では、舟をコントロールすることができず、どうにもならない事態に陥ったのです。
この状況の中で、イエスさまは艫の方で、枕をして眠っておられました(4:38)。枕をして寝るということは、安心して寝ているという様子を示す言葉です。一方、この恐怖と危機の中にあって、弟子たちの本心が現れて来ます。襲い来る突風、自然の猛威が、漁師として生きてきた弟子たちの自負心は消え失せ、主イエスに従う信仰をも打ち砕こうとしているのです。艫で眠っているイエスさまを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言ったのです。
この弟子たちの状態は、察するに余りあるものがあります。イエスに呼ばれて舟を漕ぎ出したのに、弟子たちにとっては想定外の嵐に出会いました。舟はコントロール不能、もうどうしようもない、イエスさまは眠っている、これではイエスさまがいないのと同じではないか、イエスさまを信じて歩み始めたことは間違いだったのではないか、もはや眠っているイエスさまを起こすしか手立てがないと、肉体的には疲れ果て、信仰も消滅寸前の状況に陥りました。
主イエスに従う信仰の歩みにおいては、最初から人間の人生経験でどうにかなることなどありません。信仰の歩みにおいても、なお人生経験に頼って生きており、それでどうにもならなくなったら初めて主イエスの出番になるというのでは、基本的には自分の力で生きようとしていることとなり、信仰者の歩みとはいえないよ、と私自身の信仰のあり方や問題点をこの聖書箇所から示されました。
そのときイエスさまがしてくださったことに注目しましょう。天と地を創造され、いまもなおすべてを統治してくださっている主イエスの姿をわたしたちは目の当たりにするのです。「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われました。イエスのお言葉通り、風はやみ、すっかり凪になった」(39節)のです。まさに風や湖さえも従ったのです(41節)。と、記されています。
主イエスが、危機に陥っていた弟子たちを救ってくださいました。弟子たちは、主イエスによる救いを体験したのです。そして湖が凪になると、イエスさまは「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」(40節)と、弟子たちに仰いました。これは、主イエスの叱責の言葉ではありません。風を叱り、湖をも従わせるイエスさまの権威を目の当たりにし、主イエスによる救いを体験したばかりの、弟子たちにとって、この時あたえられた言葉なのです。そして、弟子たちは、「非常に恐れた」のです。「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言ったのです。
イエスさまが起き上がって嵐を静めてくださいました。その時弟子たちは、「先ほどは不信仰なことを言ってしまって申し訳ございませんでした」とお詫びしたとか、悔い改めたとはここでは記されていません。弟子たちは「非常に恐れた」のです。主を畏れる者に変えられたのです。そして、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」(41節)と、主の驚くばかりの恵みを体験したのです。
風や湖さえも従わせる主イエスの業を目の当たりにして、弟子たちは主を畏れる者に変えられて、いったいこの方はどなたなのだろうという、真の抱くべき疑問を持ったのです。それまで、自分は知っている、分かっていると思っていた主イエスのことが、分からなくなったのです。主イエスを自分の理解の尺度の中で捉えてしまうことは、もはやできなくなりました。まさに、主イエスのことを「分かってしまう」よりもはるかに大きな恵みに接することができたのです。
今晩の聖書研究祈祷会において、主よ、どうぞあなたのご計画通り、わたしたちを向こう岸に渡りいくものとさせてください。主よ、どうぞこの身を用いてください、すべてのことを働かせて益としてくださる主イエスに、畏れを持って従っていく者とさせてくださいと祈れる時が、こうしてあたえられているとは、何と幸いなことでしょう。
(祈り)
新型コロナウィルスが、デルタ株へと変異を続けている中で、これまで通りの礼拝をすることが出来なくなっています。賛美と祈りや聖餐式や交わりの時などを控えています。この先の希望が見えない時ですが、このような時にこそ、主を仰ぎ見て、御言葉に支えられて、忍耐強く生きていくことができますようにと祈ります。
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