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執筆者の写真金森一雄

向こう岸において(マルコ5:1-20)

更新日:6月27日

本稿は、東京神学大学夏期伝道実習における、2021年9月5日(日)の指路教会祈祷会における奨励をまとめたものです。     神学生  金森一雄


聖書箇所:マルコによる福音書第5章1〜20節



 5章の1節に、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた、と記されています。東西に12km、南北に20kmという竪琴(キネレト)のような形をしたガリラヤ湖を、北岸のガリラヤ地方のカファルナウムから、南岸のデカポリス地方へ舟で渡っていったのです。

(新共同訳聖書付録の聖書地図「6新約時代のパレスチナ」参照)


 イエスさまは、ガリラヤで神の福音を宣べ伝え(マルコ2:14)始められました。シモンとアンデレ(マルコ1:17)、そしてゼベダイの子ヤコブとヨハネ(マルコ1:19)の四人の漁師を弟子にしたのもガリラヤ湖畔です。そしてガリラヤ湖北岸のカファルナウム(マルコ1:23,2:1)は、イエスの町と呼ばれ、福音宣教のベースポイント(マタイ9:1)となってガリラヤ宣教が始められ、イエスさまは、会堂や湖岸で多くのたとえを用いて御言葉を語られています。

 イエスさまのしておられることが人々に伝わって、おびただしい群衆が集まるようになっていました(マルコ3:8)。イエスさまは弟子たちに、群衆に押しつぶされないように小舟を用意してほしいと言われ(マルコ3:9)ています。そして、イエスさまは舟に乗って腰を下ろし、群衆は皆、湖畔にいる光景が聖書に記されています(マルコ4:1)。そして、その日の夕方になって、イエスさまは「向こう岸に渡ろう」(マルコ4:35)と弟子たちに言われて出帆します(マルコ4:35,36)。


 湖上で弟子たちにとっては想定外の突風に遭遇します。ガリラヤ湖の北岸から東岸まで約10程度の航海となり、それほど長い距離ではありませんから、風がやみ、凪になって、早朝の朝靄の立ちこもる頃までには東岸に到着していたのでしょう。


 イエスさまが、向こう岸に着いて出会ったのは、墓場を住まいとしていて、「もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった人(3節)です。「だれも彼を縛っておくことはできなかった」(4節)、「昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」(5節)というのですから、家族の手にもあまり、墓場を住まいとせざるを得ず、家族の者も見放さざるを得ない、悲惨な状況だったと思われます。


 その人は、イエスさまを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し(6節)ています。ひれ伏すという意味は、神の前に顔が地面につきそうになるほど身を低くして頭を下げる行為です。イエスさまがお出でくださることを、予期していたのではないかと思わされました。


 その人に向かって、イエスさまが「汚れた霊、この人から出て行け」(8節)と言われると、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」(7節)と大声で叫びました。ここでは、イエスさまの「出て行け」という言葉がすぐには実現せずに悪霊がその人から出て行っていません。悪霊は、主イエスの言葉に反応します。イエスさまが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」(9節)と答え始めて「自分たちをこの地方から追い出さないように」(10節)と、イエスさまに願います。そして、汚れた霊どもは、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」(11節)とイエスさまに願いました。イエスさまが、それをお許しになったので、汚れた霊どもはその人から出て、豚の中に入ります。すると、2千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ(13節)のです。


 最初は、ひれ伏した人が語っているかのように思えました。しかし、イエスさまに名前を尋ねられて、レギオンと答えたあたりから悪霊が複数形を用いて話し出し、やがては悪霊が語っていることがはっきりと示されます。レギオンとは、ローマ王政時代の6千人の軍勢からなる連隊という意味で使われ始めた、由緒ある言葉です。


 この間のやりとりをもう一度振り返ってみましょう。この人は、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」(マルコ5:7)とイエスを神の子と言っていますから、イエスさまと悪霊と勝負は最初からついていたようなものです。イエスさまによって、その人が、いやその人に取りついていた悪霊どもが、その姿をあらわにされて来ます。そして、イエスさまは、悪霊どもが「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」という願いをするのを聞き入れます。レギオンが豚に乗り移ることを許されました。すると2千匹の豚の群れが険しい崖を下り湖になだれ落ちて溺れてしまったのです。こうして、イエスさまの手によってこの人が悪霊から解放され、いやされたのです。


 ところが、この成り行きを見ていたゲラサ人たちは、イエスさまに「その地方から出ていってもらいたい」と言い出します(17節)。悪霊に取りつかれて、誰もしばっておくことができなかった人がいやされたのです。あり得ないと思っていたことが現実のものとなったのです。今流の言葉を用いれば、想定外の出来事に出会って慌てふためいているのです。さらに豚2千匹を一気に失った経済的損失は相当なものです。自分たちが安定していると思っていた平穏な日常が揺らいで、大きな不安を抱いたのでしょう。2千匹の豚の命を訴える動物愛護の精神から出た言葉ではありません。彼らが平穏だと感じていた日常生活がイエスさまによってひっくり返されたのです。そして彼らが出した結論としてイエスさまに出ていってもらいたいと言っているのです。


 人々の反応を聞いたイエスさまは、舟に乗りこまれて、もと来たカファルナウムに向かおうとしました。その正気に戻ったその人は、舟に乗られたイエスさまに一緒に行きたいと願います。(18節)しかし、イエスさまはそれを許さず、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」(19節)と仰います。


 この出来事の中で、ゲラサ人の地方でイエスさまが出会ったと記載されている人は、この悪霊レギオンに取りつかれていた人だけです。


 わたしの頭の中では、イエスさまが、向こう岸に渡るときに弟子たちがガリラヤ湖で破船しそうになって命の危険を感じるような出来事まであったのに、向こう岸であったことは、たった一人の悪霊に取りつかれた人を救っただけなのかとか、一人の人の悪霊、レギオンを追い出す代わりに、2千匹もの豚の命を奪ったのか、などと、ついつい、一人の人間の命と十二人の弟子たちの、1対12の人の命、あるいは1対2千匹の豚の命、と数だけを並べて比較してみる、いわゆる算盤を弾く、損得を計算してしまいます。そのようなわたしの数合わせに走りがちな性を、この聖書箇所が「大切なことは数ではないよ。」と、わたしに諭してくれているように感じられました。


 一人の人から悪霊を追い出して、主なる神さまに従う者として救い出すことは、他の何ものにも代えられない大切なことなのです。悪霊に支配されて家族からも見離されていた一人の人を救うために、嵐の来る湖を渡って、二千匹の豚の命が犠牲となりました。イエスさまの思いはそこに止まるものではありません。これからご自身の命をも、犠牲にしてくださるのです。主イエスの愛は、一人の人を愛し、大切にして下さったからこそ、このわたしの救いも実現している、そうでなければ、自分の救いはないのだ、ということです。


 イエスさまが、長いこと悪霊レギオンにつかれていたこの人をいやし、その人がイエスさまに付き従うことを求めたにも関わらず、その人を身内の元に返され(19節)ました。それから、その人はイエスさまの言葉に従ったのです。その上で、イエスさまがしてくださったことをことごとく、この人と家族がいたヒッポスの町から始まりデカポリス地方に言い広めていったのです。そして、人々は皆驚いた(20節)のです。


 「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」(マタイ5:14)という聖書の言葉がこれによって実現するのです。山の上にあるガリラヤ湖の対岸にある異邦人の町ヒッポス町の光は隠れることが出来ず明るく光って見えることになるのです。


 主イエスにつき従うことを祈るわたしたちも、自分では気付いてないかもしれませんが、イエスさまが呼んでくださるところで、歩み始めることが求められます。自分にとっての最初の一歩は、小さな働きに思えるかもしれませんが、主のご計画の中でわたしのデカポリス伝道につなげていただけますよう祈っているのです。

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