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執筆者の写真金森一雄

収穫の時(マルコ4:26-30) 20241013

更新日:10月13日

本稿は、日本基督教団杵築教会における2024年10月13日の聖霊降臨節第22主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄 

 

(聖書)

イザヤ書55章6~13節(旧1152頁)

マルコによる福音書4章26~34節(新68頁)

 

1.「夜昼、寝起きしているうちに」

 

今日のマルコによる福音書4章26節からの、第一のたとえ話「成長する種」のたとえの冒頭で、主イエスは、「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」と言われています。

 

神の国、神の支配とは、土に蒔かれた種から芽が出て、成長して、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができることであり、人間にはどうしてそのようになるのか分からない、神が支配される世界とは、種が成長して土がひとりでに豊かな実を結ばせるのであり、それが神の働きだと主イエスが仰っているのです。

 

この主イエスの言葉の中に、私たちの聞き慣れない表現があります。

27節の、「夜昼、寝起き」と言う表現ですが、夜、昼、次に寝起き、という言葉の順番について、違和感を感じませんか。取るに足らないことのように思われるかも知れませんが、そこには案外、大事なことが背景にあると思いますので、少し掘り下げてみたいと思います。

 

先ずユダヤ人の生活習慣と伝統という観点からです。

ユダヤ人と私たちでは、一日の時間の捉え方に違いがあります。

当時のユダヤ人社会の一日は、日没と共に一日が終わります。暗くなり寝ようと準備するところから新しい一日が始まるのです。それが「夜昼、寝起き」という言葉の順序になっている理由です。

 

現代の私たちの日付は、夜中の十二時に古い一日が終わり、深夜に新しい一日が始まります。しかし、日々の新しい一日が始まるのは午前零時だとは、誰も実感として覚えていないでしょう。カウントダウンして新しい一日を待つのは、クリスマスイブの晩や年の瀬から新年の初めぐらいです。

現代の多くの人の感覚では、夜に疲れを取って一日を終える。朝日と共に新しい一日が始まったと思っていますから、朝昼夜、寝起きと一日を表現すると落ち着きます。

 

詩編121編3、4節(旧969頁)に、「どうか、主があなたを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように。見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない。」と、書かれています。

神がまどろむことなく、見守っていてくださるというユダヤ人の信仰があることが分かります。

ですから、安心して夜寝るためには、何よりも神に委ねなければならない、ということになります。そのために、「夜昼」が先にあって「寝る」という順なのでしょう。

 

そして、28節には、「土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」という言葉が続いています。ここの「土はひとりでに実を結ばせる」という、「ひとりでに」というのは、オートマチックにという意味です。

その心は、オートマチックに不思議な力が働いている、それはもちろん神の力であり、私たちの力によるのではなく神に委ねることが問われている、ということなのです。


種を蒔くと、芽が出ます。はじめに苗になります。その次に茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すると枯れていきます。私たちが「成長」について考える時に頭の中でイメージすることは、それこそ美しい花を咲かせるその一場面を切り取って、立派に成長した、うまくいったと考えがちです。

ところが、神の国では、花が枯れて、散ると、もうこの植物はいらないものになったと考えてしまうのではありません。すべてが無駄になったと思えるところに種が残るというのが神の摂理です。そして人が知らない間に、神さまが働いていてくださり、その実りがもたらされる。

そういうことがここに記されているのです。

 

2.人間の思いを超えている神

 

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書は、イザヤ書55章です。

イスラエルにとって、当時はエルサレム神殿の崩壊、王国の終焉、そしてバビロン捕囚で主だった人たちが異国バビロンに連れて行かれてしまうという厳しい状況でした。

「もう今更、悔い改めても遅い」「もう駄目だ」という、あきらめの境地が、イスラエルの民の心を支配していました。

 

ところがイザヤ書55章6、7節では、「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。」と、イザヤが語っています。

あなたたちは「もう駄目だ」と思っているかもしれない。しかしそうではない。今すぐに悔い改めて神に立ち帰るならば、主は赦してくださる、というのです。

 

そして、8-11節ではこのように書かれています。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」と主なる神が言われているのです。


イザヤ書からの長い引用となりましたが、神の愛と摂理、そして神の権能についての主の御言葉がここに与えられています。

何もかも失ったイスラエルの民に、たった一つ残されたものが、神の御言葉でした。それしか道はありません。何もできない、「夜昼、寝起き」することしかできない、だからこそ主を尋ね求めて、自分の思いを高く超えている御言葉の力に委ねることができるという、救いのメッセージが響きわたるのです。

 

主イエスは、「成長する種」のたとえの中で、種の成長の話を用いて神の国とはこうだとはっきり仰っています。

つまり、神の国、いや、神と言う存在は、じっと高いところに鎮座しておられる方なのではなく、動的でいつも働いておられる、命を生みだし、支えて、成長させる方なのです。

種から「まず茎、次ぎに穂、そしてその穂に豊かに実ができる」ように、地はひとりでに、おのずから、すなわちオートマチックに実を結ばせます。どうしてそうなるのかは、人には理解できない。大地の生命力が実を結ばせる。ということなのです。

 

4.空の鳥が巣を作る

 

マルコによる福音書の4章30節からの二つ目のたとえは、「からし種」のたとえです。

「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」と、主イエスは仰っています。

 

からし種は、木の一種ではなく野菜の一種です。からし種とはクロガラシのことで、一粒の大きさは0.5ミリ程度の小さなものです。それが、2~3メートルとか、時には5メートルくらいまで、大きく成長していきます。


32節には、「葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」とあります。

旧約聖書を調べてみました。エゼキエル書17章22、23節(旧1320頁)です。

このような記述があります。

「主なる神はこう言われる。わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。」というものです。

 

ここには、イスラエルの高い山に移し植えられ、レバノン杉の枝が伸びて実をつけ、あらゆる鳥がそのもとに宿って、その枝の陰に住むようになる、と書かれています。

レバノン杉は比喩です。文脈からダビデ王家のことを指していると思います。また、あらゆる鳥とは、ユダヤ人以外の異邦人のことを象徴していると多くの学者が解釈しています。


そうしてみると、マルコによる福音書4章32節において、主イエスが、「葉の陰に空の鳥が巣を作るほど大きな枝を張る」と語られているというのは、すでに異邦人のことまでも含めて仰っていたのかもしれません。

勿論、ここで主イエスが、どこまで考えておられたかは分かりませんが、少なくとも、からし種とはまったくかかわりのなかった空の鳥まで、からし種の木とかかわりを持つようになることと、自然の大きな広がりについて主イエスは仰っているのです。

 

最後に、マルコによる福音書4章29節(新68頁)に話を戻します。

「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」と書かれています。ここから本日の説教題「収穫の時」を選ばせていただきました。

自然の中で、収穫の時がいつなのかは、主が決められることで、私たちの知るところではありません。しかし、その日、その時にどのようなことが起こるのか、すなわち実が熟することや大きな枝を張るということは、私たちに知らされているのです。


10月に入って急に朝晩寒くなってきました。

収穫の秋です。豊かな実を結ばせています。

神が刈り入れをされ、その実を喜んでくださる神の恵みの時です。

私たちもその収穫の働きと収穫の喜びの輪の中に加えさせていただきましょう。

 



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