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執筆者の写真金森一雄

使徒の使命 (マルコ3:13-1)20240811

更新日:9月27日

本稿は、日本基督教団杵築教会における2024年8月11日聖霊降臨節第13主日礼拝の説教要旨です。杵築教会伝道師 金森一雄 

 

(聖書)

エレミヤ書 第1章4-10節(旧1172頁)

マルコによる福音書 第3章13-19節(新65頁)

 

1.エレミヤの召命

 

本日私たちに与えられた旧約聖書エレミヤ書1章4-10節には、エレミヤの召命記事が書かれています。エレミヤがが預言を始めたのは、8歳で即位したヨシヤ王の治世の第13年(紀元前627年)であると記されています(エレミヤ1:2)。そして、バビロニアによるエルサレム陥落後の紀元前585年頃まで活動を続けた預言者です。

5節に、「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた。」と書かれています。

そして6節に「ああ、わが主なる神よわたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」とエレミヤが辞退する言葉を語ったことが記されています。

それに対し、7、8節で主はエレミヤに、「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す。」と言われたというのです。そして9節では、主が手を伸ばして、エレミヤの口に触れて「見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。」とエレミヤに言われたと記されています。すごい祝福の約束です。

 エレミヤ召命を受けたもは、8歳で即位したヨシヤ王の13年目21歳の時ですから、少し年上のエレミヤも20代の時でしたから、素直な気持ちで一度は「語る言葉を知らない」「若者にすぎない」と主にお答えしたのでしょう。

 

昨日、ある方から、自分はヨシヤ王が即位した8歳頃に神から招かれて11歳で洗礼を授かった。両親がクリスチャンではなかったので、洗礼試問会があると言われて、その時のプレッシャーは並大抵のものではなかった、というお話を聞きました。そのプレシャーを経験したお陰で、その後何事にもおそれが無くなり、自分の人生の困難を支えてくれている、という証しをお聞きしました。それを聞いて本当に嬉しかった。主のなさることは素晴らしい。

その方は、今日この礼拝に出席され、アブラムのように75歳で召命を受けた(創世記12章)遅咲きの教師を励ましに来てくださいました。ハレルヤ!


2.12人を選ぶ

 

この話は、今日与えられている新約聖書の連続講解教と無縁ではありません。

マルコによる福音書 3章の13節をご覧ください。

「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た」とあります。主イエスによる十二使徒の任命は、山の上でなされたのです。この直前の12節までの話はガリラヤの湖の岸辺におけることでしたから、一転して山の上が舞台となっています。並行箇所であるルカによる福音書6章12節(新112頁)では、「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。」と記しています。


ルカの福音書は、主イエスが山に行き徹夜の祈りをなさった上で、十二使徒を選び出されたことを強調しているのです。

マルコの福音書においては、既に1章35節で、「朝早くまだ暗いうちにイエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」と、主イエスが祈りを大切にしていることを記しています。そして、この2章13節の十二人の任命のくだりでは、ただ「山に登って」と記すことによって、主イエスが人里離れた所へ出て行った祈りが背景にあったことを、強く暗示して表現する手法を用いているのだと思います。

 

すると次に主イエスは、「これと思う人々を呼び寄せ」と、記されています。この箇所の原文を直訳すると「彼(イエス)が望んだ者を呼び寄せた」となります。

これまで、主イエスの弟子の召命の基準は、主イエスがじっと見つめて見立てた人だ、とお話しして来ました。その意味を「主イエスがこれと思うくらい優れた者たちが選ばれた」と言うようには理解しないでください。この世的な選ばれた者の資質や力量については、全くふれられていません。4人の漁師(マルコ1:16)の時も、収税所のレビ(マルコ2:13)の時もそうでしたが、主イエスはただじっと、呼び寄せる人を見ていたとだけ記されています。

そして「わたしに従いなさい」と、弟子とする人に声をかけた、と記されているのです。

 

14節には、集まって来た十二人を任命して、使徒と名付けられたと記されています。

「任命する」という言葉は原文では、「造る」ποιέωという言葉が用いられています。

直訳すれば「十二人を造った」となります。

そのようにして造られたという使徒たちは、何をどのようにしていくというのでしょうか。

今まで漁師や収税人だった人が使徒としての働きを担うことが出来るのだろうか、と思ってしまいます。ところがその後には、「彼らを自分のそばに置くため」「派遣して宣教させ」「悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」と、その狙いがはっきりと記されています。まさに神様のなさることは完全だと、私たちが納得して信じる所以です。

 

3.御言葉を聞くことから

 

使徒たちは、突然宣教へと遣わされたのではありません。遣わされて宣教に出て行く前に、先ず、主イエスのそばに置かれて、み言葉に聞き入る生活が与えられたのです。

そして、主イエスの癒しの御業や悪霊追放の御業を目の当たりにしました。

 15節には、「悪霊を追い出す権能を持たせる」とありますが、そんなことが出来ると思えますか。私自身の証しとなりますが、私は長いこと汚れた霊に支配されて生きていました。汚れた霊の支配の下で、神様に背を向け、神様の恵みをいただこうとせず、御言葉に耳を閉ざしていました。自分の思い、願い、欲望の充足を人生の目標として歩んでいました。

 

そのような者が、教会の礼拝に集うようになり、神様の御言葉を聞く者となり、さらに喜んで聞く者となっていきました。それは私自身が、汚れた霊の支配から解放された経過です。主イエスが、私から汚れた霊を追い出し手下さったのです。そして私を、主の足元で御言葉に耳を傾ける者に、主イエスが導いて下さったということなのです。これからの生涯、主イエスの御業のために用いられていくのだと信じています。私が悪霊を追い出すのではありません。私が自分の罪に気付き、悔い改める思いを与えられ、主イエスがそれをして下さったように、主イエスがしてくださるということなのです。

 

実際に十二人が宣教へと派遣されていく物語は、6章7節以下から始まります。

それまでは、彼らはひたすら主イエスのそばに置かれ、主の御言葉と恵みの御業を、かぶりつきで見聞きしました。彼らが与えられた使命を果すための全ての力、つまり主イエスによって、もたらされている神の国の福音を宣べ伝える力も悪霊を追い出す権能も、もともと彼らの中にあったものではなくて、全ては主イエスによって与えられたものです。このようにして主イエスが使徒たちの中に造り出して下さったことが、聖書に記されているのです。

 

4.使徒的教会の形成

 

ところで、このようにして立てられた使徒たちのことを、私たちはどのような人々だと思っているでしょうか。迫害に耐えて、初代の教会の礎を築いた信仰者たちで、私たちとは比べものにならない深い信仰の持ち主、あるいは聖人として祭り上げてはいませんか。

 確かに使徒たちは、教会の二千年の歴史の先頭に立っている人々です。その意味で模範とすると言うこともはばかられるような、特別な信仰者であることは確かです。


ですから、使徒の数が十二人であるということが、とても大事な意味を持っているのです。十二というのは、神の民イスラエルの部族の数、部族長の人数です。

つまり主イエスは、十二人の使徒を立てることによって、神の民であるイスラエルを、自分のもとで新たに形成しようとしているのです。使徒たちは先頭を歩いていますが、その同じ行列の後ろの方に、私たち一人一人もいるということなのです。神様が恵みによって選び、集めて下さったのが私たちです。私たちも神の民なのです。

 使徒が伝えた信仰、主イエスこそ救い主キリストであるという信仰を受け継いだ人々が、新しいイスラエルである教会に加えられ、新しい神様の民として歩んでいくのです。


教会は、自らのことを「使徒的教会」と呼んできました。使徒信条の中に「唯一の」「聖なる」「公同の」「使徒的教会」というキーとなる言葉があります。教会は、使徒たちの伝えた教えを受け継ぐ使徒的教会であることで「聖なる公同の教会」となっているのです。

 使徒の使命は、主イエスの使者として派遣され、主イエスにおいて決定的に到来している神の国の福音を宣教することであり、神の国の印として悪霊を追い出す業を行うことです。

とてつもないことと思われるかもしれませんが、「使徒」を平たい言葉で言い直しますと、「遣わされた者」、すなわち主イエスの「お使い」なのです。子供に「ちょっとそこまでお使いに行って来て」と言うのと変わりません。主イエスが、私たちに「お使い」をせよと言っておられるのです。お使いとは、その子に出来ることをさせるものです。主は私たちに、決して無理なことをさせようとはなさいません。使徒たちの後継者として、私たち一人一人にも出来る働きが期待されているのです。

 

私たち信仰者にとって大切なことは、主イエスがそのように自分を選んで下さり、自分にも使徒たちの働きの一端を担う使命を与えておられることを認めることです。それを認めようとしないならば、そのような信仰は使徒的信仰とは言えません。自分の慰めや平安のために、ただ神様を利用しようとしているだけの都合のよい信仰と言わざるを得ないものとなります。

 

16節以降には、主イエスに任命された十二人の名前が記されています。「ペトロ」=岩という名を付けられたシモンに始まり、12人目の最後に出てくるのが「イスカリオテのユダ」です。19節には、「このユダがイエスを裏切ったのである」とわざわざ記されています。

主イエスによって実現する神様の救いのみ業は、ユダの裏切りをも包み込んで進んでいます。十二人の使徒たちもまた私たち同様、自分の弱さや偏見、罪や裏切りの一切を担って下さる全能の神様の力に依り頼んで歩むことを許されて神様のもとに呼び集められた不思議な者たちなのです。

私たちは使徒たちの後に続く者として、使徒的教会の一員として、先ずは礼拝において御言葉をしっかりと聞かせていただき、主イエスが私たち一人一人に与えようとしておられる使命を覚えて、私にもできる「お使い」をさせていただく者でありたいと祈ります。



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