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勝利をのぞみ(マルコ1:12,13)20240505 

  • 執筆者の写真: 金森一雄
    金森一雄
  • 2024年5月5日
  • 読了時間: 9分

更新日:1月31日

本稿は、日本基督教団杵築教会における2024 年 5 月 5 日の復活節第 6 主日礼拝の説教要旨です。  杵築教会伝道師 金森一雄 

 

(聖書箇所)

旧約聖書:列王記上19章5~8節、新共同訳聖書(旧565頁)

新約聖書:マルコによる福音書1章12、13節、新共同訳聖書(新61頁)

 

 (はじめに)

本日、私たちに与えられた今日の聖書箇所マルコによる福音書1章12節の最初は、「それから」という言葉で始まっています。ニュアンスとしては「すぐに」(at once, directly)という、言葉で、ギリシャ語ではエウセオース(εὐθέως)という言葉です。実はこの言葉は、マルコによる福音書の中で、42回も出て来ます。新共同訳聖書では、「それから」「すぐに」「そのとき」などと、前後の文脈に応じて訳されています。

マルコがこの言葉を多用したのは、自分の記す福音書の話に連続性を持たせたいと思ったからでしょう。ちなみに先週の聖書箇所10節でも、主イエスが洗礼(バプテスマ)を受けられ、水の中から上がると「すぐ」、天が裂けて“霊”が鳩のように降ってくると、記されています。マルコが重視している出来事を、つなぐことばとしてすぐとかそのときという言葉用いて立て続けに記していく、マルコの特色ある記述法です。

 ここで、「霊」という言葉にダブル・クオーテーションマークが付けられて「“霊”」となっていますが、これは「聖霊」とされています。荒れ野に「送り出した」と翻訳されている動詞は、ギリシャ語の エクバロウで「外に投げ出す」という意味です。ですから、イエスが洗礼(バプテスマ)を受けられるとすぐに、聖霊がイエスを荒れ野に投げ出したのです。

わたしたちが、洗礼(バプテスマ)を受けた直後に、勿論別々の仕方ではありますけれども、何らかの苦難を経験されたという話をしばしば耳にします。

もちろん、洗礼を受けた直後に、このようなことが「すぐに」、誰にでも必ず待ち受けているというわけではありません。しかし、何よりもわきまえておかなければならないことは、洗礼(バプテスマ)を受けたからといって、このような苦難が消えてなくなるわけではないということです。この世においてサタンの誘惑の攻撃から逃れることは不可能であることは、受け取らなければならないようです。それは聖霊なる神のご意志ですから。

 そして、今日の聖書箇所に記されている出来事が起こるのです。「誘惑を受ける」という小見出しがつけられた、短い聖書箇所です。その中の「荒れ野」と「誘惑」という言葉について、取り上げてみたいと思います。

 

(1)荒れ野

 神の独り子であるイエスが洗礼(バプテスマ)を受けられると、すぐに、聖霊によって荒れ野に投げ出されました。ギリシャ語の原典聖書で「荒れ野」(ἔρημον)とは、「人里離れた所」とか「人のいない所」という意味で、「孤独な場所」と訳すことも可能です。「孤独な場所」というならば、人がいても、この「荒れ野」が存在する場合があります。現代の社会の中にも、しばしば荒れ野、孤独な場所が存在してしまうことがあります。

 誰もが抱えている、あるいはやがて抱えることになる問題ですが、老いをどのように生きるかという問題があります。老いの問題の根源にあるのは、人から捨てられてしまうのではないか、という恐れだと思います。もしそういうことが起こってしまえば、そこに「荒れ野」が生まれることになります。

若い人にとっても、「荒れ野」の問題を抱えることがあります。

学校や社会が敷いたレール、あるいは自分はこうあらねばならないと自分で敷いたレールから、「荒れ野」に追いやられてしまうのではないかという不安がいつもあります。

どんな人でも、何らかの不安を抱えています。仮に今は大丈夫だったとしても、いつでも誰でも、そこから「投げ出される」「追い出される」という不安があるのです。

今の社会のどこにでも「荒れ野」があり、皆がその中で生活をしているのです。

教会は最初期の頃から、教会に来ることができなくなった方のところに赴いて、家庭礼拝をしています。新約聖書のヤコブの手紙第5章13~15節(新426頁)に、このようなことが記されています。

「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。」

 この記事から、教会の長老が外に赴いて、家庭礼拝がなされていたことが分かります。

そうすると、主がその人を起き上がらせてくださる出来事が起こるというのです。

ここで使われている「起き上がる」ἐγείρω (egeiró)と言う言葉は、原典のギリシャ語では「復活する」「甦る」という私たちが聞き慣れている意味でも用いられています。

病気が治って実際の意味で「起き上がる」ことを意味しているというよりも、信仰における力を得る、復活するという意味として受け止めると、適当だと思います。

 また、当時の古代ローマの社会では、しばしば伝染病が流行しました。

伝染病で手の施しようがなくなると、感染する恐れがあるので、その病人は「荒れ野」に置かれました。投げ出されたと言ってもよいのかもしれません。誰も近づかなくなるのです。しかしキリスト者たちは、そういうところを訪ねて、水を飲ませ、食べ物を口に含ませ、賛美し、共に祈りました。

病人にとって、自分が心に留められていることが、どれほど心強かったでしょう。

このように、教会の働きの原点には、主イエスの「荒れ野」での戦いがあるのです。

「荒れ野」をもはや「荒れ野」でなくしてくださった、主イエスの勝利があるのです。

 

(2) 誘惑

 マルコによる福音書1章13節に「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」と、あります。主イエスを誘惑した、試みたのはサタンです。ヘブル語のサタンという言葉の意味は、単に敵という意味を表す言葉です。それが悪魔に訳されるようにまでなったのです。

並行記事が、マタイによる福音書第4章の1~11節と、ルカによる福音書第4章の1~13節にあります。どちらも悪魔からの三つの誘惑(①石をパンに、②飛び降りる、③悪魔を拝む)について具体的に記されています。悪魔がどのような言葉で主イエスを誘惑したのか、それに対して主イエスがどのような言葉で応えられて撃退したのかを詳細に記しています。

 ところが、マルコによる福音書においては、サタンの誘惑の詳細な記述はありません。簡潔に、悪魔の誘惑を受けられたとだけ記しています。しかしながら、マルコによる福音書には、他の福音書にない言葉を発見することができます。それは「野獣」という言葉です。

主イエスは洗礼を受けてすぐに、人がいない荒れ野に追い出され、「野獣」と一緒にいることを強いられた、というのです。この野獣という言葉は、ヨハネの黙示録に、獣(けもの)という言葉でたくさん出てきます。竜という言葉でも出てきます。皆同じ言葉です。

獣や竜が何を意味しているかですが、教会を迫害した当時のローマの皇帝やその権力を指し示していると言われています。直接その支配者を記すことができなかった時代背景には、教会のローマ帝国との厳しい戦いがあったからです。マルコがそうしたことを意識しながら、聖書を記していることが分かります。

 マルコによる福音書では、主イエスは野獣と一緒におられたというのですから、主イエスは獣たちと共存していたということになります。人々と獣たちの間に、敵意が存在しない日が主イエスの時に実現した、と言わんばかりです。本来ならば共存することができない、「野獣」と主イエスが共存された、とか、あるいは主イエスが「野獣」に勝利されたということになるのですから、主イエスにおける平和の実現を見ているのです。もはや「荒れ野」が「荒れ野」でなくなったかのように、「野獣」も「野獣」ではなくなるのです。

 13節の終わりには、「天使たちが仕えていた」とあります。

ここで用いられている「仕える」という言葉は、「給仕する、食物を供する」と言う意味で用いられる言葉です。とすれば、40日間天使たちが必要な水や食物を備えて主イエスを支えたということになります。

 聖書朗読していただいた旧約聖書の列王記上を用いて、少し考えてみましょう。

列王記上18節から、アハブ王の前にエリヤが姿を現します(18:1)。19章5~8節では、アハブ王の妻イゼベル(シドン人の異教徒の王の娘)から命を狙われたため、自ら荒れ野に入り、一本のえにしだの木の下で自分の命が絶えるのを願って眠ってしまいました。

そのとき、御使いがエリヤに触れて、パン菓子と水を与えて「起きて食べよ」と力づけてくれた、というのです(列上19:5-8)。

マルコの記事に接した読者は、同じ「荒れ野」で、天使が主イエスに仕えた出来事と、御使いがエリヤに「起きて食べよ」と力づけてくれた出来事とが、重なって受け止められたと思われます。しかし、エリヤとイエスの試練には違いがあります。エリヤは、自ら命を絶とうとして荒れ野に入りましたが、主イエスは、神自身である聖霊がイエスを荒れ野に投げ出されたのです。神がその独り子をサタンに引き渡すとは、半端ないことです。

この様にしてマルコは、誘惑の時には、常に聖なる援助があることを強調しているのです。

 

(おわりに)

ここまでのマルコによる福音書1章9節から13節までの、主イエスの一連の出来事を振り返ってみたいと思います。

主イエスは、ガリラヤのナザレからヨルダン川まで来られて、ヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けるとすぐに天が避けて聖霊が降って来ました。そして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声が聞こえて救い主として任職されました。

すぐに同じ聖霊が、サタンの誘惑にイエスを荒れ野に投げ出します。そして13節では、主イエスは40日間サタンからの誘惑を受けられ、野獣と一緒におられました。

そこでは、「荒れ野」が「荒れ野」ではなくなり、「獣」も「獣」としての力を失っているのです。そして天使たちが主イエスに仕えていたというのです。

 マルコは、新しいエリヤとしてバプテストのヨハネを描きました。そして、荒野の誘惑物語の中で、洗礼(バプテスマ)を受けたて主イエスを新しいアダムとして登場させたのです。主イエスは、単に神の国の到来を伝えるメッセンジャーなのではありません。イエスの言動そのものにおいて、メシヤの時代の幕開けがなされた、とマルコは記しているのです。

「荒れ野」のようなところにいるようでも、主イエスがその「荒れ野」を退けてくださったゆえに、死への勝利があり、病への勝利があり、罪への勝利があるのです。

マルコは、主イエスが洗礼(バプテスマ)を受けて、ただちに起こった悪魔の誘惑という出来事は、神御自身の敵であるサタンとの戦いであったこと、そしてその勝利をはっきり示しているのです。そしてわたしたちは、「勝利をのぞみ」(讃21-471番)と賛美するのです。



 
 
 

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