光の中を歩こう(イザヤ 2:1~5)20240414
- 金森一雄
- 2024年4月14日
- 読了時間: 7分
更新日:2024年9月27日
本稿は、日本基督教団杵築教会における2024年4月14日復活節第3主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄
(聖書朗読)
旧約聖書 :イザヤ書 2 章 1~5 節、新共同訳聖書(旧)1063頁
新約聖書:Ⅰヨハネの手紙 1 章 7 節、新共同訳聖書(新)441頁
(説教)
皆さんは、ただ今お読みした聖書箇所の中で、どの言葉が心に残りましたか?
そう聞かれて、旧約聖書のイザヤ書の幻はスケールが大きすぎて分からないという方も、新約聖書の第一ヨハネの手紙は、光の中を歩む必要があるのですね、とお答えいただく方もおられるかも知れません。実は、本日朗読いただいた、イザヤ書2章のメッセージと第一ヨハネの手紙1章のメッセージには、ともに平和に対する神さまのわたしたちに対する愛のメッセージが記されているのです。ご一緒に神さまの愛の御翼の中に包まれて参りましょう。
1.終末の平和
イザヤは、紀元前8世紀の預言者です。同時代の預言者のミカも、ミカ書4章の1節から3節にも、ほぼ同じ言葉を記しています。イザヤとミカのどちらが原作者なのか、という神学論争もありますが、同時代の二人の預言者が同じような内容を残していますので、この伝承は、当時相当広範囲に行き渡っていたと考えればよいと思います。
イザヤ書2章2節は、「終わりの日に」という言葉ではじまります。小見出しには、「週末の平和」と記されています。すぐ前のイザヤ書1章の27節で「シオンは裁きをとおして贖われ、悔い改める者は恵の御業によって贖われる」と記されていることを考え合わせますと、預言者の重要な使命の一つは、「終わりの日」の審きについて預言することであり、一方で預言した出来事の後に、神が直接イスラエルに愛をもってよき働きをしてくださるということを、わたしたちに示してくださっていることだと知ることができるのです。
夜があって、朝があるように、終わりの日の審きがあって、救いの始まりがあります。そのことによって、人の罪への主の審きがあること、そして主に従う者への主の愛と恵があることを引き立たせているのです。終わりの日には、主による破壊があり、その後には、新しい主の恵の業があるという預言なのです。
「終わりの日」にどのようなことが起こるのと、イザヤは預言しているのでしょう。
2節では、主の神殿のあるシオン、すなわちエルサレムの山は、周囲の山々の頭(かしら)として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる、そして、イスラエルの12部族全ての国民(くにたみ)が先を争うように大河のような流れとなってやって来る、と預言されています。 その意味は、地殻変動によって、エルサレムが文字通りすべての山よりも高くなるということではありません。シオンの山、エルサレムが、そびえ立ち、周囲のどの山々よりも輝かしい所になって褒め称えられるという、象徴的な出来事が記されていると捉えるべきでしょう。主の新しい創造の出来事です。北と南に分かれているユダの12部族がそろって大群衆となって川の流れのようにシオンに向かう、大巡礼が起こるというのです。
イザヤが強調している点は、3節以降です。聖書の原典では、ヘブライ語のוּ כ֥ לְ(lə·ḵū)、「来たれ」という言葉が鍵語として用いられて、3節と4節全体を括っています。新共同訳聖書には翻訳されていないのですが、カトリックが用いているフランシスコ会訳では、この鍵語のוּ כ֥ לְ(lə·ḵū)を「さあ」と訳出して鍵語を表現しています。
鍵語で強調されている最初の3節の言葉は、「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう。」そして、「主の教えはシオンから、御言葉(神の言葉)はエルサレムから出る。」というものです。
イスラエルの 12 部族は、分裂して統一が果たされなかった悲劇の歴史を持っていますが、ここでは全イスラエルが、強力な地殻変動によって新たな土地が形成された出来事が、何を意味するのかについて、すなわちこの神の審判と思えるような事態の中で、①悔い改めをする者は主の恵の御業によって贖われることと、②これからの新たな生き方の指示がどこから出されてどこに行けば見いだせるのかということを知っていたのです。そして、主の山にあるヤコブの神の家に行き、主が行くべき道を示されるので、わたしたちはその道を歩もうと言って、自発的な歩みを始めるという預言の言葉となっているのです。
続く4 節の冒頭で、主が国々の争いを仲裁して多くの民を戒める、と預言されています。
神の都に敵対していた諸国民が、神の門前に集合して来たときには、大勢の国民がどよめきをあげている状態に陥っていることでしょう。そうした騒々しい状態に至ったときに、勝利の裁判官として主が立ち現れるのです。
そして、彼らは剣を打ち直して鋤(すき)とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。というのです。このイザヤの預言を象徴したモニュメントが、国連のニューヨーク本部の庭にあります。右手にハンマー、左手で剣を持って鋤の刃に打ち直している男性のブロンズ像です。戦争を終わらせて、破壊の道具を人類の幸福に役立つ創造的な道具に変えたいという人々の祈りを象徴しているものです。人々は、武器を農機具に鋳直し、平和に役立て、人間に本来課せられた 大地の有効利用のために用いることを願っているのです。
こうして4節で、一つの新しい創造行為と結びついた完全な啓示が示され、ただ主の憐みと恵の御業をいただく祈りと、人類全体としての悔い改めが行われることへの希望があるのです。まさに、人の悔い改めと神による救済の神学が啓示されています。神の 救済の行為が、歴史の内部で完成することへの期待が保持されているのです。
現在、世界各国が軍事費を引き上げ、あらゆる国が他のあらゆる国に対して 、常に戦争をはじめられる準備態勢をととのえていますが、その終末の時には軍事費に頼ることが無意味となり、諸国民は自発的に武装をやめるというのです。
そして、5節の冒頭で再びוּ כ֥ לְ(lə·ḵū)「来たれ(さあ)」を鍵語として記して、この3節と4節の預言の言葉を強調して終えています。今日与えられた御言葉の最後は、イザヤ書2章の 5 節です。「ヤコブの家よ、(さあ)主の光の中を歩もう。」 と言って、人々を現実の行動 へと導きます。「主の光の中を歩もう」とは、神の御言葉に従って生きるということです。 自分たちの罪を悔い改めて、主の道を歩もうではない か、と呼びかけているのです。
2.光の中を歩む
「光の中を歩む」ことについて、先ほどお読みいただいた新約聖書の第一ヨハネの手紙1章7節には、「しかし、神が光の中におられるように、わたし たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」という御言葉があります。主イエスは、狼がうごめくこの世界に、神の子羊として、何一つ武器を持たずあらわれました。そして、神の国を宣べ伝え、わたしたちの罪の贖いとして十字架に架かってくださり、わたしたちの罪の贖いをしてくださいました。主イエスに頼らずに、この世に命を与えられ自分自身の成熟を目指して工事中の身であるわたしたちが、自分の知恵や力によって自分自身の工事を完成させることは出来ません。
わたしたちは、 「赦された罪人」です。工事現場やエレベーターの補修工事などで、ただいま工事中と頭を下げている看板を目にしたことがありますか。その姿はわたしたちの姿です。わたしたちは、工事現場の看板のように、「わたしはただいま工事中です。大変ご迷惑をおかけ しております」と頭を下げて歩むべきなのです。今でも少しずつ 神様による工事が進行しています。もしわたしたちが、神様によるその工事計画を拒め ば、神による補修・修繕がなされないことになります。未完成工事となった人間となり、かえって足元に穴が開いていたり、建設資材が残されていたりしますから、わたしたちの歩む道は、危険きわまりないものとなります。
神様は光の中に私たちを招き、御子イエス・キリストの尊い血潮によって、わた したちをきよめてくださるのです。わたしたちは、罪ある自分と正直に向き合って歩ませていただきたいと願っています。不安になって、神様に頼らず、武器を使ったり、この世の様々な人間関係や己の知恵に頼って歩むことは、避けなければなりません。
光の中を歩むこととは、御言葉を聞いてそれに従うこと、礼拝から礼拝へと歩み、主の恵をいただいて御言葉が中心にある生活へと変えていただくことなのです。
十字架に架かってくださった、主イエスの愛を信じ、この方を主と仰ぎ、神の勝利の中にわたしたちを導いてくださる方であることを確信して、希望を持って、新しい賛美の歌を声高らかに歌い続けましょう。主の光の中を歩ませてください、と祈りましょう。
礼拝から礼拝へと御言葉を慕い求めてご一緒に歩ませていただきましょう。

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