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執筆者の写真金森一雄

兄弟相互の慰め(マタイ18:15~20)

更新日:6月27日


                   神学生 金森一雄(東京神学大学大学院1年)


下記をクリックして、YouTubeでご覧いただけます。





兄弟相互の慰め

聖書箇所:新約聖書 マタイによる福音書18章15~20節

讃美歌 514番 よわきものよ、われにすべて



(第一部)

 ロシアとウクライナが戦争していることに代表される、政情不安が全世界を 覆っています。勝利の方程式があるのかないのか、とても見えにくい時代です。 感染症の対策においても、どうしたら万全なのか、これから何が起こるのか、 なかなか予測することができません。


 先ほどお読みした、マタイによる福音書 18 章 15 節のすぐ前には、「迷い出た一匹の羊」のたとえが語られています。災害やテロ、会社の倒産、家庭の崩壊などに遭遇して、私たちもある日突然、自分が迷える一匹の羊となってしまうかもしれません。どんなに素晴らしい能力を持った人でも、どんなに力や地位がある人でも、この世の価値観の中で生きる人間である限り、迷い出た羊となる可能性があるのです。


 皆さんご存知の通り、99 匹を山に残して迷い出た一匹の羊を捜しに行く、この物語では、羊飼いである父なる神が、何をおいても迷い出た一匹の羊を見つけ出してくださる方であることが示されています。普通の羊飼いなら、99匹を 山に残して一匹を捜しに行くようなことはしません。


 しかし、この羊飼いに譬えられた父なる神は、その一匹を捜しに行く方であると、主イエスが仰っているのです。そして、失われそうになったものや失われたものを、捜し出して見つけたときの喜びこそが、天の父なる神の最も大きな喜びだというのです。そしてここでは、「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」(マタイ 18:14)と、主イエスが仰っているのです。


 中渋谷教会の教会学校では、迷い出た羊のたとえ話を聞いた子どもたちに、 御言葉を聞いて自分が頭の中に思い描いた光景を、一枚の画用紙に絵を描いてもらいました。大半の子どもが、一匹の羊は自分のことであり、主イエスが野を越え、山を越えて自分を探し出してくださる方であると、素直に受け取っていました。


山の奥深くや岩陰に隠れている羊を描いている子ども、画用紙の隅っこに寝 転んでいる羊を描く子ども、主イエスが捜し出して自分を担いで牧場に引き戻してくれると、素直に笑顔で語る子どもたちを見ていると、私の心の中にあった何かが、ほぐれていく気がしました。


 他人には言えないけれど、自分こそこの迷い出た一匹の羊だ、と思っている 方もおられると思います。学校では、勤務先では、教会では、友達の前では、楽しそうにしているけれど、自分は他の人より劣っている、真の交わりがなか なかできない、本当に生きていくことに疲れた、などと思っている方もおられ るかもしれません。


 一匹の羊の話を聞くと、誰もが自分たちの中に捨ててしまいたいような過去があることに気付かされます。そうした部分は、自分で封をしてしまっているのが普通です。自分の心に封印をいつの間にかしています。そのような私たち一人ひとりを探し出し、自分の名前を呼んでくださる主イエスが、今日もおられるのです。


 私は、長いこと厳しい競争社会で、この世の誘惑に誘われるまま、 的外れな自己実現を目指して、東京砂漠を彷徨っていました。神の国に対して、何の功績もない罪人の私でした。それでも主イエスは、この私一人をも探し出してくださいました。そして、この私の罪を贖うために十字架に架かられ、血潮を流され、三日目に復活されたのです。主イエスの愛と憐れみによって私も救われました。そして私は今、主イエスに感謝し、主イエスの愛を信じて、主イエスに従う者とさせていただいて、主イエスに呼ばれて、この場に立たせていただいているのです。


(第二部)

 前置きが長くなりました。99 匹と一匹の羊のたとえに続く、マタイによる福 音書 18 章 15 節を御覧ください。冒頭で、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」と主イエスが語られています。「兄弟」とは、当時のユダヤ教会の信徒仲間を指します。今日、多くの教会でお互いを兄弟姉妹と呼ぶ習慣もここから来ています。


 そしてその次の「あなたに対して罪をおかしたなら」という言葉です が、聖書の原典では「あなたに対して」という言葉はないと多くの神学者が主張しています。神学の世界では、異なる読み、『異読』があるというのです。


 今日は、この異読の立場に立って、「あなたに対して」という言葉を取り除いて、 「兄弟が罪を犯したなら」と読んでみましょう。この違いが実は大きいのです。 ローマの信徒への手紙で「だれ一人神の前で義とされない」(3:20)と記されているとおり、私たちは、「自分も罪人だし、自分の仲間も罪人だ。すべての人は的外れな罪人である。」と考えて、この聖書箇所を無理なく自然と受け止めることが出来る方が増えるのではないでしょうか。


 そして、今日の聖書箇所が、共同体全体にかかわる何らかの罪を犯した『兄弟への忠告』をする話なのだな、と気付かされます。私たちがお互いに罪を犯す罪人であることに気付くことは、実は恵みなのです。主イエスの御言葉に、 もっともっと触れるチャンスの到来です。緩やかな結び付きにある教会共同体が、いのちの共同体として成熟していく可能性があるのです。義務のように思える愛の律法が、恵みの律法であり、自分も従いたいと願うようになるのです。


 続けて主イエスは、「行って二人だけのところで忠告しなさい」と言われまし た。主イエスは、なぜ一人で行け、二人だけのところで忠告しなさい、というのでしょうか。最初から複数で行った方が、相手から誠意があると思われて、よい成果を挙げられるのではないか、と思われる方もおられると思います。


 しかし主イエスは、人に物申す時には、こちらから一人で出かけて行くこと が大切だというのです。忠告される側の立場に立って考えなさい。その人に恥 ずかしい思いをさせないよう、相手のプライバシー、名誉、そして人格の尊厳を重んじて、その人が率直に語りやすくなるように配慮しなさい、と主イエス は仰っているのです。それは、まさに主イエスご自身が示された第二の掟、「隣 人を自分のように愛しなさい」(マルコ 12:31)という、御言葉の実践を具体的 に推奨されているのです。


 主イエスが一匹の羊を捜し出してくださったように、過ちを犯した人を捜し 求めて、配慮するのが教会です。宗教改革者のルターは、罪を犯して教会に戻れないと考えていた友人に対して、「私たち罪人の仲間入りをしてください」と 語りかけています。


 教会は、主イエス・キリストを真ん中にお招きして、積極的に他者と関わり、主イエスに祈り求めながら他者に責任を持つところなのです。 教会の中で信仰が弱っていて礼拝から遠のいている人や隣人愛に協力的でないように見える人に対しても、謙遜な気持ちをもって、その人の立場や考え方を少しでも理解しようと努めて、慰めの気持ちを持って接するように導かれていくのです。


 そして、「勇気を与えてください。自分も罪人ですから、罪を犯した友の所へ、 主イエスの御言葉を携えて出かけさせてください。」という執り成しの祈りが始 まります。その際、「自分は正しい。間違っているのは相手だ」と思い込んでしまうと、和解への道は閉ざされてしまいかねません。多かれ少なかれ自分も罪を犯している。お互いが、主イエスに捜し出してもらった一匹の羊であり、 共に神の愛に包まれ、恵みを受けている者であることを知れば、思い上がった言葉を交わすような語り合いは排除されるでしょう。自分も罪人であり、それぞれに与えられている聖書の言葉を語りあい、共に祈ることこそが、罪を犯した兄弟への忠告であり、兄弟相互の慰めとなるのです。


 相手が、「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」と主イエスが語られています。この段階では、牧師や役員は登場しません。ここでは、教会員一人ひとりが自らの問題として、教会の兄弟を得る、隣人愛の働きを始めなさ いと主イエスが仰っているのです。


 次に、相手が聞き入れない時のことが語られます。「ほかに一人か二人、一緒 に連れて行きなさい」(16 節)と、旧約聖書で「裁判の証人」が必要になる(申命記 19:15)ということを意識して語っておられます。そして「それでも相手が聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」(17 節)と、ここに至って教会の問題にまで引き上げて主イエスが語っておられるのです。しかし、主イエスの心を探らせていただくと、同じ旧約聖書の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」(レビ 19:18b)という御言葉と重ね合わせて受け取る方が、この文脈が生きてきて、つながりやすくなるのです。


 教会史を紐解くと、教会戒規をかなり厳しく運用する時代がありました。し かしここでは、そこまでのことを言ってはいません。「異邦人や徴税人と同様に 見なしなさい」ということに止めていますし、もとより主イエスは、異邦人や徴税人をも伝道対象としています。主イエスの御心は、あくまで兄弟相互の訓 戒をすることにあるのです。決して断罪することではないのです。


(第三部)

 先に進みましょう。次の 18 節では、「はっきり言っておく」という主イエス の言葉で始まります。「はっきり言っておく」という言葉は、ヘブライ語では、 アーメン!です。主イエスは、ご自身の発言を強調したり断定する場合に、しばしばアーメンという言葉を話し言葉の文頭で用いています。


主イエスが力を 入れて、大切なメッセージを与えようとしてくださっている印となる言葉です。その大切なメッセージとは、教会が兄弟の罪を赦すことができるという福音 のメッセージです。そして、「つなぐ」と「解く」という言葉が、二度ずつ出て 来ています。私は長いこと、「解く」という言葉の意味を、「つなぐ」とあべこべに覚えていました。「解く」とは、奴隷解放という言葉の「解放の『解』という漢字」を用いていて、福音のメッセージとして無くてはならない大切な言葉です。私のような過ちをしないようにお勧めすることは、この「解く」という言葉を しっかり心に刻み付けることです。


 教会の説教それ自体が、天の門を開いて解く(解放する)、赦しを求める働き を担っています。福音の説教によって、御言葉を語る者にも聞く者にも聖霊が 人々の罪からの解放について働きかけます。この聖霊の働きを妨げてはなりません。主イエスは罪人を尋ね求め、十字架に架かられました。三日目によみがえられました。そして、今もインマヌエルの神として私たちと共に、この教会堂の中にもいてくださいます。だからこそ、2千年後の今も、主イエスと共にあって教会員一人一人が、兄弟の罪の赦しを宣言できるのです。


皆が共に集い、お互いが罪人であることを知って、慰め合い、御言葉を聞くのです。一匹の羊を一所懸命に捜し続けておられる主イエスの愛の御声、十字 架の言葉を共に聞くのです。福音の約束をまことの信仰をもって人々が受け入 れる度に、そのすべての罪が、キリストの功績のゆえに、神によって真実に赦されるのです。


 そのような理解したうえで、「つなぐ」は、「解く」の反対だと思えばよいのです。「つなぐ」とは、お縄にかけるという意味です。ここに至って、不信仰な者や偽善者たちのすべてに告知され、明らかに証言されることを語らなければなりません。人間は誰でも回心しない限り、神の御怒りと永遠の刑罰とが彼らに留まるということです。


 そして、本日与えられた聖書箇所の最後では、「どんな願い事であれ、あなたがたのう ち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえて くださる」(19 節)と、主イエスが宣言しています。そしてさらに、「二人また は三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのであ る。」(20 節)と、神がインマヌエルな存在、すなわち私たちと共にいてくださる 神であることを告げています。


 教会では、いつでも二人、三人が集まることによって、主イエスが御自身の臨在を示してくださいます。「どんな願い事であれ」の後に、二人が心を一つに して求めるなら、主イエスがその中にいてくださり、父なる神がそれをかなえてくださると言うのです。


 ところで、本日与えられました新共同訳聖書の小見出しには、「兄弟の忠告」と記されています。そのことをふまえながら、本日の説教題を、「兄弟相互の慰め」とさせていただきました。ハイデルベルク教理問答第一問の「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの『慰め』は何ですか」という、冒頭の言葉から、祈りを込めて『慰め』という言葉を用いさせていただいたのです。


 この教理問答では、これさえあればどんなに苦しい中にあっても「自分は生 きていける」と言えるものを持っているか、と問われています。この地上の生涯においては、思いもかけない災難や不幸が、突然襲ってきます。その中でわたしたちを本当に支えていく『慰め』とは、一体どのようなものなのでしょうか。


 自分の人生の屋台骨を揺るがされていくような事態に直面しても、なおそこでしっかりと自分を立たせていく土台となるものとは何かと、問われているのです。そして、自分は全能の主なる神イエス・キリストのものとされている、だから自分は、常に変わることのない神の守りの中に置かれていて、たとえ困難な問題のただ中にあって暴風雨の中にいるように思えても、目には見えないけれども、この神の守りは変わることなく、自分を包み込んでくださっていると思える、だからこそ、そのようなただ一つの『慰め』とはという問いかけに対して、「主イエス・キリストのものであること」であると言うことが出来るのです。


 2000年の歴史の中で、神への信仰こそが、迫害と困難と死と困難な問題の中にあるキリスト者たちを支え、強めてきた、ただ一つの慰めでした。この慰めこそが、現実の困難の中に生きるわたしたちに、力を与えるものなのです。教会に集う私たちは「生きるにも死ぬにも、ただ一つの慰めは何ですか」と祈り求め、「ただ一つの慰め」である主イエスのものとなることを信じて願い、インマニュエルの神、主イエスと共に歩み、私たちの中にいてくださる主イエスに従って「兄弟相互の慰め」が求められているのです。


 私は今朝も、マルコ 9 章 23 節の「信じるものには何でもできる。」という御言葉を受け取って出かけて参りました。すべてをご存知の主イエス・キリストを真ん中にお招きして、主と共に兄弟相互の慰めをしながら歩ませていただきましょう。そうすれば、すべてのことが古いまま留まることはありません。私たちは、主が与えてくださる赦しを賜物として受け取り、それを糧として教会が新しく形成され続けていくことを経験させていただくのです。


 



 


 

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