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執筆者の写真金森一雄

使命に伴うしるし(マルコ6:6b-13)20241201

本稿は、日本基督教団杵築教会における2024年12月1日待降節第一主日礼拝の説教要旨です。  杵築教会伝道師 金森一雄 

 

(聖書)

出エジプト記4章 1節~17節(旧98頁)

マルコによる福音書6章6b~13節(新71頁)

 

1.アドベント

本日からアドベントに入ります。アドベント (Advent)とは、ラテン語が語源で、本来、「到来」という意味です。教会では、イエス・キリストが来られる、キリストの誕生を待ち望む期間で待降節として、クリスマス(12月25日)までの間の、4回の日曜日を含む期間を祝います。アドベントの開始日は日曜日ですから、その年の開始日は毎年変わります。今年は12月1日が日曜日ですから、1日からら25日までがアドベントの期間ということになります。

今日は、待降節の始まりを記念するかのように、主が大分東教会から栗田加奈子姉を礼拝奏楽奉仕者として派遣してくださいました。

親密教会のご厚意に感謝しながら、主の栄光を賛美してご一緒に礼拝をお捧げしたいと思います。

 

2.十二弟子が旅に遣わされる

本日、私たちに与えられた聖書箇所は、マルコによる福音書6章6b~13節です。冒頭の小見出しに「十二人を派遣する」と書かれています。

派遣に先だって、マルコによる福音書3章13-15節には、十二人の任命について、「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられ・・・十二人を任命し、使徒と名付けられた。」、「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」と書かれています。


十二人の弟子たちは、使徒に任命された以降、ずっと主イエスに従って歩んでいました。主イエスのそばで、主イエスがなさることを見たり、主イエスが語られる言葉を聴いたりしていました。そしていよいよ「派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせる」という時が来たのです。 

 

先週のマルコによる福音書6章4節で、主イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言っておられました。そして、5節には、「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」と書かれていました。


そのことがあってから、7節で主イエスは、ナザレの町の「付近の村」に、「十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして(弟子たち)を遣わすことにされた。」というのです。二人ずつ6つの宣教チームが組成されたのです。


主イエスが故郷で奇跡を行うことが出来なくなったから、弟子たちを派遣したという成り行きになっていますが、それが主のご計画のようです。主イエスと弟子たちが適材適所のところで用いられた、と言う言葉で片づけるほど単純なことではありません。


主イエスは、御自身で伝道をしないでご自分にしかかできないことをしてくださいました。

それは、私たちの代わりに人間の罪を背負い、十字架にお架かりになってくださり、私たちの罪が赦される道を拓いてくださることでした。一方、十二の弟子たちには、汚れた霊に対する権能を主イエスに授けられて伝道に向かったのです。

 

3.伝道旅行の持ち物

主イエスは、弟子たちを伝道旅行に遣わされるにあたって、弟子たちの旅の持ち物について次のように語られています。

7節b、8節aに、「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。」と書かれています。同じ話が、マタイによる福音書とルカによる福音書にも記されていますが、マタイ、ルカの福音書と比べると、少し違いがあります。

マタイでは、履物も杖も持って行ってはならないと命じられています。ルカでは、杖を持っていくなと命じられています。そしてルカでは、十二人が遣わされる話の他に、七十二人が遣わされる話が加わっています。

マルコによる福音書では、杖や履物は許されていますが、ほとんど何も持って行ってはならないことには変わりはありません。

マルコでは、杖一本を持って行くことを強調しています。杖とは、獣に襲われたり、追いはぎに襲われた時に身を守る最低限の武器になります。険しい道を歩くときにも役立つものです。

 

4.使命に伴うしるし

 本日与えられた旧約聖書の箇所は、出エジプト記の第4章(旧98頁)です。冒頭に「使命に伴うしるし」と書かれています。しるしとは、英語ではsymbol、象徴と訳されます。出エジプト記4章2節に、「主は彼に、「あなたが手に持っているものは何か」と言われた。彼が、「杖です」と答えると…」と、「杖」という言葉が出てきます。モーセの手元にあったその杖一本が用いられます。

 

モーセは、さらに、自分は口が達者ではない、人々のリーダーに立つことなど到底不可能だ、と言い続けます。すると主は4章14節(旧99頁)で、兄のアロンという人物が備えられていることを示されます。本当に必要なものはすでに主によって備えられていることが示されます。

旧約聖書の民数記6章24-26節(旧221頁)には、「アロンの祝福」と言われる言葉が書かれています。杵築教会の礼拝の最後で「祝祷」がありますが、私も、この「アロンの祝福」の言葉を主が用意してくださっているものと受け止めて、用いさせていただいています。

モーセとアロンが、二人一組で働きました。旧約聖書において、また新約聖書においてもそうですが、二人一組ということが重んじられています。一人だけではなく、二人の口から証言した方が、その証言が確かなものになりますし、ここでは何よりも、伝道をするときに一人ではなく仲間が与えられることの大切さを表しているのです。


旧約聖書には、いくつもの杖に関する象徴的な出来事が書かれています。その中でも、出エジプト記第14章(旧115頁)の葦の海を渡る物語が出色です。

イスラエルの民は、エジプト王のファラオの許可を必死の思いで何とか得て、故郷に向かっての旅を始めたばかりでした。しかしファラオが心変わりします。軍隊を率いて追ってくるのです。目の前は海、後ろにはエジプトの軍隊が迫ります。


絶体絶命のピンチに陥ると、主はもーせに対し、15、16節(旧116頁)で、「イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。」」と、言われました。そして、21、22節(旧117頁)で、「モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。」というのです。


イスラエルの民が、水の中を通って救われる出来事は、洗礼と結びつく話です。

出エジプトの出来事で、エジプト軍の追っ手は、イスラエルの民を追って海の中を進むと、海に飲み込まれました。

洗礼を受けた私たちにとって、罪がいつまでも追いかけて来るということは、過去のものになりました。洗礼を受けた者は、罪の奴隷に舞い戻る退路が断たれたのです。新しい旅路の出発が、洗礼の水の中を通ることによって始まったのです。

 

キリスト教会では、今日の十二弟子が宣教に派遣されるだけの話としてではなく、十字架にかかってくださった主イエスから自分たちが宣教に遣わされる話として受けとめてきました。

世界宣教は、教会の私たちが主イエスに御言葉を語る権能を委ねられて担っていく、と受け止めたのです。

 

5. 執成しの祈り

 そして11節には、「しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」と主イエスが仰っています。

足の塵を払うというのは、その人との関係を断つことを表わす行為です。伝道の厳しています。その心は、弟子たちは、自分たちが受け入れられない所に留まって伝道を続ける必要はないということです。

足の塵を払って新しい所への伝道の歩みを始めなさいと仰っているのです。伝道の最終責任は、主イエスが担われます。

私たちは、私たちが伝道した人の救いについて、主に執成しの祈りを続けることが求められているのです。

 

主イエスの十字架直前の場面のルカによる福音書22章35節で、主イエスと弟子たちとの間のこんなやり取りが書かれています。

「イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」」というものです。

弟子たちには、何も不足したものはなく、すべての必要が満たされました。

 

私たちが宣教に出かける時に帯同が許された杖一本は、私たちの宣教旅行のシンボルです。

私たちは、主によってすべての必要が満たされます。私たちには、御言葉を語る権能が与えられているのです。

このアドベントの期間、人々に主イエスの降誕の真の意味を語り、その方々の救済について執成しの祈りを続けて参りましょう。



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