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人間の心を知り尽くす神(マルコ2:13~17)  20240630

  • 執筆者の写真: 金森一雄
    金森一雄
  • 2024年6月30日
  • 読了時間: 10分

更新日:2024年9月27日

本稿は、日本基督教団杵築教会における2024年6月30日の聖霊降臨節第7主日礼拝での説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄 


(聖書)

エレミヤ17章9~14節(旧1209頁)

マルコによる福音書2章13~17節(新64頁)

 

1.レビとマタイは、同一人物なのか

本日与えられた聖書の箇所、マルコによる福音書2章13節の小見出しに、「レビを弟子にする」と記されています。主イエスがアルファイの子レビに「わたしに従いなさい」と語りかけ、彼が主イエスに従ったことが語られています。そして、マルコ3章13節には、十二人の使徒の名前が記されています。ところが、これまで弟子とされた漁師の名、シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人の名前は記されていますが、レビという名前はありません。

本日の「レビを弟子にする」という物語と同じことを記しているルカ5章27節でも、マルコと同じように徴税人であるレビを弟子にすると記しています。しかし、ルカ6章12節以下の十二人の使徒の名前が記されている中には、レビという名前はありません。マタイという十二使徒の名前は、マルコ3章13節、ルカ6章12節にも書かれていますが、それがレビであるとは書いてありません。ところが、マタイ9章9節には、「マタイを弟子にするという小見出しをつけて同じ物語が記されています。そして、マタイ10章の十二使徒の名前のリストの中では、「徴税人マタイ」と書かれています。有名な神学者バークレーなどは、レビはマタイのことであるとして何の説明もなく後の福音書記者マタイとレビが同一人物のように解釈しています。

ここでは、徴税人レビと徴税人マタイは同一人物で主イエスの十二使徒かも知れないし、徴税人レビは主イエスの十二使徒ではなく主イエスの弟子の一人に過ぎないと考えることもできるという両論併記で整理しておきましょう。

 

2. 収税所に座っていたレビ

主イエスの評判は、この時すでにガリラヤ中に広まっていました。主イエスがおられる家には大勢の人々が押し寄せて来ていました(マルコ2:2)。

マルコ2章13節では、主イエスが再びガリラヤ湖のほとりに出て行かれると、群衆が皆そばに集まって来ています。群衆の皆が主イエスのそばに集まってきている様子を強調して、皆πᾶςという、強調する言葉を用いて、その時の状態を表現しています。

さて、レビの人生を一変させた主イエスとの出会いはどのようにして起ったのでしょうか。14節にあるように、レビは収税所に座っていました。レビの収税所は、カファルナウムからガリラヤ湖畔に向かう道沿いにあったのでしょう。多くの人々が、自分の収税所の前を通って主イエスのもとに向かうのを、レビは収税所に座って見ていたのです。しかし彼は座ったままで腰を上げようとはしません。主イエスを見に行こうともしていません。

 

レビは、「イエスの教えや救いなどは俺には必要ない。そんなものが何になるのか。この世でモノを言うのはお金だ。金次第だ。どれだけ金を儲けるかで決まるんだ。イエスの説く神の教えなど、負け組の貧乏人が聞けばいい。俺は最後まで勝ち組でいるぞ」と、思っていたのではなかいかと思わされます。

もしかすると、「イエスの所に向かう同胞のユダヤ人たちが羨ましい。自分も一緒にイエスの教えを聞いて神様の救いにあずかりたい。でも所詮俺の仕事は徴税人。罪の泥沼にはまり込んでいる。もうはい上がれない。自分は相手にしてもらえないだろう。『ここはお前のような罪人の来る所ではない』と追い払われるだろう。」などと頭を思い巡らし、あきらめていたかもしれません。傲慢だったのか世をはかなんでいたのかは分かりませんが、いずれにせよ彼は主イエスのところに行こうとはせず収税所に座っていたのです。

 

3. 徴税人レビの召命

レビは、税金を徴収する「徴税人」です。彼らは、今の私たちの社会における税務署の職員とは全く違う働きをしていました。そして、15節に「徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた」とあります。16節でも、「徴税人と罪人」と、同格に並べられています。このように、当時のユダや人たちの間では、徴税人はまさに罪人の代表格の存在でした。

彼らが徴収していた税金は、彼らを征服し支配しているローマ帝国のものです。

この場面は、ガリラヤ地方での事ですから、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスのものでした。ローマ帝国の保護の下で支配権を保っていた傀儡政権でしたから、自分たちを征服し、苦しめていたローマ帝国のための税金でした。ですから、ユダヤ人たちにとっては屈辱でした。しかも、ローマ帝国は、その税金を徴収するのに、直接ローマの役人が徴収するのではなくて、現地のユダヤ人の中に、税金を取り立てる「徴税請負人」を任命して用いていました。税金は、自分たちの国や社会のために用いられるのではないのです。ですから、ユダヤ人たちからは、徴税人は、敵に魂を売った裏切り者として恨(うら)まれ、憎まれます。ユダヤ人は神様の民ですから、徴税人は神様をも裏切り、異邦人の手先になっている、とんでもない罪人だとされていたのです。

 

さらにローマの巧妙なところですが、この仕事で契約した請負額を徴税請負人がローマに納めさえすれば、それを上回って集めた分は徴税人のものとするという役得をつけていました。決められている以上に徴税人が取り立てれば、その分は全て徴税人の儲けになる仕組みだったのです。徴税人は、文句があるならローマに訴えろといいいます。強大なローマの権力が後ろ盾ですから、ユダヤの人々は理不尽と思いながらも、取り立てられた税金を払わざるを得なかったのです。

 

徴税人がこのようにして私腹を肥やしていけばいくほど、人々から憎まれ、罪人として蔑(さげす)まれ、忌み嫌われていったのです。レビはそのような徴税人の一人です。レビは、人々に憎まれ、嫌われていました。それに対抗するようにレビも人を忌み嫌って孤独に陥っている生活を送っていたのです。

 

14節には、「レビが収税所に座っているのを見かけて」とあります。「見かけて」というと、たまたま目に入ったというように感じる言葉ですが、ギリシャ語原典のεἶδενの意味は「見ていた」というものです。マルコ1章16節で、主イエスが4人の漁師を弟子にする時に、彼らを「御覧になった」と言う表現で用いた言葉と同じものです。

主イエスはこれまでにも、カファルナウムとガリラヤ湖畔を何度か往復して、レビの収税所の前を通っていたと思います。そしてそこに座っているレビの姿を見てこられたのです。

ルカによる福音書の第19章に、同じ徴税人のザアカイが出てきます。ザアカイは、エリコの町に入ったイエスを見ようと、走って先回りしていちじく桑の木の上に登っています。同じ徴税人でも、真っ直ぐにイエスに向かうザアカイの姿と較べると、主イエスの救いに与るという観点からは、レビは相当重傷でした。レビと主イエスの出会いは、ザアカイとは異なり、レビの方から求めたことではありません。主イエスの方から、目を留め、語りかけて下さったことによって起ったことです。そして今、収税所の前に立ち止まってレビをじっと見つめて、「わたしに従いなさい」とおっしゃったのです。このレビが、主イエス・キリストとの出会いによって180度変えられました。

ですから、主イエスに会おうともしなかった生活をしていた徴税人のレビが、イエスの弟子となったということが、まさに特筆すべき重大な出来事だったのです。このような観点に立って、先に進んで参りましょう。

 

4.立ち上がったレビ

彼は「立ち上がってイエスに従った」のです。日常の生活、仕事の中に、罪の中にどっぷりと浸かり、座り込んでいた者が、立ち上がり、新しく生き始めたのです。主イエスの「わたしに従いなさい」という一言によって立ち上がり、主イエスに従って行ったのです。彼の人生は全く新しくなりました。次にレビは、何をしたのでしょうか。

15節で、主イエスを自分の家に招いて食事の席を設けています。

そしてこの食事の席に、自分と同じような罪に陥っていて、人々に憎まれ、蔑(さげす)まれ、その仕返しとして自分たちからも人を憎み、意地悪をし、孤独な世界に閉じこもっている多くの徴税人の仲間たちを招いて同席させています。レビの家で徴税人仲間や罪人たちと主イエスとの出会いの場を設け、主イエスと食事を共にしています。

 

16節には、それを見ていたファリサイ派の律法学者が登場します。

ファリサイとは「分離された者」という意味で、彼らは一般の人々とは分離された者、神様の前で特別に正しい者として生きようとしていました。

ファリサイ派の人々にとっては、主イエスが徴税人レビの家の客となって、大勢の徴税人や罪人たちと食事を共にしているのは、とんでもないことでした。

食事を共にすることは、特別な親しさ、仲間であることの表れと考えられていましたから、食事を共にしているのは、自分も徴税人の仲間であり、罪人たちと一つだ、ということを意味します。自分たちと同じように人々に神の教えを説いている主イエスが、そんな者たちの仲間であることなどは、ファリサイ派の人には耐えられません。それは、神をも冒涜することだと思ったのです。

 ファリサイ派の律法学者からの、神をも冒涜するという主イエスへの批判は、この前の2章7節でも語られていました。主イエスが中風の人に「あなたの罪は赦される」とおっしゃったのに対して律法学者たちは、「人の罪を赦すことは神様ご自身しかできないのに、そんなことを言うイエスは神を冒涜している」と考えたからです。この16節で、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」とファリサイ派の人々が批判したことも、その延長上にあるものです。


5.主治医は主イエス

ファリサイ派の人々からの批判を聞いた主イエスは、17節で、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と主イエスはおっしゃったのです。

レビが徴税人として、世の中は金が全てだと思っていた人生は、病んでいます。

自分は罪人だから、もうイエスのところに行くことはできない、追い返されるだけだと思ってレビが収税所に座り込んでいたとしたら、やはりその人生も病んでいます。そうしたレビの心の病を癒すために、レビの前で立ち止まり、じっと見つめて、「わたしに従いなさい」と語りかけて下さったのです。

それが、レビが癒され、健康を与えられ、立ち上がるための処方でした。

主イエスは、私たちをじっと見つめてくださり、私たちをご存じで、私たちの心の病を、罪を、ご自分の身に全て背負って下さいます。そのためファリサイ派から批判され、神をl汚す者として十字架につけられ殺されたのです。

 

6. 人間の心を知り尽くす神

今日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書エレミヤ書17章9節の冒頭の小見出しには、「人間の心を知り尽くす神」と記されています。私たちの主治医である主イエスのことが預言されている聖書箇所です。

預言者エレミヤは、「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。」(エレミヤ17:9)と言っています。それに対して10節で、「心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なるわたしである。」(エレミヤ17:10)と神様が言われます。この神様の言葉に対して、エレミヤは再び、「主よ、あなたがいやしてくださるなら、わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら、わたしは救われます。あなたをこそ、わたしはたたえます。」(エレミヤ17:14)と応答しています。

 

私たち人間は、罪によってとらえがたく病んでいます。その病の癒しは、私たちの主治医であるキリストにしか治せないというのです。

マルコによる福音書2章17節の、主イエスは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(2:17)という聖書の言葉は、私の救いの証しとなっています。私が金融機関に勤務して、いわゆる仕事人間、ワークホリックに陥っていたときに、身体は元気だったけれど心の病人なのだと気がついて、私への処方としてこの御言葉を受取りました。

主イエスが、ご自分を必要としている病人、つまり私のために、主治医としてこの世に来て下さったことがわかったのです。

 

主イエスは、レビのように罪の中に座り込み、自分の心の中で堂々巡りしている孤独な世界に閉じこもってしまう私たちを、主イエスに従う信仰へと招いて下さっています。主イエスの弟子として生きることで、私たちの新しい人生が開かれるのです。主イエスの十字架の死による罪の赦しに支えられて立ち上がり、神様に愛されている子として生きる真に健康な歩みが与えられるのです。

レビは主イエスを自分の家に招き、食事に招待しました。本当に招かれていたのはレビの方だったのです。主イエスは、ずっと以前からレビをじっと見ていたのです。主イエスは、ずっとご覧になっておられたのです。






 
 
 

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