主イエスの任職式(マルコ1:9-11)20240428
- 金森一雄
- 2024年4月28日
- 読了時間: 9分
更新日:2024年9月27日
本稿は、日本基督教団杵築教会における2024年4月28日の復活節第5主日礼拝説教の要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄
(聖書朗読)
旧約聖書:イザヤ書第63章19節、新共同訳聖書(旧)1166頁
新約聖書:マルコによる福音書1章9~11節、新共同訳聖書(新)61頁
(説教)
1.洗礼を受ける意味
マルコによる福音書の連続講解説教を始めています。先週は、バプテスマのヨハネについて起こった出来事をお話しました。本日の9節からは、スポットライトはガリラヤのナザレから来たイエスに向けられます。
新共同訳聖書には、訳出されていないのですが、ギリシャ語の原典では、マルコによる福音書1章の4節と9節の冒頭には、「それは起こった」(ἐγένετο)という動詞を記しており、マルコがヨハネとイエスの出来事として区分して浮き上がらせています。
洗礼を受けるとは、どういうことでしょうか。洗礼を受けると、どうなるのでしょうか。教会に来たことのない人にとっても、洗礼という言葉はよく知られています。そして、教会には洗礼というものがあるということも知っています。洗礼を受けるとクリスチャンになります。そのための儀礼が洗礼です。
洗礼では水が用いられます。洗礼式において、受洗者に水をかけることになりますが、かけ方にはいくつかの方法があります。滴礼と呼ばれる方法は、わずかな水を頭につける形で行われます。これと似たようなやり方で、灌水礼という方法は、水を頭上から注ぐ方式の洗礼です。専用の容器に水が入れられていて、その容器から頭に水を注ぎかける形で行われます。もう一つのやり方は、浸礼あるいは全浸礼と呼ばれている方法です。全身を水の中に入れるやり方です。教会にバスタブやプールのようなところがあって、洗礼式が行われる時はそこを使います。川や海に行って、そこで全身を水に浸して、洗礼がなされる場合もあります。
いずれのやり方も、水が用いられます。なぜ水が用いられるのでしょうか。食器を洗ったり、衣服を洗濯するときにも水を使います。水には洗い流す働きがあり、汚れを洗い流しますから、洗礼は人の罪の汚れを洗い流すという意味がまずあります。
しかしそれだけではありません。洗礼は、ちょっとだけ汚れている汚れを洗い流すという程度のことでは済まないのです。水の中に入ることによって、一度、死ぬのです。浸礼あるいは全浸礼は何よりもそのことを表しています。もちろん、滴礼や灌水礼のように、わずかな水しか注がない場合も、水が象徴的に意味している事は同じです。水の中に入ることによって、一度そこで死ぬのです。古い自分に死に、新しい人に生まれ変わる。洗礼は何よりもそのことを表しているのです。
2.主イエスの洗礼
マルコによる福音書の連続講解説教に入り、先週は、洗礼者ヨハネのことがまず出てきました。8節には、「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」という、洗礼者ヨハネの言葉が記されていました。
主イエスが聖霊で洗礼を授けると語られているのに、なぜこのとき、主イエスの方がヨハネから洗礼を受けておられるのでしょうか。
同じ出来事を記したマタイによる福音書3章14、15節には、洗礼前の主イエスとヨハネのやりとりが記載されています。
「ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。』しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。」と、いうものです。
このように、洗礼者ヨハネも、主イエスに洗礼を授けることに戸惑いを覚えています。しかし主イエスが言われた通りに洗礼を授けたのです。つまり、主イエスご自身が洗礼を受けることを望まれたのです。「正しいことをすべて行う」と、主イエスは言われています。
「すべて」という言葉からすると、主イエスが洗礼を受けられるというこの一つの出来事だけが言われているのではないことは明らかです。この時の洗礼も含め、これから起こる一つ一つの出来事のことすべてを指して主イエスは言われているのです。
マルコによる福音書1章9節以下では、淡々と主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたと記しています。主イエスのこの時の洗礼は、救い主として十字架へと向かう出発の任職式であると考えられています。主イエスの洗礼がなぜ任職式なのでしょうか。旧約聖書の詩編2編7節に、主が行った任職の記事が記されています。その時の言葉が、「お前はわたしの子。今日、わたしはお前を生んだ。」というものです。
今日のマルコによる福音書1章11節に記されている、主イエスが洗礼を受けられた際に、天から聞こえてきた、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉と同趣旨のものです。
マルコによる福音書1章9節に記されているとおり、主イエスは、ガリラヤのナザレという町で育ちました。自分が救い主としての使命に召されていることはすでに明確に分かっておられたと思われます。しかし、いつその歩みを始めるのか、「神の子イエス・キリストの福音の初め」の時を待ち続けたのです。
そのような中で、洗礼者ヨハネが現れ人々に洗礼を授けている。そして主イエスはその出来事の中の一人として、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた。そして、イエスには神の声が直接的に臨んだのです。ここで主イエスは救い主として任職され、神の福音を宣べ伝える歩みを開始されたのです。主イエスが受けられる洗礼は、他の人たちとは大きな違いありました。主イエスは、特別な使命に召されているからです。
マルコによる福音書の10章35~45節には、主イエスご自身が、「洗礼(バプテスマ)」という言葉を使われている箇所があります。どのような時だったでしょうか?
35節で、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが、「(主イエスが)栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」と、主イエスに言いました。それに対して主イエスは、38節で、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼(バプテスマ)を受けることができるか。」、39節では、主イエスが「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼(バプテスマ)を受けることになる」と仰っています。
それから、12人の弟子を呼び寄せて、45節で「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」と言われています。そうしてみると、「わたしが受ける洗礼(バプテスマ)」とは、主イエスの受難のことを指し示していることが分かります。主イエスの受難を英語では、Passionといいます。多くの人の罪が赦されるように、自分が十字架で命を献げること、これが主イエスの「洗礼」なのです。
3.天が裂ける
10節には、「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。」とあります。ここに「天が裂けて」という表現が出てきます。これはいったい何のことでしょうか。
先ほど聖書朗読していただいた、イザヤ書第63章19節は、イスラエルの人たちの祈りの言葉です。「あなたの統治を受けられなくなってから、あなたの御名で呼ばれない者となってから、わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように。」という言葉です。イスラエルの人たちには、天が閉ざされてしまった。神さまの顔が見えなくなってしまった。御顔を見ることができるように、その天を裂いて降りてきてください、という祈りの言葉です。
この祈りが聞かれたかのように、主イエスが洗礼を受けられた時、天が裂けたのです。天が裂けた、天が開かれた、裂かれた天から声が聞こえてきたのです。
10節の「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」というのは、天からの喜びの言葉です。わたしたちが洗礼を受ける時も、同じ喜びが天にもあります。
洗礼を受けた私が喜んでいる、教会員の皆さんが喜んでいる。そういう喜びももちろんあります。しかしそれだけではありません。何よりも天に喜びがあるのです。
天と地にはおおきな隔たりがありました。しかし天が裂けて、天地が結ばれる。
その出来事が洗礼において起こるのです。
もう一箇所、「裂ける」という言葉が使われている箇所があります。
主イエスがまさに十字架にお架かりになっている場面です。マルコによる福音書15章37-39節で、は、「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」と記されています。
それまでは、神殿の垂れ幕は、とても分厚い幕で、その幕の内側には誰も入ることができませんでした。神がここにおられるのではないか、と考えられていた場所で、年に一度だけ、大祭司と呼ばれている人だけが入ることの許された所です。
そういう分厚い幕が、主イエスの十字架での死とともに裂け、今まで神と人を隔てていたその垂れ幕が「裂けた」のです。主イエスが救い主として、してくださったということは、この隔ての壁を取り除いてくださったことなのです。
主イエスの洗礼の時に、天が裂けて、天地の隔てがなくなりました。その幕がもはや不要になりました。そして、主イエスの十字架の時には、神殿の垂れ幕が裂けました。
神と人とが直接結びつくことができるようにしてくださいました。
それが「裂ける」という言葉の持っている意味です。
4.洗礼による私たちの歩み
ある方が、洗礼に関してこんなことを言っているのを聞いたことがあります。
「洗礼は、受けた者勝ちです。表面的に少し水をかけられるだけかもしれません。しかしそれだけで、神から霊を受け、罪赦されて、新しい人に生まれ変わる道を歩み出すことができます」。というのです。その通りだと思います。損することは、何もないと言っても言い過ぎではないでしょう。
主イエスが救い主としての任職を受けられ、その務めを最後まで果たしてくださいました。道なきところに道が拓かれました。私たちにとって、なんとも有難い道が切り開かれたのです。そして、主と共にご一緒に、光の中を歩んでまいりましょう。洗礼は、古い自分に死に、新しい人に生まれ変わることです。
それは何よりも、神と隔たっていた古い自分に別れを告げ、神と結びついた新しい人として生まれ変わることです。

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