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執筆者の写真金森一雄

主は羊飼い (詩編23:1-4 )

更新日:6月27日

本稿は、2023年1月23日(火)に開催された「東京神学大学2022年後期全学祈祷会」での説教原稿です。   東京神学大学大学院博士課程 1年 金森一雄


詩編23編1-4節(新共同訳)


1: 賛歌。ダビデの詩。

 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

2:主はわたしを青草の原に休ませ

 憩いの水のほとりに伴い

3:魂を生き返らせてくださる。

 主は御名にふさわしく

 わたしを正しい道に導かれる。

4:死の陰の谷を行くときも

 わたしは災いを恐れない。

 あなたがわたしと共にいてくださる。

 あなたの鞭、あなたの杖

 それがわたしを力づける。


(前言)

 ただいまお読みした詩編23編は、最も有名な詩編の一つです。イギリスの有名な説教家、ジョン・スポルジョンは、「これこそ詩編の中の真珠である」と絶賛しました。

 確かに、詩編23編は、心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、主を覚えて歩む人(箴言3:5)に与えられる魂の喜びが、とても美しく表現されているのです。


 多くの詩編では、人の心にある恐れや不安をテーマにしています。ところが、詩編23編には、そうしたものがありません。主なる神への信頼と、主によって与えられる魂の平安をテーマとした、ダビデの賛歌となっているのです。


 カール・バルトは、和解論の「神によって義とされた人間」の考察の中で、あなたは、詩編23編が真心から溢れ出て、正しく口にすることが出来ますか、と問いかけています。


(第一部)

 1節の、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」という、このダビデの言葉を聞いて、主イエスが、「わたしは良い羊飼いである。」「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10:10)と言っていることを思い出される方も多いと思います。


 このダビデの冒頭の言葉は、ヘブライ語では、「主」、「羊飼い」、否定形の「ない」と「欠けること」の四つの単語を続けて並べ、時制は未完了形を用いて表現していますので、「主は羊飼い。わたしには、何も欠けることがない状態が今も続いている。」と、とても簡潔で大胆な信仰告白をしているのです。


 ところで、ダビデの父親は、エッサイです。エッサイには、8人の息子がいました。末の子がダビデで、ベツレヘムで、父エッサイの羊の世話をしていました。既に、羊飼いの仕事を習得し、羊飼いが羊に対して持っていなければならない責任の重さと役割を知っていました。嘗て、ダビデは、サウル王の前で、獅子や熊に羊を奪い取られたら、追いかけて打ちかかって羊を取り戻す、猛獣が向かって来れば打ち殺す、と語っています(サム上17章)。


 ダビデは、自らの経験を元にして、主を自分の身近な羊飼いと例えることが、相応しいと思ったのでしょう。主は、自分の手の届かない存在ではなく、自分の隣を歩んでくださり、安全なところへと導いてくださる方だと、ダビデは確信していました。このような信仰告白をできる人は、知識だけではなく体験を通して主を理解していて、全幅の信頼を主においている人だけでしょう。


 続けて2節では、『休息』をモチーフとして「青草の原に休ませ」と「憩いの水のほとりに伴い」という二つの言葉をセットにしています。青草の原とは、緑の生え出ている原っぱのことです。また、中東やユダヤの地では、長い乾季が続きますので、遊牧生活をする羊飼いは、水が溜まっているオアシスに羊を導くことが求められます。か弱い羊は、お腹が満たされない時や、のどが渇いている時、また外敵への恐怖心が働く時には、水を飲みません。原っぱに伏して休息することはありません。


 ですから、2節では、羊飼いである主が、羊が休息できるすべての条件が整っているところに羊を導いた、ということを強調しているのです。羊飼いは、羊の為にそこまで気を配るのですから、魂の牧者である主は、ダビデのことをいつも気にかけてくださって、自分の荒野をさまようような人生の旅路においても、安全・安心が得られるようにしてくださると、ダビデは確信しているのです。


(第二部)

 ヘブライ語で書かれた文学作品の中で、頻繁に使われているレトリック(修辞法)の一つに、パラレリズム(parallelism)「並行法」があります。二つ以上の表現形式の言葉が、同一または類似していて、特定の語彙を強調するものです。詩編23編の3節では、この同義並行法を用いて大切なメッセージを伝えていますので、確認してみたいと思います。


 3節を御覧ください。日本語に翻訳された新共同訳聖書では、少し変形になっていますが、「魂を生き返らせてくださる」という言葉と、「わたしを正しい道に導かれる」という言葉が、パラレルになっています。そして、この二つのフレーズの間に微妙に挟んだかたちで、神による『義認』をモチーフとして「主は御名にふさわしく」という言葉を用いて強調しているのです。こうして、神の信仰義認が織り込まれているのです。詩編1篇6節には、「神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。」と記されていますが、正しい道、義なる道とは、「神に従う人の道」なのです。


 ダビデほど、大きな人生の失敗を重ねながら、何度も悔い改めて、主のもとに帰った人はいないでしょう。その都度、主の憐れみと慰めをいただいて、魂を生き返らせていただき、正しい道に導いていただいたのです。ダビデは、それだけ多く主に愛された人なのです。

 

(第三部)

 4節は、「死の陰の谷」を歩むという聖書箇所です。荒野を行く羊の姿が背景にあります。パレスチナには、「死の陰の谷」と呼ばれていた深い谷間が多くあって、羊の群が猛獣に襲われることもありました。羊飼いの少年ダビデの思い出としてそれが脳裏に刻まれていたのでしょう。ダビデにとっては夢物語でなく、まさに現実の恐怖でした。


 「死の陰」という言葉は、「深刻な闇」という意味を持っています。絶体絶命の状態を指します。ダビデがこの詩を詠んだ時は、敵に追われ、荒野を放浪していました。ダビデは荒涼たる大自然に目を向け、自分の人生に失敗が多かったことに涙しながら、神の前で言いようのない恐れを感じていました。しかし、ダビデは「死の陰の谷」をたどりながら、自分の罪が赦され、主が共にいてくださるということを発見したのです。


 ここでダビデは、自分の信仰をさらに豊かに表現しています。3節までは、主を三人称で表現していましたが、4節では、主を二人称の「あなた」に変えています。「あなたの鞭(むち)、あなたの杖、それがわたしを力づける。」と言うのです。主と自分の関係を「あなたとわたしの関係」として表現することによって、ダビデは主に近づき、自分の心の中の恐れを打ち消して、力ある主への信頼を強めているのです。ここでダビデは、災いが無いとか、無くなったと言っているのではありません。暗き谷間をたどる時も、神さまが自分と共にいてくださると言っているのです。それは何と大きな慰めだったでしょうか。


 『あなたの鞭(むち)』について、少し説明をさせていただきます。ヘブライ語の「シェベト(שֵׁבֶט)」が用いられています。「こん棒」、「杖」という意味で、羊に向かってくる獅子や熊などの猛獣を殺害することもできる武器の一つです。致命傷にならない範囲で人間に苦痛を与える目的で用いたり馬の調教に用いる革ひもをつけたような細い鞭ではないのです。『あなたの杖』とは、先がフック状になっている羊飼いの杖のことです。大切な羊が、群れから迷い出そうになった時に連れ戻すために用いられました。羊を一匹一匹数えるときなどにも、重宝して用いられていました。

羊飼いにたとえられた主は、ダビデを「こん棒」で敵から守り、ダビデを「杖」で群れの中に引き戻してくださる方だったのです。


(結言)

 わたしたちが、主から召かれて、東京神学大学で学んでいることは、確かなことです。日々神学を学び、祈り、安心して休息することができる環境、「青草の原や、憩いの水」に、主がわたしたちを導き、力づけてくださり、慰めと励ましを与えてくださっています。後期の学びも残すところあと一か月となりました。わたしたちがどのような困難な中にあっても、主はわたしたちの魂を生き返らせてくださり、わたしたち一人一人を正しい道に導き続けてくださる方です。慈愛に溢れた恵み豊かな主に、何としても従っていくことが出来ますように、ご一緒に祈り求めて参りましょう。


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