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執筆者の写真金森一雄

主の手にひかれて(マルコ14:32-42)

更新日:6月27日

本稿は、2022年9月4日(日)の伊東教会三位一体後第十二主日礼拝説教原稿です。





2022年9月4日(日) 三位一体後第十二主日礼拝説教

主の手にひかれて

マルコによる福音書第14章32〜42

讃美歌:136番「血潮したたる」、294番「恵みゆたけき」

神学生 金森一雄(東京神学大学大学院1年)

(序章)  

 本日の聖書箇所は、先ほどお読みいただいたマルコによる福音書第14章32〜42節です。「ゲッセマネで祈る」という小見出しがつけられています。本日はここから、主の手にひかれて歩む恵みについて、お話しさせていただきます。 

  

 人間イエスとしてのこの世での生涯は30年余りでした。主イエスは、ガリラヤ地方で、神の福音を宣べ伝え始め(1:14)ました。そして、マルコ8章以降で、主イエスは、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活する」と、ご自分の死と復活について、三度にわたって話されています(8:21、9:31、10:33)。この予告された出来事が、キリストの「受難」です。  

  

(第一部〜真の人としての苦しみと祈り) 

 ユダヤ暦では日没から一日が始まります。主イエスが、「この食事が最後になると預言された」、過越の食事(14:12)を弟子たちとともにとられました。当時の慣習からすれば夜の12時前には終えていたと思われます。最後の晩餐を終えて、深夜に、一同がゲッセマネに来ました。そして、主イエスは弟子達に、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」(32節)と言われます。 「座っていなさい」とは、当時裁判所や市役所などで用いられる言葉で「順番待ち」するというニュアンスがあります。

  

 そして、ペトロとヤコブとヨハネを伴われてゲッセマネの奥の方に進みました。すると、主イエスは「ひどく恐れてもだえ始め」(33節)ます。ここでマルコによる福音書は、聞き慣れない、恐れ、もだえるという、言葉を用いて、キリストの「受難」の出来事が始まったことを表現しています。そして、主イエスは、「わたしの心(プシュケー=魂)は死ぬばかりに悲しい」(34節)と、仰いました。人間が死に直面したときの極限状態で発するものです。わたしたちの心に訴えかけるような気がします。これは、罪あるわたしたちが、死の裁きの前で発する言葉なのです。

 最初の人アダムが罪を犯したことにより、人と神の世界が分割されました。そのため、すべての人間は、崇高な仲保者(仲介者)を必要とするようになりました。そして、神は、神自身と人間のために、最後の人としてキリスト・イエスを立てられたのです。そのキリスト・イエスは、人であると同時に神である、すなわち、真(まこと)の人であり真(まこと)の神なのです。


 主イエスが、人間の感情を表しているような場面は、これまでにもいくつか見られました。直近のことでは、主イエスがエルサレムに上ってくるときに、エルサレムの都が見えると、イエスが涙されました。(ルカ19:41)そのとき主イエスは、70年後のエルサレム神殿の崩壊を預言されて悲しまれたのです。


 ここゲッセマネにおいては、主イエスは、「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」(35節)と祈られます。そして、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。」と祈られます。


 アッバは、「お父ちゃん」とユダヤ人の子どもたちが用いる言葉です。そして、「あなたは何でもおできになります」「この杯をわたしから取りのけてください。」と、子なる主イエスが父なる神に祈られます。ここで用いられている「この杯」とは、苦しみの十字架のことであり神の裁きを指し示すものです。ここでイエスは、「神の怒りの杯」、神の裁きを取りのけてくださいと、祈られたのです。


 このとき主イエスは、この上なくつらく、苦しく、恐れもだえる、「神の怒りの杯」を飲むことを突き付けられました。十字架から降りて来て、その場から逃げ出してもおかしくありません。罪深いわたしたちを愛するが故に、十字架や裁きの杯がないような人間を救う道がないかと祈ってくださったのかもしれません。


 36節の後半をご覧ください。主イエスは、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られます。子なる主イエスが父なる神の前で、徹底した従順を示す祈りをしています。


 神のご計画に従って、子なる主イエスが十字架の苦しみと死と復活の道を歩み、わたしたち罪人の救いを成就するためには、このような苦しみを経験しなければならなかったことを主イエスはご存じです。 そして、 御心に適うことが実現していくと信じて、壮絶な祈りをされているのです。

 

 わたしたちの罪を贖う道については、すべてを統べおさめておられる父なる神に主権があることです。だからこそ、何でもおできになる父なる神に祈られたのです。わたしたちは、常に主に祈り求め、立ち返って、主にすがることしかできません。そして、主なる神は、最善の時に最善をなさる方なのです。それが真理であり、確かな道であり、どこへ行くかは分からなくても、それが苦しみに満ちた道に思えたとしても、信仰をもって主の手にひかれて歩むことこそが、恵みの道となることをわたしたちは信じているのです。




(第二部〜信頼と従順)  

 主イエスのゲッセマネの祈りは、死闘の祈りです。神であるキリストと子なるイエスが、一体になって、死に物狂いで、神によりすがって、真の人イエス御自身を神に献げるものでした。わたしたちへの神の愛を示す戦いでした。 2千年後に生きているわたしたち一人ひとりのことをも思い、弱さを抱えているわたしたちのために、戦ってくださったのです。この祈りは、わたしたちのための祈りでもあったのです。


 そして、その戦いの苦しみを乗り越えた主イエスは、真の人として、父なる神に全幅の信頼を置いて、栄光の十字架に向かって歩んでいかれるのです。 

 わたしは6年前にゲッセマネの地を訪問する機会が与えられました。エルサレムの東門を見通せるゲッセマネの園には、オリーブの木が群生しています。主イエスのゲッセマネの祈りを記念して観光用に整備されており、主イエスが倒れ込んで祈ったとされる大きな石が置かれています。そのすぐ隣には『万国民の教会』があります。会堂の天井と壁には、所狭しとばかりにゲッセマネの祈りの各シーンが描かれています。 

  

 その教会堂の真正面の祈りの場所に、主イエスのゲッセマネの祈りの言葉が書かれた板が置かれています。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことことが行われますように」というこの祈りの言葉が、各国の言語に翻訳されて掲示されています。勿論日本語もあります。  この教会を訪れた人々が、自国の言語で記されているこの祈りを確認しています。主イエスがされたように、倒れ込んで祈りを捧げる人も目にしました。わたしも倒れ込んで祈ってみました。このように、十字架に架けられる直前のゲッセマネの死闘として、2千年後の今もなお、多くの人に覚えられているのです。そのことによって、今を生きるわたしたちも、神にすがって歩む幸いの道をこの言葉を通して確認することができるのです。

(むすび〜今も続くゲッセマネの祈り) 

 主イエスのゲッセマネの祈りを終えて、主イエスが十字架に架かられ、わたしたちの罪の贖いをしてくださり、三日目に復活することによって、死に勝利して、わたしたちの救いを実現してくださるその時が来ます。


 愛には苦闘があります。苦闘のない愛などはありません。主の十字架の愛がわたしたちの心を深く激しくゆさぶり、どんなことがあっても主に従っていこうと決意させるのは、まさにこの祈りによるものです。主イエスは、わたしたちへの愛を示す戦い、父なる神への従順を示す戦いに、真正面から臨んで、実際に戦い抜いて勝利してくださいました。それだからこそ、主の御名は永遠にほめたたえられるのです。 主イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と栄誉の冠を授けられた(ヘブ2:9)のです。


 「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブ4:15)、「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」(ヘブ5:7)と、ヘブライ人への手紙に記されています。


 今やわたしたちは、永遠に主を信じて、救われるのです。それこそが、主の手にひかれて歩む恵みです。主イエスは、弱いわたしたち一人ひとりのことを覚えてくださり、わたしたちへの愛の故に、ゲッセマネの死闘を戦いぬかれたのです。だからこそ、主イエスは、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり(ヘブ5:8,9)ました。そして、すべての人間を救済する使命を完遂することができるのです。 


 さらに、「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」(ヘブ9:28)と、主イエスの再臨について記しています。

 

 今日もわたしたちは、主のお招きを受けてこの会堂に集って参りました。そして、主イエスが、わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたがたの苦しみを知っている。大丈夫。わたしに従いなさいと仰っていることを知るのです。だからこそ、今を生きるわたしたちが、主の手にひかれて歩む幸いな道を歩みつづけることができるのです。それが、今を生きるわたしの喜びなのです。


(祈り) 

 世界中の政情が穏やかならぬとき、感染症収束への道を未だ見出せず、わたしたちの周りでは、今日も、声にならない声や不安で溢れています。主よ、今この会堂で共に頭を垂れてあなたに祈るわたしたち一人ひとりをご覧ください。 憐れんでください。  

  

○わたしたちがお互いの悲しみや痛みを受け止めて、神の栄光をあらわすものとして用いてください。  

○わたしたちを憐れみ、コロナ後の新たな教会形成を続けていくことができますように導き続けてください。  

○わたしたちを、あなたを信頼して、主の手にひかれて、主の手にすがって歩むものとして祝福してください。  

しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。 

主イエスキリストのお名前によって、この祈りを御前にお捧げいたします。  



(讃美歌294番)

みめぐみゆたけき 主の手にひかれて

この世の旅路を あゆむぞうれしき

たえなるみめぐみ 日に日にうけつつ

みあとをゆくこそ こよなきさちなれ


さびしき野べにも にぎわう里にも

主ともにいまして われをぞみちびく

たえなるみめぐみ 日に日にうけつつ

みあとをゆくこそ こよなきさちなれ


けわしき山路も おぐらき谷間も

主の手にすがりて やすけくすぎまし

たえなるみめぐみ 日に日にうけつつ

みあとをゆくこそ こよなきさちなれ


世の旅はてなば 死のかわなみをも

恐れずこえゆかん みたすけたのみて

たえなるみめぐみ 日に日にうけつつ

みあとをゆくこそ こよなきさちなれ



  


  

  




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