本稿は、2022年3月27日の鎌倉教会での主日礼拝での奨励を取りまとめたものです。
【聖書】
旧約聖書 詩編30:9-11
9 主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐れみを乞います。
10わたしが死んで墓に下ることに/何の益があるでしょう。
塵があなたに感謝をささげ/あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。
11主よ、耳を傾け、憐れんでください。主よ、わたしの助けとなってください。
新約聖書 マルコ5:1-20
1 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。
3 この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。
4 これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。
5 彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。
6 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、
7 大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」
8 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。
9 そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。
10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。
11ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。
12汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。
13イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。
14豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。
15彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。
16成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。
17そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。
18イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。
19イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」
20その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。
【讃美歌228】
(1)ガリラヤの風 かおるあたり、
「あまつ御国は 近づけり」と、
のたまいてより いく千歳(ちとせ)ぞ、
きたらせたまえ、 主よ、 み国を。
(2)たたかいの日に いこいの夜(よ)に、
みくにをしたう あつきいのり、
ささげられしは いく千度(ちたび)ぞ、
きたらせたまえ、 主よ、み国を。
(3)憎み、あらそい、 あとを絶ちて、
愛と平和は 四方(よも)にあふれ、
みむねの成るは いずれの日ぞ、
きたらせたまえ、 主よ、み国を。
(祈り)
父なる天の神さま。
私たち一人ひとりをここに呼び集めてくださり、ありがとうございます。
東日本大震災から11年の歳月がたちました。この間ずっと、私たちに忍耐強い励ましと導きをいただいていることに感謝します。
またこの三年、パンデミックとなった感染症に脅かされましたが、多くのことを学ばせていただきました。そして今、ウクライナにおける戦争が世界中を巻き込み、平和を作り出さなければならない私たちにとって、憂うべき状況に陥っています。
主よ、私たちを憐れんでください。
これから御言葉を聴きます。主なるイエスさま。今朝もこの会堂の真ん中に、またZOOM礼拝で出席されている者の傍らに臨んでください。
聖霊なる神さま。私たちの心を静め、整えさせてください。今、この祈りの中で、共に頭を垂れている私たち一人ひとりに、慰めと、励ましと、導きを与えてください。
私たちは今、2022年度の新たな歩みを始めようとしています。
私たちに出来る事、私たちの誇るものは、あなたに祈ることです。
主よ、私たち一人ひとりを祝福してください、
「きたらせたまえ、主よ、み国を」と、祈ります。
あなたの前に跪いて悔い改めの祈りをいたします。
主のみ旨に従います。
あなたの御言葉を聞く者とさせてください。
この祈りを、主イエス・キリストのお名前によって、御前にお捧げ致します。
アーメン。
(はじめに)
今朝与えられました聖書箇所は、マルコによる福音書5章の1節から20節です。
1節に、「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」とあります。
マルコによる福音書3章14節で、主イエスが、12人の使徒を任命していますから、この一行とは、イエスと12人の弟子たちと考えてよいと思います。そして「湖の向こう岸」という、『湖』とは、先ほど賛美していただいたガリラヤ湖のことで、対岸の向こう岸に着いたというのです。
主イエスは、ガリラヤ地方で福音を宣べ始めました(マルコ1:14)。主イエスがなさっていることが周囲の人々に伝わり、おびただしい群衆が集まるようになっていました(マルコ3:8)。このため、主イエスは、群衆に押しつぶされないように、小舟に乗って、湖畔にたたずむ群衆に向かって語りかけていました。その日は、夕方になって、イエスが「向こう岸に渡ろう」(マルコ4:35)と言って、多くの群衆を岸辺に残したまま、弟子たちと共に船出しました。
そして、主イエスが『突風を静める』(マルコ4:35)という出来事に遭遇します。
湖の上で、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水浸しになりました。弟子たちは、漁師をしていましたから、天候を予測する事や舟の舵取りには慣れていたはずです。しかし、想定外の突風だったのでしょう。弟子たちは慌てふためいています。一方で、主イエスは、艫(とも)の方で枕をして眠っていました。弟子たちは、イエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言いました。
そこで、主イエスが起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ、静まれ」と言われると、突風と波が静まった(マルコ4:39)のです。こうして、主イエスの守りの中で、主イエスと弟子の一行は、ガリラヤ湖の東側の岸辺、ゲラサ人の住む地方に到着したのです。
ここから、今日の聖書箇所が始まります。
(悪霊に取りつかれたゲラサ人をいやす)
5章の2節では、「イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た」と記されています。
そして3節、4節では、「この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。」「度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷はくだいてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである」と記されています。
さらに5節では、「彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」と、この2節から5節の間で、福音書記者のマルコは、「汚れた霊に取りつかれた人」のことを詳細に記しています。
「汚れた霊に取りつかれた人」が、イエスが舟から上がられるとすぐにやって来たというのですから、その人と主イエスが偶然出くわしたのではありません。当時は、横穴式の墓場でしたから、人が住むこともできたと思われます。しかし、『墓場』は忌むべきところです。墓場に住むことや墓に入ることを人生の目的にする人は、いないはずです。
先ほどお読みいただいた、旧約聖書の詩編30編9節から11節では、
主に命を守られたダビデが、次のように主の助けを祈っています。
9主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐れみを乞います。
10わたしが死んで墓に下ることに/何の益があるでしょう。
塵があなたに感謝をささげ/あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。
11主よ、耳を傾け、憐れんでください。主よ、わたしの助けとなってください。
私たちクリスチャンは、主の憐れみをいただき、主の助けをいただきながら、御言葉を聞き、御言葉に従って、『今ここに生きる』使命が与えられています。『墓場』に住んでいたこの人は、異邦人のゲラサ人でしたが、それでも墓に住むというのは、やはり特別の事情があったのです。そうせざるを得なかったのです。「汚れた霊」は、取りついた人を人間同士の交わりから排斥しようとします。さらには、その人を神との関係から切り離そうとするのです。
今朝の聖書箇所の行間から、「汚れた霊」に取りつかれた人とその家族との関係を推測することができます。
3節に、「鎖を用いてさえつなぎとめることはできなかった」と、4節には、「鎖は引きちぎり足枷はくだいてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである」と、『鎖』という言葉を、それぞれ「つなぎとめる」、「縛る」、「引きちぎる」という動詞と重ねて、三度も用いています。
ここでは、『鎖』という言葉は、いずれも人間の「絆」を大切にする象徴的な言葉として用いられているのです。汚れた霊に取りつかれた人の家族の者たちは、その人を、何とか自分たちの傍において世話をしようと努力してきたのでしょう。『鎖』を用いて、この人を『墓場』に置きざりにしたというのではありません。ところが、この人には、『鎖』を引きちぎり足枷もくだいてしまうような、とんでもない力が、悪霊によって与えられていたのです。だからこそ、「もはやだれも、『鎖』を用いてさえつなぎとめることはできなかった」のです。
そして、5節では、「彼は昼も夜も『墓場』や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」と記されています。汚れた霊によって、家族からも世間からも引き離され、昼夜の区別もなく叫び声をあげて、自らの体を傷つける自虐的な行為をしてしまうほど、恐ろしく、悲しくて、惨めな状況に陥っていました。もはや、家族の手には負えなくなって、コントロール不能、お手上げの状態だったのです。
しかし6節では、「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し」た、とあります。『ひれ伏す』という言葉は、神の前に顔が地面につきそうになるほど身を低くして頭を下げる行為を意味するものです。人が礼拝をする行為を表します。汚れた霊に取りつかれたこの人は、主イエスが来ることを知っていてひれ伏したのです。
そして、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」(7節)と大声で叫びました。この、『かまわないでくれ』という言葉は、他の人との断絶を求める言葉です。汚れた霊に取りつかれた人を神から徹底して引き離そうとする悪霊が、主イエスを怖れて発した叫びで、8節には、悪霊がこのように大声で叫んだのは、「イエスが『汚れた霊、この人から出て行け』と言われたからである」と、その理由を記しています。
ここからは、完全に主イエスのペースとなります。汚れた霊どもは複数形を用いて本性をさらけ出しています。主イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」(9節)と答えます。悪霊が名を明かしたことは、犯罪人の自白と同じです。主イエスに対する敗北宣言です。
10節では、『自分たち』をこの地方から追い出さないように」と、主イエスにしきりに願いました。そして、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」(11節)と、イエスに願い出ます。「主イエスが、それをお許しになったので、『汚れた霊ども』はその人から出て、豚の中に入った。すると、2千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ」(13節)のです。
悪霊たちの名前は、レギオンでした。レギオンという言葉は、鉄砲がまだなかったローマ王政の時代から『6千人もの軍勢からなる連隊』という意味で使われ始めた、由緒あるものです。当時は、歩兵の人数の多さで戦いの勝負が決まりました。数千人の歩兵が進むドッシドッシという足音と一人ひとりが身に着けている防具(甲冑)がこすれるキシキシという音が重なって聞こえて来る気がします。ローマ軍は、圧倒的な歩兵連隊の陣容とその音を誇示して周囲を怖れさせ領土を広げたのです。
このレギオンという名の汚れた霊どもの願いを、主イエスが受け入れたように見えますが、さて悪霊どもがこの人から出て豚の中に入った結末はどうなったでしょうか。2千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、豚と共に悪霊は死んだというのです。
この時の主イエスの悪霊退治には、2千匹もの豚の命が犠牲になりました。神の裁きは、これほどまでの犠牲を伴う厳しいものなのです。私たちは、主イエスが十字架に架かってくださったことを知っています。『悪霊に取りつかれたゲラサ人のいやし』の出来事は、まさに、主イエスのいのちが犠牲となる十字架の出来事によって、汚れた霊が私たちを翻弄する時代が終わることを、指し示しているのです。
異邦人のゲラサ人たちは、「レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった」(15節)のです。この人がいやされたことを喜んでいる様子は聖書に記されていません。何故でしょうか。豚2千匹を一気に失った経済的損失は相当なものです。彼らは、主イエスによって、自分たちが安定していて平穏だと感じている日常生活を、ひっくり返されるのではないか、という不安を感じて、恐ろしくなったのです。主イエスに「その地方から出ていってもらいたい」(17節)と言ったのです。ゲラサ人の救いの時ではなかったのです。
人々のこうした反応を知ったイエスは、ガリラヤ地方に戻るために、舟に乗られました。すると「悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った」(18節)のです。しかし、イエスはそれを許さず、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」(19節)と命じました。
主イエスのこの言葉は、何と、憐み深く慈愛に富んだものでしょうか。
汚れた霊に取りつかれた人を自分たちのそばにいてほしいと願って、足枷や鎖まで用意した家族や身内の人たちのことを、主イエスは覚えてくださっていたのです。
汚れた霊に取りつかれた人の家族が、これまでどれほど辛い思いをしてきたのかを主イエスはご存じで、憐れんでくださったのです。
そして、イエスに従おうとしたこの人に、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」と仰ってくださったのです。
そして、主イエスに命じられたとおり、この人は、主が自分を憐れんで自分にしてくださったことをことごとく身内の人に知らせ、デカポリス地方に言い広め始めたのです。そして、人々は皆驚いた(20節)のです。
(世界に平和と希望と喜びを)
ここで、少しばかり脱線して、デカポリスについて話をいたします。
デカポリスのデカとは、ギリシャ語で数字の10です。ですから、『10の都市(ポリス)』という意味です。紀元前63年に、ローマ軍のポンペイウスがエルサレムを征服しました。その時に、パレスチナ内にあったギリシャのヘレニズム文化が色濃かった町々を一つの都市同盟(デカポリス)として統合した歴史があります。ローマは、デカポリスに税制上の優遇措置までしました。
デカポリスの大半の町々はガリラヤ湖とヨルダン川の東南地域に広がっています。ユダヤ人たちが日常用いていたアラム語の文化圏にありながらも、ギリシャ語を話す移民の人たちを多く引き受けて、ヘレニズム文化の影響をユダヤ社会に与えた異邦人の地となっていました。そのような背景があって、この聖書箇所でもユダヤ人が忌み嫌って食べることのなかった『豚』の大群や『豚飼』が登場しているのです。そして、ユダヤ人の反ローマ精神を呼び起こすような、由緒あるローマ軍の連隊を指す「レギオン」という名の悪霊がいたのです。
不信仰な私は、弟子たちが命の危険を覚えるほどの突風の中を渡っていったのに、たった一人の悪霊に取りつかれた異邦人のゲラサ人を救ったのか、そして、一人の人に取りついた悪霊を追い出す代価として2千匹もの豚の命を失ったのかと、知らず知らずに人や命の数の大小や経済合理性の比較をしてしまう愚か者で、罪深い者です。
こんな私に対し、主イエスが、「大切なことは数ではないよ」「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、もっと大きい」「一番大切なことを見失わないように」「わたしはあなたを救うために十字架に架かった」のだからと、諭してくれます。
今日の聖書箇所では、悪霊に取りつかれて家族から引き離されていた一人の人を救うために、2千匹の豚の命が犠牲となりましたが、主イエスの思いはそこに止まるものではありません。ヨハネによる福音書3章16節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と記されています。一人の人から悪霊を追い出して、主なる神さまに従う者とすることは、他の何ものにも代えられない大切なことで、福音の原点です。主イエスが十字架に架かってくださったのは、まさにそのためなのです。
私は45歳までこの世の足枷に縛られて東京砂漠で働いていました。大手町、虎ノ門、新橋そして恵比寿といった青山霊園の周辺のビジネス街で働き、仕事を終えると、ネオンが一晩中消えない赤坂や六本木で夜を明かすことも度々ありました。そんな私の所にも、主イエスは来てくださいました。そして、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2:17)という御言葉を聞き、自分が霊的な病人であることに気が付き、イエスに従う者となりました。その時、主イエスは私に、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」(マルコ5:19)と言われました。それから、教会で出会う人々や自分の血縁の家族はもとより、会社で働く同僚や先輩、お客様などを、主が私の家族・身内として加えてくださいました。
主イエスの救いに与かった私たち一人ひとりは、主イエスに召された者として、主イエスに遣わされた者として、主の助けをいただきながら、主に従って生きる者となります。そして、主から召された人々の集まるところが教会です。私たちは、主に遣わされた人の群れ、主の家族を形成する者に加わります。私たちは、互いに兄弟・姉妹と呼び合って信仰生活をします。しかし、私たちは今もなお生きた罪深い人間です。教会においても、隣に座っている人に対して、「こんな人は嫌だ、自分とは馬が合わない」などと感じて、隣人を批判して自分から遠ざけてしまう行動をとってしまうことが間々あります。時には、『かまわないでくれ』(7節)と言ってしまうかも知れません。私たちには主の家族としての甘えもあるのでしょう。
そのような不信仰な者、不完全な者でも主が憐れんでくださって、主が私たちを生かしてくださり、主のご用に用いてくださるのです。私たちは、自分一人の力だけでは何もできません。しかし、「人間にはできないことも、神にはできる」(ルカ18:27)のです。私たちの罪のために、主イエスが十字架に架かってくださったのです。主イエスが憐れんでくださり、私たちに信仰を与えてくださり、主に祈る者へと変えてくださったのです。
レントのこの時、主の十字架を見あげて、主イエスに感謝の祈りを捧げましょう。大胆に主イエスの前に進み出て、主に憐れみを乞い、主の助けをいただきながら、互いに愛し合う者へと成長させていただくよう、祈り求めましょう。主イエスは、私たち一人ひとりを主の必要な所へ派遣してくださっているのです。私たちは、今ここに生きているのです。自分にとっての最初の一歩は、小さな働きに思えるかもしれませんが、身近な隣人と愛し合うことからすべてが始まるのです。
主が、私たちを「世界に平和と希望と喜びを」伝える者として用いてくださいます。その結果については、神が責任を持ってくださいます。私たちが気付こうが気付くまいが、私たちは主のご計画の中で生かされていて、主が世界を統べ収める中で私たちを用いられるのです。異邦人の地、デカポリスで起きたことが、この地でも起こるのです。そして、人々は皆驚ろくのです。
最後に、マルコによる福音書16章15節から17節の、主イエスが弟子たちを派遣する言葉をお読みします。
全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。
信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。
信じる者には次のようなしるしが伴う。
彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。
(マルコ16:15~17)
(祈り)
神さま。レントのこの時、今朝も御言葉を聞かせていただき感謝します。
私は、この世の多くの偶像に惹かれてしまう愚かな者であることを告白します。
悔い改めの祈りを捧げます。私の不信仰とかたくなな心をお赦しください。
あなたが、私たちから悪霊を追い出し、聖霊を降り注いでくださっていることに感謝します。あなたの隣人を愛しなさという御言葉を感謝します。
私たちの身近にいる人から愛する者とさせてください。
そして私たち一人ひとりを「地の塩、世の光」(マタイ5:13)として、「世界に平和と希望と喜びを」伝えて、平和を実現する者として用いてください。
アーメン!
【讃美歌276】
(1)光と闇とのゆきかうちまた
いずれのかたにか つくべきわが身
燃えたついのちを みまえにささげ
今しも行かばや まことの道を
(2)ほまれとさかえを うくるはたれぞ
ときわのかむりを うくるはたれぞ
義を見ていさめる ますらおなれや
臆するものには 悔いのみのこる
(3)血潮に染みたる 悩みの道を
十字架の御旗を かざして進み
険しきカルバリ おおしく過ぎて
あめなるみくにへ 先がけのぼらん
(4)この世の勢い みなぎりあふれ
悪魔のつるぎは はむかいくとも
いかでか阻みえん 光のみくに
仰げや わが主は みくらにいます
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