パン屑(くず)(マルコ7:24-30) 20250119
- 金森一雄
- 1月19日
- 読了時間: 9分
更新日:2 日前
本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年1月19日降誕節第4主日礼拝での説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄
(聖書)
サムエル記下 7章8~17節(旧490頁)
マルコによる福音書 7章 24節~30節(新75頁)
1.シリア・フェニキアに向かう主イエス
主イエスは、「時は満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:14)と言って、ガリラヤ湖周辺のユダヤ人教会で伝道を始めました。ところが、ファリサイ派や律法学者たちは、自分たちの言い伝えを大事にして神の掟、主イエスの御言葉をないがしろにしたばかりでなく、主イエスを殺そうとまで相談し始めていました(マルコ3:6)。
そうした中で、多くのユダヤ人たちが主イエスを信じ、イエスの衣のすそにでも触れた者は皆いやされました(マルコ6:56)。まさに神の国が実現したしるしが見られていました。
そして24節では、主イエスがガリラヤを立ち去って、ティルスの地方、異邦人の地へ行かれたと書かれています。そこは、北方のレバノンの漁村です。そして、「だれにも知られたくないとおもっておられたが、人々に気づかれてしまった。」と書かれています。
それまで主イエスが異邦人の地に足を踏み入れたのは、悪霊レギオンに取りつかれたゲラサ人をいやした事例一件だけでした(マルコ5:15)。今回、主イエスが、異邦人の地レバノンに行かれたのは、そこにも神のご計画があったのです。
2.シリア・フェニキアの女
主イエスの評判は、すでにガリラヤ湖の北方レバノンにまで達していたようです。
25節に、「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した」と書かれています。そして、26節には、「女はギリシャ人でシリア・フェ二キアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。」と書かれています。
ここで、「来て」と書かれていますが、聖書のキーワードの一つです。
神のもとに来たという意味です。私たちが今朝のこの礼拝に参加していることに例えれば、あなたがたは教会に来て、主の言葉を聞き、主を賛美した、と神が仰っているのです。
教会に行って礼拝したという表現は、礼拝に出席していない外側から語る言葉です。
さらに、その後の「ひれ伏した」というのは、信仰者の謙遜な姿を表わしたものです。
ギリシャ人でシリア生まれのこの女性とは、一体何者なのだろうかと思わされます。
共観福音書のマタイ15章22節(新30頁)をご覧ください。
「すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。と書かれています。
マタイの記述とマルコの記述を重ね合わせてみますと、マタイで「この地に生まれた」というのは、「シリア・フェニキア生まれ」と書いているマルコと同じ趣旨です。
次に、マタイでは「カナンの女」と書かれていて、マルコでは「ギリシャ人」だと書いています。カナンは、ガリラヤ湖の西側で、地中海とヨルダン川・死海の間の地域です。
神がイスラエルの民に与えると約束した土地です。申命記6章3節などで「乳と蜜の流れる場所」と描写されています。
また、この女性は、マタイではカナンの女でもあり、マルコではギリシャ人だというのですから、そのことを矛盾なく説明できるのは、この女性の父親がギリシャ人で、母親はカナン出身のユダヤ人だということになります。
子供の言葉や信仰は、母親に強く影響されます。ですから、そのカナンの女は、ギリシャ人でシリア・フェニキア生まれの女と同一人物ですが、母親の信仰を継承していたので、主イエスの前に出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」と、叫んだのでしょう。イエスを「主」と呼んでいるということは、イエスが神である事とイエスの力、そしてイエスの権能を信じています。さらに「ダビデの子」と呼んでいるのです。母親から、本日お読みいただいた旧約聖書サムエル記7章の「ナタンの預言」に書かれているダビデの王国について、生まれた時から学んでいて、イエスがダビデの子孫であり、メシヤ、救い主であるという信仰を持っていて、そのことを告白したのです。
3.異邦人伝道の幕開け
主イエスの返事は27節です。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。」と、ユダヤ人たちを子供たちといい、異邦人を「子犬」にたとえて仰っています。
「まず、子供たちに」と主イエスは言われました。確かに、神はイスラエルに最初に福音を与えられました。子供たちとは、イスラエルの人々を神の子供とされていることです。
しかし、イスラエルはただ最初であったに過ぎません。なお、後に続く異邦人たちがありました。異邦人を家族のようにしている子犬にたとえていることは本当に慰めです。子犬たちのためにもパンは残されていることを示唆しているのです。
犬は、イザヤ書56章11節では、神を畏れぬ者として、「この犬どもは強欲で飽くことを知らない」という用いられ方をしています。今日のような人間に愛される番犬ではなく野犬を意味します。雌犬というと、今日のbitch(雌犬、売春婦)と同じ内容で用いられ、恥知らずなずうずうしい女を意味します。
ですから、犬とか雌犬にたとえられることと、子犬といわれることでは、天と地ほど違ってきます。子犬は、人に飼われている家畜の子供という意味だからです。
28節のこの女性の答えを見てみましょう。「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます。」というのです。シリア・フェニキア生まれのカナンの女は、イエスをダビデの子、主と呼ぶ信仰を持っていました。主よ、とまず主の主権を信仰告白して、主イエスが言われた子供と子犬の関係のたとえを、そのまま謙虚に受け入れています。
そしてさらにへりくだって、子犬である自分たちはユダヤ人である子供たちが投げ捨てた「パン屑はいただきます。」とまで言って、主の憐みを乞うたのです。
そして29節には、主イエスが「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」と仰っています。
この女性の主への従順と何よりも謙遜な姿は、ガリラヤ湖周辺で見られたファリサイ派や律法学者たちのかたくなな姿とは、まったく異なるところにありました。
主イエスは、この女性の謙遜で前向きな信仰を認めてくださったのです。
このシリア・フェニキア生まれのカナンの女性について、多くの方がいろいろな受け止め方をしています。
山上の説教のマタイによる福音書7章7、8節の、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」という聖書箇所を引用して、悪霊に取りつかれた娘を思いやる母の、娘に対する救いと希望を求め続けた粘り強い情熱と行動こそを主イエスが認めてくださったと、この女性を称賛する人も多いのです。
4.祝福と救い
先週の1月13日(月・祝)に、Kさん(2024年4月誕生)の幼児祝福式を執り行いました。Kさんは、教会員のIさんご夫妻の初孫として与えられ、この幼児祝福式は、Iさんのたっての祈りでした。Kさんのお母さんは、Iさんのお嬢さんで白百合幼稚園の卒園生です。
幼児祝福式は、日本古来の慣習である七五三にあたるものとして日本の教会が作り出したものです。どこの教会でも、教会の関係者に与えられた赤ちゃんが初めて礼拝に出席すると、会衆の皆さんに紹介して、そこで牧師がお祈りをして神の祝福を祈ってお祝いさせていただいています。
幼児祝福式の聖書的な根拠は、マルコによる福音書10章13-16節(新81頁)です。
「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と書かれています。
そして主イエスは、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福されています。
幼児祝福式では、幼子Y.さんを神の御手に委ね、神の祝福を祈りました。
すると会堂全体が聖霊に包まれて、主のご臨在に接することが出来ました。
ところで祝福と洗礼とは異なります。
洗礼は、人間の救いの約束であり、その契約は、主イエス・キリストのみわざを通じて神と教会との間に交わされているものです。洗礼を受けて教会員になることによって救いに与るものです。幼児祝福式のように、信仰の継承の大切さが語られ、自分たちの信仰が受け継がれることを求めて、幼児洗礼が行われることがあります。
しかし、信仰は財産ではありません。神の救い、惠みとして、一人ひとりにそれを受取る信仰が神から与えられるものです。そのため幼児洗礼を受けた人は、後に本人の信仰告白が求められ、堅信礼を行って教会員として受け入れられています。
洗礼を受けて教会員になるという道筋においては、説教聴聞が何よりも大切です。信仰が分かると言うことは、説教が分かるようになることです。神の救い、惠みの出来事なのです。
先週の週報で、2025年4月20日の復活祭洗礼入会式の案内を予告させていただきました。志願者は、教師に申し出をしていただきます。
志願者ごとに、役員会では、洗礼志願者の助け手として「教保」を選びます。教保は、教師に協力して洗礼志願者を役員会試問、洗礼入会式へと、神の招きの中をご案内いたします。
洗礼を受けると言うことには、それに含まれているこのような大切な意味があります。
成人洗礼は、教会に入会することが同時に行われます。救いは個人的に起こることではありません。教会に与えられている救いの約束に与るということは、主イエス・キリストを頭とする教会に加入することによって起こることなのです。
このように信仰への決断は、ただひとり、自分が存在をかけてしなければならない厳しいものです。そして同時に、全世界を覆うキリストの体である教会の仲間入りをして、そのすべての仲間と一緒に救われるという恵みに与ることだからです。私たちは見えざる教会の教会員となり、同時にこの世界に散らばる目に見える各個教会の群れに加えさせていただくのです。
ですから、各教会で行われる洗礼入会式は、天までとどろき渡るお祝いの出来事なのです。その当事者はもとより、すでに洗礼を受けているものにとっても、信仰の原点に立ち返る、お祝いの時であり喜びの時となるのです。

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