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執筆者の写真金森一雄

わたしの道の光(マルコ4:21-25) 20241006

本稿は、日本基督教団杵築教会における2024年10月6日の聖霊降臨節第21主日礼拝での説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄 

 

(聖書)

詩編119編97~112節(旧964頁)

マルコによる福音書4章21~25節(新67頁)

 

1.ともし火がやって来る

 

今日も主イエスがたとえ話を語られています。

マルコによる福音書4章の21節に、「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。」と書かれています。ともし火というのは、オリーブ油を使ったカンテラのことです。電気のなかった時代の明かりとしての生活必需品でした。

ともし火は、人間が使う道具ですから、当然人間が持ち運びします。

21節には、「ともし火を持って来る」と書かれていますが、誰かがともし火を持ち運びすることを想定した翻訳です。聖書原典では、ἔρχεταιという表現がなされており、直訳すると、「ともし火がやって来る」というものです。ともし火が主語となっており、ともし火が火の玉のように自らやって来る、といった表現で書かれています。

 

本日、私たちに合わせて与えられている旧約聖書の箇所は、詩編119編です。

詩篇の中で最も長い詩で、8節ずつヘブライ語のアルファベット22文字でグループ分けした、合計176節(8節×22)で構成されています。

97節には、「わたしはあなたの律法を、どれほど愛していることでしょう。わたしは絶え間なくそれに心を砕いています。」と、詩人は真剣に神を尋ね求める求道心と神の御言葉に生きることの大切さを記しています。

そして、101節には「どのような悪の道にも足を踏み入れません。御言葉を守らせてください」と歌い、そういった文脈の中で、105節では「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」と歌っています。

 

この聖書箇所から、本日の説教題を「わたしの道の光」とさせていただきました。

御言葉によって道が照らされるのです。ここでは、わたしの歩みを照らす灯と言い換えていますから、自分がその灯を持って操っているというよりは、スポットライトのように灯が動いてやって来るように書かれているのです。

 マルコによる福音書4章21節で、「ともし火がやって来る」と主イエスが言われたのも、まさにこれと同じことです。

 

 2.御言葉の光を消すな

 

21節の後半で、ともし火は、「升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。」と主イエスが仰っています。

ここに出てくる、升と寝台(ベッド)と燭台は、当時のユダヤ人の家の中に必ずあった身近なものです。

 

升とは、小麦を量るためのものですが、升で上から覆ってともし火を消すことにも用いていました。狭い部屋の中でともし火を消すと、煙が立って、においが出てしまうので、ともし火に升を被せて一気に消していたのです。

寝台というのは文字通りベッドのことです。

燭台は、カンテラ(ともし火)の火を置くためのものです。カンテラの火を置いていないときには、燭台は寝台の下に収納されていたようです。

 

このように、このたとえは、当時のユダヤ人の生活習慣を前提としている身近な話です。

ですから、ともし火を下において、光が届かない状態となることを、升や寝台の下に置くという不自然なこととして敢えて記したのです。

ここで主イエスが言われているたとえの意味は明らかです。

せっかくやって来たともし火を消すな、光を輝かせよということに尽きます。

 

主イエスは、すでにこの地域ですっかり有名になっていましたが、すべての人から好意的に見られていたわけではありません。指導者たちは主イエスに対する反発心を持っていましたので、「あの男は気が変になっている」という噂まで流させていました。主イエスの家族もその評判を聞いたので、主イエスのことを取り押さえに来た(マルコ3:21)と書かれていたほどでした。

主イエスの弟子たちは、主イエスに従っていた弟子たちですが、周りのことを気にするところがあったとしても不思議ではありません。

主イエスの評判を気にしながら、人目を気にしながら、主イエスに従っていたのです。

 

その点では私たちも同じかもしれません。

キリスト者として歩みながら、キリスト者である自分に対する、他人からの評判が気になるのです。周囲の反応を気にして、御言葉の光を目立たないようにしてしてしまうことがあるかもしれません。

ですから主イエスは、ような私たちに、御言葉の光を消すようなことはするなと言われたのです。

 

そして、22節の「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。」という言葉を続けられたのです。

 

これは、私たちに対する主イエスの約束の言葉でもあります。

 

御言葉の光をいただいた私たちが、御言葉の種を、その光を消さずに照らし続けるならば、周囲から分からないままでいるということはあり得ない、必ず明らかにされる、と主イエスは仰っているのです。

 

その上で、主イエスは、23節で「聞く耳のある者は聞きなさい」と再び言われるのです。

 

3.自分の量る秤

 

24節では、最初に「また、彼らに言われた」と、主イエスの言葉が続きます。

そして、24、25節では、「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」と言われました。

これまで主イエスは、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われていましたが、24節からは、「何を聞いているかに注意しなさい」という、聞く耳を向ける対象に注目する、もう一歩先に進んだ領域に入っています。


24節の後半には、「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」と書かれています。

 私たちは誰でも、自分の「物差し」を持っています。自分や人、また何らかの事を自分の「物差し」ではかります。

マタイによる福音書7章1、2節に、同じような言葉が出てきます。

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」というのです。

ここでは「自分の量る秤」を、人を裁くように人に当てはめるということではなくて、本当に自分のことを量る秤として用いられるというのです。

 

だとすれば、皆さんは自分が量られる秤として、どのような秤を選ばれますか?


私なら、愛に満ち、憐れみに富たもう主イエスの秤を求めます。

「種を蒔く人」のたとえを思い起こしてください。「自分の量る秤」で量って受取ってみると、どうなるのでしょうか。

「種を蒔く人」のたとえを、実を実らせない自分は裁かれてしまう、自分は駄目なんだとマイナス思考の秤を用いて聞いたら、決して実りが与えられることはありません。


このたとえ話を聞いて、自分は恵みによって御言葉の種をいただき、よい土地にしていただいている、だから百倍の実りが与えられる、と主イエスのプラス思考の秤で受け取るなら、「更にたくさん与えられる」(マルコ4:24)というのです。

 

主イエスの御言葉の光を聞いて受け取っているかどうか、その光に自分が照らされ続けようとするかどうかで、それが決定的な分かれ目となります。

「あなたがたは自分の量る秤」で量られることになる、秤の選択をしたと主イエスは言われます。

その結果、「更にたくさん与えられる」と言われています。主イエス・キリストの秤を用いてください。それは、愛に満ちた途方もなく大きな秤なのです。 

 

25節の「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」という意味は、明らかですから説明も不要でしょう。

 

「種を蒔く人」のたとえ話を思い起こしてください。そのたとえでは、最初の三つのタイプの土地に御言葉の種が蒔かれましたが、いずれも実を結ぶことができませんでした。

しかし、良い土地では、神がかり的な百倍もの実を結んだのです。

 

今日の聖書箇所において、「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」という御言葉は、単に実りを結ぶものと百倍の実を結ぶものとの対比において、同じことを言い換えているのです。

 

私たちは自分のことを、価値がないと思っているかもしれません。

主イエスのたとえを聴いても、自分は「良い土地」ではないと思っている、自分は「小さな秤」に過ぎない、そう思っているかもしれません。しかし、私たちはキリストの十字架の血によって贖われ、罪赦されたのです。そのようにしてキリストの弟子にされた私たちなのです。私たちの秤は変えられたのです。キリストに与えられた神の秤を用いて量れば、さらにたくさんの実りとして、百倍もの祝福が与えられるのです。

そう考えるのが、信仰のなせる業なのです。

 

4.キリストの弟子

 

このように考えると、御言葉を聴き続ける私たち教会の姿が浮かび上がってきます。

主イエスの宣教は、当初から将来教会ができることを予測しているものでした。

だからこそ主イエスは、12名の使徒と呼ばれる弟子を選び、たとえを用いて神の国の秘密を教え導き、訓練しておられたのです。

 

エフェソ4章11節(新356頁)に、預言者、福音宣教者、牧者、教師など、神様に与えられた聖霊の賜物を行使する役割を担った人に付けられる呼び名が列挙されています。いずれもキリストの弟子の称号です。そして、毎週日曜日の礼拝に、私たちも同じキリストの弟子として、教会に集って御言葉を聞いているのです。

 

そのようにして、御言葉の光に照らされると、私たちの秤は、百倍もの祝福を量ることができる秤にされていきます。

そして、私たちは主イエスの恵によって祝福を受けて、多くの実を結んでいくのです。

 

杵築教会は、来る2024年11月1日に、創立135周年を迎えます。

 

そしてこれからも、神の福音を宣べ伝えていく教会(マルコ1:14)として、教会に集う私たち一人ひとりが、第一ステップ(ホップ)として御言葉を聞き、第二ステップ(ステップ)でキリストのともし火に照らされキリストの秤を用いさせていただきましょう。そして第三のステップ(ジャンプ)のときです。共に立ち上がって神様が与えてくださる百倍の実を祈り求めて参りましょう。





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