よろしい。清くなれ(マルコ1:40-45)20240609
- 金森一雄
- 2024年6月9日
- 読了時間: 10分
更新日:2024年9月27日
本稿は、日本基督教団杵築教会における2024年6月9日聖霊降臨節第4主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄
(聖書)
レビ記14章1節~9節
マルコによる福音書 1章 40節~45節
(説教)
1.重い皮膚病の人の謙遜さ
今日の聖書箇所には、重い皮膚病を患っていた人が出てきます。この話が大勢の人の癒しとは別に、わざわざこの箇所で単独で語られていることに注目しなければなりません。多くの人の癒しの業の一つに含めてしまうことのできない理由がこの出来事にあるのです。
私たちが用いている新共同訳聖書では、ギリシャ語原典のレプロースλεπρὸςを「重い皮膚病」と訳していますが、同じ新共同訳聖書でも古い時代の版では、「重い皮膚病」ではなく「らい病」と訳されていました。今日では、「ハンセン病」と呼ばれ、発症後、ゆっくりと進行する慢性感染症です。聖書の記述をよく読みますと、そこに記されているこの皮膚病と過去の病気だと整理されているらい病は、違うものだと考えられています。それゆえに、新共同訳聖書では「重い皮膚病」という翻訳に変更しました。新改訳の聖書では「ツァラアト」となっています。「ツァラアト」とは汚れという意味で、ヘブライ語の言葉そのままです。日本語に翻訳すると、違う意味合いになってしまうので、翻訳が難しいので元の音の響きそのままにしています。
ここでは病名が問題なのではありません。ここで語られているのは、病の癒やしではなく、旧約聖書で記されている、汚れている人の清めについてのことだということです。この時、主イエスに出会ったこの人は、他の人に感染するので、共同体の中で一緒に生活することができませんでした。
しかしこの人は、主イエスが来られるとひざまずいて願った(40節)のです。ひざまずいて願うという、謙遜で丁寧な態度で登場しています。マルコによる福音書には、たくさんの癒された人たちが出てきます。しかしこれらの癒された人たちが、癒していただく際に主イエスに対して何と言ったか、その言葉は記されていません。ところが、ここではこの人の語った言葉が記されていることに注目する必要があります。
40節です。重い皮膚病の人は、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言いました。意訳しないで正確に翻訳しますと、「あなたのご意志でしたら、わたしを清くすることがおできになります」となります。「あなたはわたしを清くすることができる」「あなたがそうお望みになるなら、私は清くされる。全てはあなたのご意志次第です」というのです。 謙遜な言葉で、主イエスの力への信頼と信仰が現れ出ている言葉です。
共観福音書のマタイ8章2節、ルカ5章12節においても同じ言葉です。「あなたのご意志でしたら」と記されていますので、その後の伝承の中で、それだけ大事なキーワードとなったと考えられます。「わたしを清くして下さい」という直接的な願いではないのです。
私たちにとって、「御心ならば」というのは大事な言葉です。
主の祈りでも、「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」と、私たちは祈っています。それぞれ何らかの自分の願いを祈ります。
その際に、私たちはいつの間にか自分の願いを押し通そうとしていることに気が付くことがありませんか。私たちは、知らず知らずのうちに、他の人に対しても自分の考えや願いを押し通そうとしてしまうのです。
神様に対しても自分の考えや願いを押し通そうとしてしまいがちです。
御心を尋ねない、御心に委ねていない者となっているのです。
そうなるとどうなってしまうのでしょうか。高慢という罪に陥るのです。
そして、私たちの祈りが独り言になってしまうのです。
しかし、神は人格的な方です。広い心をお持ちの方です。私たちは神と、心と心を通い合わせなければなりませんし、心と心を通い合わせることができるのです。どうしたら、心と心を通い合わせることができるのでしょうか。それは、他の人と心を通い合わせようとするときもそうですが、相手の心を聞いていくことです。相手が神様であれば、御心を問うということです。
あなたのご意志ならば、あなたの御心ならば、そのように尋ね求めていくことは、とても大切なことなのです。
2.主イエスの心
この言葉に対して、主イエスは何と言われたでしょうか。
41節です。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われました。
ここでマルコが記していることは、手を伸ばす、触れる、清くなるなどの動詞の言葉ばかりではありません。冒頭に、「深く憐れんで」と記されている言葉に着目してください。主イエスが重い皮膚病の人に行動される前の主イエスの感情が表現されている言葉です。日本語には、「はらわたが痛い」とか「断腸の思い」という言葉がありますが、それに似ています。主イエスは、はらわたが痛くなるような断腸の思いで、その重い皮膚病の人を深く憐れんで心が動かされているのです。主イエスは、自らの痛みを覚えて、その人に手を差し伸べて触れてくださったのです。つまり、主イエスは、それほどまでに強い感情を抱いて、自らの手を差し伸べて触れてくださる方であると、マルコは表現しているのです。
主イエスはその人に触れられて、「よろしい。清くなれ」と言われました。
この「よろしい。清くなれ」を正確に翻訳しますと、「わたしの意志だ。あなたは清くなれ」となります。つまり、重い皮膚病の人が、「あなたのご意志でしたら癒してください」と言ったのに対して、主イエスは「わたしの意志だ」とお答えになられたのです。その中に、主イエスの深い感情が込められていたことは、言うまでもありません。そして、42節で、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなったのです。
私たちが信じている神とはどのようなお方か。いろいろな答え方をすることができるかもしれませんが、その答えの一つが、神は人格的なお方であるということです。
人格的と聞くと、どのように思われるでしょうか。英語ではperson(パーソン)と言います。英語の辞書を引くと、personは人間とか、個人とか、そういう意味と並んで必ず人格という意味が載せられています。personという言葉と似ている、personality(パーソナリティ)は、個性とか性格という意味です。神様が人格的であるということは、神様が心をお持ちであり、感情をお持ちであるということです。
もちろん、人間の心とそっくりそのまま同じというわけではありません。 私たち人間は非常に感情に振り回されやすく、怒りを抑えることができなかったりします。一方では、悲しい出来事を見たのに何とも感じない、憐れみの心を抱かないといったような無関心な人間の心と同じではありません。 神様は何よりも、その心に愛のある方です。聖書でも「神は愛なり」と言っている通りで、神様はそのような人格的な方なのです。
神の独り子主イエスもまた、人格的な方で、心をお持ちの方、感情をお持ちの方です。福音書の中で、主イエスの感情が表現されている箇所がいくつかあります。主イエスが憐れんでくださったとか、何かに対して非常に憤られたとか、涙を流されたとか、そういう表現がいくつか見られます。
この世界では、なぜこのような悲劇が起こるのか、そう思わざるを得ない出来事もたくさんあります。私たち一人一人の現実の世界においても、そのような辛さや悲しみや苦しみが起こってきます。神様はその時、何をしておられるのだろうと疑ってしまうようなことがあるのではないでしょうか。神様は、どのような思いでこの世界の現実を見ておられるのだろうと思うことはありませんか。しかし、今日の聖書箇所から分かることがあります。神様は私たち人間を憐れんでくださっている。はらわたが痛い、断腸の思いで私たちをみておられるということです。
43節からは、この重い皮膚病の人が癒された直後の話が記されています。主イエスがこの人に対して、何も話すな、祭司のところに行け、ということを言われます。
どうして、主イエスは何も話すな、祭司のところに行けと言われたのでしょうか。
本日聖書朗読していただいた旧約聖書レビ記14章は、まさに汚れからの清めの儀式が語られています。その前のレビ記の13章45、46節で、汚れていると判断された人はどうしなければならないかが書かれています。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。
この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」というのです。汚れている者は、その汚れを人に移さないために、家族や仲間たちから切り離され、隔離されてしまうのです。そこに、汚れていると判定された人々にとって、病気とはまた別の、深い苦しみ悲しみがあったのです。
ユダヤ人社会では、当時も汚れているか清いかを判断するのは祭司の役割でした。汚れていると宣言するのも、清めの儀式をするのも祭司の務めでした。
マルコによる福音書1章の44節で、主イエスがこの人に、「ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」と言っておられるのは、旧約聖書で語られている清めの儀式を行いなさいと、言っておられるのです。主イエスは、重い皮膚病の人を清められ、旧約聖書で命じられていた清めの儀式を守るように指示されたのです。主イエスは、神様を信じることによる人間の義と人間の律法を守ること、を同時に実現されようとしたのです。主イエスは、律法や当時の社会風習を無視されなかったということです。必要なときには、主イエスは律法に従われているということを意味しています。これによって私たちは、主イエス・キリストによって、あわれみと力と知恵のすべてが合わせられたということを知るのです。
3.主イエスの十字架の予示
この清めの奇跡によって、重い皮膚病を患っている人と主イエスとの立場が逆転します。彼は町の中で人々と共に暮らすことができるようになり、45節には、「しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。」と書かれています。主イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所に、いなければならなくなったのです。
このことは、主イエスが、この人の汚れ、それによる苦しみや悲しみの全てを、この人に代わって背負って下さったことを言い表しています。この人の汚れを清め、神様のみ前に出て礼拝をすることができる者に回復して下さった主イエスは、この人の汚れをご自分の身に背負って下さった、汚れを代わって引き受けて下さったのです。
そして45節の後半には、自分が今かかえている病気や苦しみや悲しみをかかえている人々が四方から主イエスのところに集まって来たことが記されています。スーパー・ドクターが現れたかのように、主イエスに殺到したのです。この人たちは何を主イエスに求めたのでしょうか。単なる癒しを求め、本当の救いを求めたのではないことは明らかです。彼らの思いは、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」というのとは全く違うものです。人々は、単なる癒しを求めたのです。本当の救いを求めたのではありません。癒しや清めの業が独り歩きして伝わっていく状況を主イエスは見通しておられたのです。それゆえに44節で、あれほど厳しく、「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」とおっしゃったのです。
人々が癒しや清めのみを求めて殺到してくることは、主イエスの願っていたところではありません。主イエスは、神の国の福音を宣べ伝え、人々が悔い改めて福音を信じるために宣教を行い、その一環として癒しや清めの業をしようとしておられたのです。主イエスの本当の救い主としての姿は、罪や死や病に憤られ、深く病んでいるわたしたちを深く憐れんでくださる姿です。
それは、41節にあるとおり、主イエスは、わたしたちを深く憐れんで、手を差し伸べて触れてくださり、『よろしい。清くなれ』と仰ってくださる方の姿なのです。
そして、主イエスは一つの街に留まることなく、なおも先へ進まれます。カファルナウムという一つの街から、ガリラヤ湖周辺に活動の範囲を広げられ、さらに広がってエルサレムへ赴かれます。そして、エルサレムで主イエスは十字架にお架かりになります。本当の救いを成し遂げるために、十字架へと進んでいかれます。それが主イエスのご意志なのです。

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