本稿は、日本基督教団杵築教会における2024年8月18日の聖霊降臨節第14主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄
(聖書)
イザヤ書第49章24、25節(旧1144頁)
マルコによる福音書第3章20~30節(新66頁)
1.サンドイッチ構造
本日は、私たちに与えられた聖書箇所マルコによる福音書第3章20節の「イエスが家に帰られると」という言葉から説教を始めさせていただきます。
私たちが外での務めを終えて家に帰ることができるというのは、ほっとするひと時でもあります。普通ならば家というのは、そうしたくつろぐことのできる場所です。そうなるためには、建物ではなくその家にくつろぐ家族がいることも大切ですが、家族になることがそれ以上に大切だと仰っている聖書箇所です。
この時の主イエスの家は大変な状況でした。イエスの「家」とは、いったいどこだったのでしょうか。ここで主イエスが帰られた家とは、宣教の拠点としていたカファルナウムのシモン・ペトロの家であったと思われます。2章1節で、家に主イエスがおられた時、大勢の群衆が押し寄せてきたことが書かれていました。今回も、「群衆」がまた、主イエスのところへ押し寄せて、主イエスは息をつく暇も、食事をとる暇もなかったことが書かれています(20節)ので、この家とは、同じシモン・ペテロの家と考えることが自然です。
そして21節では、「身内の人たち」が出て来ています。「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」と、書かれています。
その「身内の人たち」とはいったい誰のことでしょうか。今日朗読していただいた聖書箇所は30節までですが、31節に「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。」とありますから、「身内の人たち」とは、具体的には主イエスの母マリア、そして兄弟たち、つまり主イエスの弟たちということになり、父ヨセフに関して言及はありません。おそらくもうすでに亡くなっていたのでしょう。
主イエスは長男で、家を継ぐという立場にありました。しかし、主イエスは、ガリラヤ湖周辺で伝道活動を開始して(マルコ1:14)、多くの人が集まっていた状況(マルコ3:8)ですから、「身内の人たち」からすれば、肝心な長男が家を飛び出して勝手なことを始めたように思えたのでしょう。しかも21節bには「あの男は気が変になっている」という言葉まで出てきます。これは「身内の人たち」が、人々から聞かされていた主イエスに関する噂なのでしょう。「気が変になる」という言葉には「自分の外に出る」という意味があります。自分があるべき領域に留まることができない状態を表します。悪い噂を聞いて、「身内の人たち」は、慌てて主イエスのところにやって来たのでしょう。
さらに22節では、「律法学者たち」も出てきます。「エルサレムから下って来た律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また、『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていたと、主イエスの力が、悪に由来するものだと批判をした悪い噂を二つも流していたのです。
今日の聖書箇所では、ベルゼブルと悪霊(22節)、そしてサタン(23節)という言葉が出てきます。「ベルゼブル」とは蠅(ハエ)のことで、律法学者たちが言っている「悪霊の頭」を意味していると理解すれば十分です。「ベルゼブル」という名前の由来は諸説あるようですが、一つ一つをここでご紹介しても有益ではないので、この程度の説明にとどめます。
この時の主イエスが置かれた状況は、「身内の人たち」と「律法学者たち」の間に挟まれ、さらには、「群衆」もいますから、主イエスは三つの異なるタイプの人たちに囲まれた、サンドイッチ構造の中にいる状態でした。
2.内輪争いのたとえ
こういう状況の中で主イエスは、一つのたとえを語られました。
23節です。「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。『どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。』」というのです。
神が天地万物、すべてのものをお造りになられましたが、この世には悪があります。神が悪を創造されたのでしょうか。そんなはずはありません。
悪そのものを神が造ったとは言えませんが、しかし悪が存在するのです。
私たちの生きている現実の世界にも、確かに何らかの悪の力が働いています。その力に圧迫されています。その悪はどこに由来するのでしょうか。
主イエスはこのたとえの中で、サタンの内輪争い、国の内輪争い、家の中での内輪争いという、三つの内輪争いについて語られています。なぜこの世界がちっともよくならないのか、それは相変わらず数々の内輪争いが続いているからだと言うことなのです。
人間の歴史の中で、科学の力が進化して、人間の理性の力が加わり、新たなことがどんどんと解明・開発されていく、世界がどんどん良くなっていく、と楽観的にとらえられていた時代がありました。ところが、大きな世界大戦が起こり、人間が多くの悲惨な出来事を次々と引き起こし、そうした楽観ムードが消え去りました。なぜ少しもよくならないのか。それは、この世界が悪と悪で内輪争いをしているようなものだからです。結局のところ、どっちが勝ったとしても、悪は悪でそのまま残るのです。
3.悪に勝利される主イエス
聖書には、悪の由来うんぬんというようなことは、ほとんど語られていませんが、悪がどのように退けられるのかというう解決方法が語られています。
27節で主イエスは、「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」と言われています。物騒なたとえが語られていますが、悪を本気で断つには、悪が内輪争いをするようにしてではなく、根こそぎ払わなければならないというのです。
ここに、主イエスの十字架と復活のすべての意味が込められています。
キリストが戦われる悪や罪や死との戦いとは、主イエスの命懸けの戦いであり十字架で命を落とすほどの戦いであるということを指し示しています。
キリストは、十字架で死なれ、戦いに敗れてしまったかのように見えました。しかしキリストは甦られました。内輪争いでは達成することができなかった、勝利をもたらしてくださったのです。
本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、イザヤ書49章24節の「勇士からとりこを取り返せるであろうか。暴君から捕らわれ人を救い出せるであろうか。」という、イスラエルの人たちの嘆きの言葉です。ここでは、暴君から捕らわれ人を救い出すのは不可能だ、といっているのです。
しかし25節で、「主はこう言われる。捕らわれ人が勇士から取り返され、とりこが暴君から救い出される。わたしが、あなたと争う者と争い、わたしが、あなたの子らを救う。」という、神の御声が聴こえて来るのです。
主イエスの十字架の戦いも同じでした。人間では不可能だった、誰がそんなことできるだろうか、と言わざるを得ない状況の中で、主イエスが戦ってくださり、主イエスが私たちに勝利をもたらしてくださったのです。
4.聖霊に由来する力
たとえは27節までで終わり、28節で「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。」と続いています。
「はっきり言っておく」と言う言葉は、原文では「アーメン(確かに)」と記されています。主イエスが大事なことを言われる際に使われる言葉ですから、
「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。」という約束の言葉が強調されて記されているのです。
29節には、「しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」という言葉が続いています。この言葉を聴くと、不安になるかもしれません。果たして自分はどうなのだろうか、自分は聖霊を冒涜する罪を犯していないと言えるのだろうか、そう思われるかもしれません。しかしながら、そのように考えることは、主イエスの勝利と恵を否定してしまうことになりかねません。
聖霊を冒涜することが、そもそも人間に本当にできるのか、不可能なのではないかなどと、あれこれと考えるよりも、ただ聖霊の力と導きを信じさせてくださいと祈るべきでしょう。聖霊は私たちの信仰生活のすべてを導いてくださいます。聖霊に導かれることによって、私たちは主イエスの語られる言葉、そのたとえが、分かるようになります。
30節には、「イエスがこう言われたのは、『彼は汚れた霊に取りつかれている』と人々が言っていたからである。」とあります。ここに「言っていたからである」という言葉遣いは未完了形で記されていますので、この動作はまだ完了していません。人々はずっと「汚れた霊に取りつかれている」と今も言い続けていると記しているのです。
ですからそうならないように、私は説教前に短く祈祷をしています。
聖霊のご臨在を求める祈りです。皆が御言葉を取り次ぐ者といっしょに説教を聴いて御言葉に耳を傾けたときに、神の恵みと導きを感じます。それが聖霊の力が働いて下さったことなのだと信じています。私たちが信仰を言い表すことができることも、主イエスを救い主だと告白することも、主に祈ることも、すべては聖霊の導きによるものです。
私たちは、29節の聖霊を冒涜することを気遣うよりも、むしろ28節の「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。」という言葉に注目すべきです。
主イエスの戦いの結果、もたらされる恵みがここにあるのです。私たちは信仰によって、感謝して、それを受け取ることができるのです。
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