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かたくなな心 (マルコ3:1-6) 20240721

更新日:9月27日

本稿は、日本基督教団杵築教会における2024年07月21日聖霊降臨節第10主日礼拝の説教要旨です。杵築教会伝道師 金森一雄 


(聖書)

エレミヤ書13章 1節~11節(旧1200頁)

マルコによる福音書3章 1節~ 6節(新65頁)

  

1.麻の帯のたとえ

本日、私たちに与えられた旧約聖書のエレミヤ書13章1-11節には、主がイスラエルの民を麻の帯にたとえています。預言者エレミヤは、主が命じられることには、私たちに悔い改めを求めておられて赦しをいつも用意してくださっていることを知ることになりました。エレミヤは、どのような困難があっても生涯預言し続けた人で、主のおられることとの不思議さを感じる人です。

1節では、主がエレミヤに、麻の帯を買い、腰に締めよ、水で洗ってはならないと言われます。そして2節には、エレミヤは、主の言葉に従って、帯を買い、腰に締めた、とあります。ここに出てくる帯とは、祭司の服装に用いられた帯で、腰に巻く短いスカートのようなものです。預言者として麻の帯を腰に締めるということだということは分かったはずです。水で洗ってはならないというのです。汚れても洗濯してはならないという意味でしょう。それがどういうことかはよく分からないまま、エレミヤは、主の命じられたように、麻の帯を買い、身につけたのです。

 3節で、主が再びエレミヤに臨みました。これはエレミヤが最初の主の言葉に従ったので次の言葉を聞くことができたということです。従わなかったら次の言葉はなかったでしょう。

私たちは、聖書が言っていることがよく分からないとか、御言葉が頭に入って来ない、と思うことがよくあります。そうした場合は、もしかすると最初に語られた主の言葉に自分が従っていないからかもしれません。ご一緒に今の自分の状態を自己点検してみませんか。手順どおり最初のステップを踏まないと、次のステップに進めないということは、どのような場合にもあることです。

 4節で主は、エレミヤが腰に締めた帯をはずし、立ってユーフラテス川に行き、岩の裂け目に隠しなさい、と言われました。これには驚かされます。ユーフラテス川に行って、そこの岩の割れ目にその帯を隠せということは、常識的にはとても考えられないことです。エレミヤのいたエルサレムからユーフラテス川までは、大分、東京間の距離ぐらいで1000㎞も離れています。

エズラ記7章9節(旧731頁)には、ユーフラテス川の先にあるバビロンからエルサレムまで帰還するのに、当時四か月もかかったと記されています。エレミヤが、ユーフラテス川まで行くにも相当の日数を要したのは間違いありません。

5節でエレミヤは、主が命じられたようにユーフラテス川に行き、岩の裂け目に帯を隠します。さらに6節では、多くの月日がたって、主は、かつて隠しておくように命じた帯を取り出せと命じたというのです。

エレミヤは、主は常識を超えておられる偉大なる方と信じ切って、主が言われたとおりにしたのです。信仰とは、エレミヤのように常識を超えたことでも、主が語られたのだからと受取って従うことです。常識だから従うというのでは、信仰ではありません。エレミヤが神の人と言われる所以です。主が言われるとおりもう一度ユーフラテス川に行って、隠しておいた岩の割れ目から帯を取り出しました。

するとどうでしょう。

7節です。エレミヤが、岩の裂け目に隠しておいた帯を探し出すと、帯は腐って全く役に立たなくなっていたというのです。

9節には、傲慢という言葉が二度出てきます。ユダとエルサレムの傲慢を砕くと言われ、イスラエルの民が主の言葉に聞き従うことを拒み、かたくなな心のままにふるまい、他の神々にしたがって歩み、それに仕え、ひれ伏し、この腐った帯のように全く役に立たなくなったというのです。

 

ここに至って、エレミヤに確かな預言が与えられました。それは、イスラエルのバビロン捕囚の出来事です。バビロンという国はユーフラテス川の対岸にあります。ここでエレミヤは、ユーフラテス川まで2回も行かされました。実は、バビロン捕囚の出来事は2回にわたって行われています。第一回は、B.C.597年、ユダの王エホヤキムの時です。そして二回目は、B.C.586年、南ユダの最後の王ゼデキヤの時です。この第二次バビロン捕囚で、エルサレムが完全に陥落することになります。エレミヤが2回もユーフラテス川まで行かなければならなかったのは、これら一連の出来事を通じて確かな預言を受取るためです。麻の帯は、イスラエルの民が、ユーフラテス川の岩の裂け目であるバビロンに捕囚されるたとえです。その出来事のすべてが、エレミヤが行った行動預言の中に含まれていたのです。

 

2.人間のかたくなな心

10節にはイスラエルの民の傲慢について三つの問題が示されています。

第一は、「わたしの言葉に聞き従うことを拒み」とあります。神の言葉を聞こうとしない、神の判断を仰がないで自分で判断して自分の考えで進もうとすること、これが傲慢であるというのです。そこには神様が入り込む余地がありません。新しい革袋(マルコ2:22)には、古いぶどう酒を全部吐き出さないと新しいぶどう酒を入れることはしません。それと同じです。私たちが生まれ変わり、神の言葉に満たされた新しい人になるためには、それまでの自分の思い、自分の古い心を全部吐き出さなければいけません。神の言葉で自分の革袋を満たし、御言葉に従って生きること、それがへりくだっている、謙遜であるということです。もし神様の判断を仰ごうとせず自分の考えで動こうとしているなら、外面上はへりくだっているように見えても、謙遜であるかのようであっても、神の目には傲慢、高慢と見なされるのです。

第二は、「かたくなな心のままにふるまう」ことです。これも人間の高慢な心の特徴的なものです。心が堅い、頑固、強情というものです。自分の心の中で決めていますから、周囲がいくら言っても分からないのです。だから主の言葉が心の内に入って行かない、心に響かない、届かないのです。聖書の言葉は参考までに聞きますという程度なのです。どんなに主が「これが行くべき道だ。ここを歩け。」(イザヤ30:21)と言っても、この道を行くと自分で決めているので、私には私の考えがありますから、となるのです。それがかたくなな心のままに歩むということです。イスラエルの民の心は、実にかたくなでした。神様は、そのような私たちの心の奥底にある強情、頑固、誇りといった、かたくなな心を腐らせる、それがバビロン捕囚の出来事なのだと示してくださったのです。

 第三は、「他の神々に従って歩み、それに仕え、それにひれ伏している」ということです。勿論、イスラエルの民は主なる神、ヤーウェーを信じていました。でも、主だけを信じていたのではありません。主を礼拝しながらバアルやその他いろいろな神々を信じ、それらに仕えていました。盆も正月もクリスマスもお祝いする、日本人の宗教観に近いものがあります。何でも全部拝めばご利益があると言って、主なる神を信じていると言いながら他の神々に歩み寄り、それらに仕えているとしたら、自分をすぐれていると思って得意になっているのか、それが寛容な心だと思っているかどちらかです。それが自分を誇る心です。主はそうした誇りを全く役に立たないこの帯のようにぼろぼろにすると言われたのです。

ここで自己点検してみてください。イスラエルの民のように自分の誇りやプライドが勝ってしまうことがありませんか。神のことばを聞こうとせず心をかたくなにして、私は私の道を行くと言って自分の考えに固執していませんか。

その代表例は、旧約聖書出エジプト記第7章からの「血の災い」(旧104頁)から「暗闇の災い」(旧110頁)に至る十の災い物語です。エジプトの王ファラオの、かたくなな心、頑迷な心の動向が何度も何度も記されています。

一方で、主イエスは、マタイ5章3節(新6頁)で「心の貧しい者は幸いです。天の御国は、その人のものだからです。」と言われました。心の貧しい者とは、主の前で心を低くし全面的に主に拠り頼む人のことで、御国の民なのです。

 

3.片手の萎えた人をいやす

さて、今日の連続講解説教箇所マルコによる福音書3章 1-6節では、主イエスが片手の萎えた人をいやす話が書かれています。片手の萎えた人という表現は、生まれながら障害を持っていた人ではなく、ある病からその人の力が奪われたことを意味しています。他の文献によると、この人は石工であり、物乞いをすることを恥じていたので物乞いはせず、主イエスにその腕を癒してもらいたいと思っていたと記されています。

2節には、人々は、主イエスを訴えようと思って、すべての働きが禁止されていた安息日に、主イエスがこの人の病気をいやされるのかと注目していたと記されています。これに対して、主イエスは公明正大、堂々と対応されます。

3節で、片手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」といわれました。皆が彼を見ることができるように、真ん中に立つようにと言われました。主イエスは、周囲の誰もが見落とすことができない証しをするように求めたのです。

4節では、人々に「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか、命を救うことか、殺すことか」と言われました。人々は、黙っていました。ここでの主イエスの問いかけは、二つのうちのどちらか、という選択を求めています。善でも悪でもなく中間である、ということはないのです。私たちは生まれつき、神と自分の隣人を憎む方へと心が傾いていきます。もし、あなたは善か悪か、愛か憎しみか。そのどちらなのか、と問われたら、悪人ですと答えざるを得ない。それが人間の姿です。

5節にはこうあります。「そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった」のです。主イエスは、人々への怒りと悲しみの心を抱かれています。そしてその手の萎えた人をまたもや安息日に癒されたのです。

それに対して、人間の心はどうだったのでしょうか。エレミヤ書13章10節に出てきた言葉「かたくなな心」だったと記されています。「かたくな」というのは、意地を張って、自分の考えや態度を変えようとしないことを意味します。よく言えば一途なのかもしれませんが、あまり良い意味で使われることはないでしょう。頑固で強情であり、どんなことによっても自分の考えを変えようとしない様子です。人間の性です。変わりません。

  

今日の聖書箇所で言うならば、片手の萎えた人に対する無関心が最大の問題です。

主イエスを訴えようとしている人たちにとっては、律法の規定を守る方がはるかに価値を持っていたのです。主イエスが労働するかどうか、そのことだけを見ていたのです。片手の萎えた人のいやしにはには無関心でした。

これは何も聖書のここに出てくる彼らだけの問題ではありません。私たちの問題でもあります。マザー・テレサは、日本に来日した際に、無関心がはびこる日本の状況に愛の欠如を見ました。そして、愛の反対は無関心だと言いました。無関心という漢字は、関係を持とうとしない心と書きます。憎しみと無関心は違うのかもしれませんが、結局のところは相手を愛さないのですから同じことです。

 人間のかたくなな心のゆえに、主イエスの十字架への道行きが始まります。

かたくなな心の持ち主である私たちの罪を赦すために、その罪を私たちの代わりに背負って十字架に架かるために、十字架へと主イエスは向かわれるのです。私たちのかたくなな心を柔らかな心へと造り変えてくださるためです。

私たちはかたくなな心の持ち主かもしれません。しかしキリストは、「真ん中に立ちなさい」(3節)と私たちに声をかけてくださる方です。そして人々の罪を怒り、悲しみ、人間のかたくなな心を憐れんでくださいます。そして、「手を伸ばしなさい」(5節)と言って、私たちを赦し、受け入れ、愛してくださいます。このキリストの心が分かってくると、キリストの十字架の意味が自分のものとしてよく分かってきます。キリストの赦しと愛が分かります。このキリストの心が、私たちの心を変えていきます。かたくなな心が溶かされて柔らかくなっていくのです。


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