【聖書】
使徒言行録20章7~12節
7:週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。
8 :たしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。
9 :ウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。
10 :パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒ぐな。まだ生きている。」
11 :そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。
12 :人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。
今日の聖書箇所では、パウロの第三回次宣教旅行が最終ステージにはいりました。パウロの一行が、エルサレムに戻るために、ギリシャからエーゲ海対岸のトロアスに集結しました。
この聖書箇所から、東京神学大学で学び始めた私たちが受け取るべきことについて、三つの視点からお話しさせていただきます。
第一点は、「トロアス」についてです。
第二の視点は、パウロの三回にわたる宣教旅行の「果実」の確認です。
第三点目は、、「いのち(魂・心)=プシュケー」の問題についてお話しします。
早速、第一点目の「トロアス」についての話から始めさせていただきます。
私は昨年、2019年6月に仕事を終えて、東京神学大学に編入学する準備を始めました。
退職記念旅行として、この聖書箇所で出て来るアナトリア半島の西海岸のトロアスやエペソスなど、当時アジア州と言われていた現在のトルコを訪ねました。トロアスは、ギリシャ神話の「トロイの木馬」で有名なトロイとは20kmくらいのところにある港町です。トロイには、古戦場の遺跡もあり、観光用の大きな木馬の模型をバックに記念撮影をしてきました。トロイは、多くの観光客を迎える体制が整っていましたが、トロアスの遺跡は城壁の跡が残っている程度で観光地として整備されてはいません。いずれにせよこの地域は後背地の山が入り組んでいるので、Wifiがつながらないところが多く苦労しました。最初から、話が脇道にそれてしまいましたので、この私の旅の話はここまでにしておきましょう。
聖書に戻ります。トロアスをキーワードにして、当時の様子を整理してみましょう。今日お読みした聖書箇所の少し前、使徒言行録16章6節以下を見ますと、パウロが第二次宣教旅行を始めたときに、「アジア州で御言葉を語ることを禁じられた」ので、「トロアスに下った」(16:6、7)と書かれています。パウロが宣教活動を祈りながら進めていたことが分かります。すると、マケドニア人の幻を見ました。そして「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」(9節)と言われたのです。そしてパウロとルカは「神が私たちを召されているのだと、確信するに至った」(10節)と言うのです。すなわち、パウロがヨーロッパ宣教の召命を受けた記念すべき場所が、トロアスであり、ここから西回りのヨーロッパ宣教が始まったのです。
そして、今回お読みした20章は、第三次宣教旅行の終焉で、ギリシャのフィリピからエーゲ海対岸のトロアスまで戻って来たのです。パウロのヨーロッパ宣教の初めと終わりの記念となる地が、トロアスです。私たちそれぞれに、いくつもの人生の嵐が待ち受けています。ある日自分の足跡を振り返ってみたとき、自分の出発点、あるいはいつも緊急避難する港があることに気付くのです。このような気持ちで、私は今、この東京神学大学がパウロにとってのトロアスのような港となることを祈っているのです。
第二の視点は、「宣教の果実」の確認です。
パウロは、三回に亘る宣教旅行を終えようとしていますが、その働きが聖霊に満ちたものであったからこそ、あちこちでユダヤ人たちの反感をかっています。今や、旅の安全が心配される状況になっていました。しかし一方では、宣教の恵みの果実が、着実に実っていることが分かります。ハレルヤ!
トロアスでトロアスでの出来事を少し詳しく見ていきましょう。
7節の最初に「週の初めの日」、「パンを裂くために集まっている」とあります。
「週の初めの日」に、聖餐にあずかるために集まっていたということは、キリスト教徒たちが「日曜日に礼拝を行うようになっていた」ことが分かります。当時、日曜日は休日ではありません。人々は一日の労働を終えてから、夜の集会に集まって来たのでしょう。仕事を終えてから礼拝に出席すると一言で言いますが、出席するための時間を調整することは、とても大変なことです。しかし、8節には、「たくさんのともし火」があったと書かれおり「大勢の人が集まっていた」ことが分かります。
日曜日に礼拝を捧げる、熱心なキリスト教徒たちが生まれてきている様子が、「宣教の果実」として実っていることが分かります。
最後の第三の視点が、今日のメインテーマです。
「生きている(=プシュケーがある)」についてです。
パウロは翌日にトロアスを出発する予定だったようで、その集会は夜中まで続いていました。そして、エウティコという名前の一青年が、眠りこけて三階から下に落ちて死んでしまったのです。使徒言行録は、医者のルカによるものです
その医者のルカが、ギリシャ語のネクロス(死体)という言葉を用いて、「起こしてみると、もう死んでいた」(9節)と書いていますから、確かにこの青年は3階から落ちて死んだのでしょう。この事故が発生したので、パウロは説教を止めました。パウロは、下に降りて行き、その青年の上にかがみ込んで、抱きかかえて「騒ぐな。まだ生きている。」と言ったのです。この箇所を、ギリシャ語原典の聖書を見て直訳すると、「彼のプシュケー(=いのち・魂・心)は彼の内にある。」とパウロが言ったとなります。
医者のルカが確認した青年の転落死の出来事で礼拝がいったん中断されました。私たちの日常では一時停止や中断はつきものです。しかしパウロの「まだ生きている」という言葉で、礼拝は、再び続けられました。このトロアスの集会は、何事もなかったように、夜明けまで続けられています。
青年の甦りについては、それほど際だった形でここでは書かれてはいません。それでも、最後の12節で、「人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。」と記されています。当時の信仰の共同体が、先ずは礼拝を第一として大切にしていることがわかります。一般的に中断で終了してしまうということは、惧れとあきらめと死によってなされるものです。トロアスの教会では、この青年の転落死によって、礼拝は一時停止しましたが、すぐに甦りの希望をもって再開されているのです。
そして礼拝終了後は、甦った一人の青年と共に、感謝の祈りを続けて慰められていることが確認できます。トロアスの教会には慰めがあり、励ましがあったのです。
このトロアスの青年エウティコのように、私たちは疲れを覚えて居眠りをしてしまう者です。それでもイエス様は、私たちの肉体の弱さを知っておられ、私たちをいつも執成してくださり、憐れんで、涙してくださる方です。そして、宣教の魂・心を持っている私たち一人一人の名前を呼んでくださっています。また、本当に必要なときには抱きかかえてくださり、魂・心を揺り起こして、福音を宣べ伝えよと仰ってくださるのです。
世界中がCOVID-19で足踏みをしています。しかし私たちは、この東京神学大学においてWebexを活用しながら、一歩一歩確実に前に向かっています。私たちの歩んでいる道は主が招いてくださった道です。行き詰ることはありません。この道は一時停止はあっても中断されることはないのです。
共に学ばせていただく恵みの中にいることに感謝して、神様の栄光を称えながら一緒に歩んでまいりましょう。
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