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執筆者の写真金森一雄

倣う者(フィリピ3:17-4:1)

更新日:6月27日

本稿は、東京神学大学夏期伝道における、2021年8月20日の指路教会祈祷会の奨励をとりまとめたものです。       神学生  金森一雄



8月20日(金)午後8時Web祈祷会

説教題:『傚う者』

新約聖書: フィリピの信徒への手紙3:17-4:1


17:兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。

18:何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。

19:彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。

20:しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

21:キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。

1 :だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。


 

 パウロは、アジア州の最も西側に位置する港があるトロアスで、一人のマケドニア人が「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてくだい」という幻を見ました(使徒16:9)。その幻を見たとき、「マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと確信」(使徒16:10)しました。そして、トロアスからエーゲ海を西に向かい、ヨーロッパ側の港、マケドニア州のネアポリスの港に着き、すぐにフィリピの町に入りました(使徒16:11)。フィリピの信徒への手紙が書かれる10年位前のことです。


 フィリピの町は、パウロが主の見えざる力によって招かれて、ヨーロッパでの御言葉を語ることになった最初の町です。以来、フィリピの信徒とパウロの連帯関係は緊密なものになっていました。フィリピ信徒への手紙で、「あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。」(1:4、5)と、パウロが語っている通りです。


 直前の3章では、パウロはかつての自分のことを、わたしは「教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」(3:6)と語っていますが、同時に、今では「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(9b〜11節)と、現在のキリスト者としての信仰を明らかにしています。


 本日の聖書箇所の17節を御覧ください。その上で、パウロは、「わたしに」と一人称単数形を用いて、皆一緒に「わたしに倣う者」となりなさい。(17節)と語ります。そのことは、かつて信じていたユダヤ人の「律法から生じる義」ではなく、十字架の福音に生きる者として「信仰に基づいて神から与えられる義」によって歩んでいる「わたしに倣う者」になりなさいと、フィリピの信徒に勧告をしています。


 すなわち、フィリピの教会の中に、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多い(3:18)と聞いていたパウロは、十字架の福音を信じて生きる自分を模範とすることを勧め、同時にわたしの卑しい体といって、自分の不完全さを告白して自分の救いを保証するものは自分の側には見出せないと語り、その上で、「わたしの卑しい体を、(キリストは)御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」(3:21)と、自分の信仰の確信を一気に語っていくのです。


 今日の祈祷会では、少し丁寧に聖書の言葉に耳を傾けていきましょう。

 パウロは17節の後半では、「また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」と語ります。「わたしに倣う者」へと語りかけたすぐ後で、「わたしたち」という一人称複数形を用いています。


 ここの「わたしたち」とは、漠然と複数形を用いた言葉ではありません。パウロは、2章19節以下で、「わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています。テモテのようにわたしと同じ思いを持って、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。」(2:19、20)と、テモテをフィリピの教会に派遣する考えを語っていますから、このテモテのことを指しているのでしょう。さらに、「テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。」(2:22)と、テモテのことを推奨しています。後にテモテを反対者で揺れるフィリピの教会に遣わすことも主のご計画の中にあったことなのでしょう。そして、少なくとも、パウロとテモテを模範として歩んでいる人々が、フィリピの教会にいたことが分かります。


 ところがパウロは、以前からフィリピ教会の中に「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者」(1:15)がいる、とも記しています。その後には、「反対者たちに脅されてたじろくことはない」「反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです」(1:28)と、その存在を危惧しながらフィリピの信徒たちを励ましていました。ところが、3章に入ると、パウロの口調がさらに厳しいものに変わっています。


 「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。」(3:2)と言って、反対者たちを、吠え立てる犬であり、邪悪な気持ちや正しくないことを企てる心を持つ者、割礼を与えられているという優越感を抱いているだけの者と注意喚起して、断罪する激しい言い方に変わっています。パウロの危機感が伝わってきます。


 そしてこの18節では、「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。」と、「十字架に敵対して歩んでいる者」という表現を用いて、十字架の苦しみを受けてくださったイエス・キリストを必要としていない者が多くなっていることを、涙ながらに告げているのです。悲しいかな、フィリピ教会の事態はますます悪化していたのです。


 ここまでパウロに言わせる、彼らとは、フィリピ教会の中でキリストを信じると言いながら、自分は割礼を受けていて律法を守っていると、自らの義をかざしている人たちのことで、自分がキリストによって赦されなければならない罪人であることを認めていない人たちのことです。当時のフィリピ教会の中でそうした人たちの勢力が増していました。


 彼らは、パウロが勧めるような、キリストの救済のみとして神から与えられる義によって、終末に復活にあずかることを唯一の目標として希望を持って生きることを拒みます。反対者たちは、救済の出来事としてのキリストの十字架の死と復活を退けて、割礼と律法の遵守による自分の義を主張していたのです。彼らは、すでに割礼と律法の遵守によって自分たちは復活にすでにあずかっている、キリストをすでに得た、救いはすでに手中にした、将来に復活を期待する必要はない。自分たちは、律法に由来する義に生きる、すなわち自分の業に救いの保証を見出そうとして自己充足に生きる生き方をしていたのです。


 これに対してパウロは、3章11節で、「何とかして死者の中からの復活に達したい」と表現しています。キリスト者である自分たちは復活にまだあずかっていないばかりか、将来においても決して自動的にあずかれるものではないと考えます。そしてパウロは、何とかして死者の中からの復活に達したいという、人間の弱さの先にあるものを望む覚悟の言葉となっているのです。すなわち、パウロは律法から生じる自分の義、人間の自己充足によっては、復活にあずかれないという人間の弱さを覚え、自分を含めたすべての人間の力に対する限界、絶望を告げているのです。しかし同時に、その人間の弱さの中にこそ、人間を本当に生かす唯一の可能性として神さまからあたえられる義があり、人間にとって真の自己を生かす希望となることを示しているのです。


 パウロは19節以下では、揺るぎない態度で反対者たちを論駁して行きます。

そのため、パウロは彼らが問題ないと主張していた、①完全と②神と③誇りの三つの言葉を取り上げて語ります。①彼らが完全だと考えている行き着くところは永遠の死すなわち滅びであり、②彼らが神だとしているものは肉体の腹であり、③彼らが誇りとしているものは恥ずべきものであると、たたみかけます。


 キリストの救いを必要としない彼らは永遠の死の中にいることになり、彼らは腹すなわち肉を神としているので、肉を信頼して肉に仕えて生きることとなり、さらには、自分の義によって栄光は霊的な意味ですでに実現していると主張している彼らが誇っているものは、恥以外の何ものでないと語ります。彼らは、パウロの語る福音とは真逆の結果に至る、彼ら流の宗教的な熱心さは滅びを招くことに過ぎない、と批判するのです。さらには、彼らは「この世のことしか考えていません」(19b)と断定して、将来において彼らが受ける審判について宣言しているのです。


 そして20節では、「わたしたちの本国は天にあります」という、反対者たちが好んで用いていた表現を用いて、踏み込んで福音を語ります。困ったことに、彼らは地上にありながらも自らの義によって本国の国籍を得ていると考えて、自分たちの本国は天にあると主張していたのです。これに対して、パウロは、キリストの再臨を信じる自分たちキリスト者の本国こそ天にあると語り、その天から主イエス・キリストが救い主として来られて自分の卑しい体をキリストの栄光ある体と同じ形に変えてくださる、つまりその時にキリストによって罪人である自分が救われるのであり、それまでは卑しい体のまま歩むのであり、彼らのように律法を守るという自らの義によって、この世の歩みの中で完全だと考えてはならない、と説明しているのです。


 このように、パウロはここで救いの教義についてふれて、反対者たちとの論点の相違を明確にします。その上で、キリストを信じて固く離れないで自分たちの終末時の救いを待望していることを、天から「イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(20b)と、福音の希望を語っているのです。


 さらにパウロは、「わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(21)と語っています。卑しい体とは、わたしたちのこの世における、罪に汚れた神聖でない汚らわしい体という意味ですから、パウロにとっては人間の生すべてを表現する言葉です。ここでキリストの再臨の時に人間の卑しい体をキリストの栄光ある体と同じ形にキリストが変えてくださることを確信して、そのときまではわたしたちは卑しい体のまま歩むのであり、反対者が主張するように、律法を守るという自分の義によってこの地上で完全になってしまうことはないのだとはっきり語っているのです。


 そして締め括りの言葉として、「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち」(4:1)と、「兄弟たち」という鍵となる言葉が再び登場します。冒頭の「兄弟たち」という言葉とここの同じ「兄弟たち」という目印となる同じ言葉の間に囲い込んで、わたしに倣う者となりなさい、十字架に敵対して歩いている人々のように自分のもっているものや自分の力に頼ることはやめなさい、「主によってしっかり立ちなさい。」(4:1)と、フィリピの信徒に向けて涙ながらに語っているのです。


 わたしたちが、パウロに倣うべきことは、何よりもまず、キリストの十字架による罪の赦しにのみ、より頼んでいることでしょう。そこから、教会において共に、再臨による救いを待ち望むことができるのです。この地上にあって、自分の正しさや知識にすがることに陥りがちな自らの姿を恥じ入ること大です。パウロに倣う者として、天にある約束された救いを信じる者として、主の恵みの中に生かされている者として、歩ませてくださいと祈る日々が続きます。





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